猫と羊と不滅の記憶 4
塩気がほのかに家のほうから香ってきたと思ったら、メイが盆を持って木戸を開けて外へやってきた。
メイは我々の姿を確認すると、こちらに向かってやってきた。
「おはようふたりとも。ルナちゃんさっきすごい声出してたけどどうしたの?」
メイは俺に軽く会釈をすると、俺が会釈を返すのと同時に、ルナのほうを向いていた。
「どうもこうもありません! 望さんに突然背中から水かけられたんですよ!」
「あー、そういうこと」
「うう、すみません。メイちゃんのお母さん起きませんでした?」
「あー⋯⋯大丈夫。多分聞こえてないよ」
「ならよかったです」
ほっと一息ついて、俺をキッとにらみつけるルナ。正直、全く怖さを感じない。
「さ、じゃあ望さん。これ食べたらさっそくお願いします。ルナちゃんも一緒にどうぞ」
「かたじけない」
メイから盆を引き取ると、4つの椀に米らしきものと葉の浮いた汁物があった。
「私の分も⋯⋯ありがとうございます」
盆を上からのぞきながらルナが言った。
「いいのいいの、ついでだから。じゃあ私はまたあとで。望さん、もしわかるならあの子たち外に出してあげてください」
「あ、ああ⋯⋯」
まだ何も教えてもらってないが、メイは言い終えると家のほうに戻ってしまった。
まあ、羊を放したりえさを与えたり掃除をするくらい、教わらなくてもできるだろう。
盆を持って小屋に戻り、さっそく作ってもらった朝食をいただく。
やはり糧はいい。食べているだけで力がみなぎってくるのを肌に感じる。
米かみしめ、塩気のきいた汁をすするたび、晩年の
「流動食は嫌だ。もっと固い米と麦を食わせろ」という渇望が満たされてく。
「どうですか。食べ物は望さんの世界と比べて」
向かい合って座って食事をしているルナが顔を上げる。
「今のところあまり変わりはないな。米の量が多い気がするが」
「あまりお米食べなかったんですか?」
「ああ、もっと麦とかいろいろなものが混ざってたな」
「そーですか」
納得したように椀に桃色の唇を密着させ、汁をすするルナの所作が、なんとも優雅に見える。
「なあルナ、彼女⋯⋯メイの家族は母親だけか」
「どうしたんです急に」
わずかな汁を残して椀を置くと、ルナは大きく瞬きをした。
「いや、さっきの会話で気になってな。あの子が牧場を管理してるみたいだし、他に家族はいないのかと」
「なるほどぉ。たしかお母さんと、少し年の離れたお兄さんがいたはずです。昔から出稼ぎに行ってるらしくて、私は小さいときにちょろっと見ただけなんですけどね」
「出稼ぎか⋯⋯大変だな」
となると母親も牧場のほうにはかかわらずに別のことをしているのか家にいるのか。ある意味では俺はその出稼ぎに行っている兄に感謝しなければならない。
おかげで済む場所と仕事を手に入れることができた。
朝食を食べ終えると、ルナに食器を任せて俺は羊たちがいる小屋に向かった。
屋根の下で飼われた羊たちは、柵に囲われ、藁の上で各々過ごしていたが、俺が来るとなぜか一斉にこちらを向いた。
何か気に入らないことでもあるのかと思ったが、別に鳴いたり威嚇するわけでもなく、ただ漠然と見ている。
羊たちはみな肉付きがよく、もこもことした毛も相まって丸々太って見える。
中にはおなかを大きく張っているものもいる。
とりあえず、柵の一部で形が異なった部分の取っ手を引くと、自然と開き、羊たちはのそのそと外に向かって歩き出した。
なぜかみな外へ出るたび、俺を一瞥していくが、何の意味があるのだろうか。
羊たちが出ていった小屋を確認すると、ところどころにフンが転がっている。
これも掃除しなければだが、いったいどこに捨てたらよいのだろうか。
小屋にはいろいろと道具があるが、どれを使えばいいのか。 フンを拾うだけならなんでもよさそうだが、捨てる場所がわからない。
きょろきょろと探していると、様子を見に来たのか、ルナがやってきた。
「どうしたんですか。探し物ですか?」
「ああ、うんちを捨てる場所がわからない」
「うんちって⋯⋯かわいい言い方しますね⋯⋯」
こっちは真剣に困っているというのに、くすくすと笑いながら、ルナは小屋を物色した。
すると歩き出し、小屋の端にあった腰の高さくらいの蓋つきの桶の前で止まり、その蓋を開けてすぐに閉めた。
見つけてくれたのか、ルナは鼻をつまみながらこっちを見た。その姿が少々滑稽だ。
「これですよ。この中に入れたらいいみたいです」
「そうか、ありがとう」
さっそく桶のもとへ向かい、柵の中へ運び入れる。
とりあえず立てかけられていた先端が平たい棒を持ち、フンを拾って桶の中に入れていく。
「望さん匂い平気なんですか」
作業している俺を、柵の外に手をかけながらルナが見ている。
「いっただろ。俺は昔羊を飼ってたんだよ」
「あー、じゃあ天職じゃないですか」
「そうだよ。できることなら死ぬまでここにいたい」
「まあ好きなだけいたらいいと思いますけど。メイちゃんに捨てられるまで」
どうしてルナはそんな背筋が凍るようなことを言うのか。もうすでに個々の居心地は素晴らしいのに、出ていくことなんて考えたくない。
フンを拾い終え、桶をもとの場所に戻した。
おそらくこのフンは農家が買い取りに来るはずだ。俺も昔、いろいろと買い手と論戦しては、高く買い取らせていたものだ。
小屋から離れると、羊たちは思い思いに外で過ごしていた。
きれいな桶が小屋の前にいくつかあったので、それらを持って井戸へ水を汲みに行った。
今朝見たものは幻でもなく、井戸の上にはやはり車輪があり、そこに縄がくっつくように周りに沿ってぶら下がっている。
何の意味があってこの車輪があるのかわからないが、なんとなくぶらぶらと揺れている縄を持って引っ張ると、するっと井戸の中から桶が昇ってくるのがわかった。
驚いて手を離すと、井戸の中から桶が水面にたたきつけられる音が反響した。
「おお」
もういちど縄を引っ張ってみると、するすると軽やかに桶が上昇してきて、上まであっという間にやってきた。
朝苦労して両手で水を汲んだのはいったい何だったのか。この車輪ひとつのおかげで随分と楽ができた。
「便利だなこれ」
羊が水を飲むための桶に水を注ぎ、また井戸に付属の桶を投げ入れて持ち上げる。
文明って素晴らしい。商王朝もくだらない祭事や人身御供に力を入れるくらいなら、こういった生きている人間の役に立つものを追及してほしかった。
ところどころに水桶をいくつか置いて、羊たちを見守る。
とくに異常もなく、のどかで平和な時間が流れる。
一度様子を見に来たメイは俺がそつなくこなしていることを確かめると、また家へ戻っていった。
もしかしてだが、家にいるという母親の看病でもしているのだろうか。
「望さーん。見てくださいよぉ」
柵にもたれかかりながら見守っていると、羊にまたがったルナがこちらに手を振っていた。
「いや何やってんだあいつ⋯⋯」
ルナはまるで、馬にまたがる遊牧民のように太ももで均衡を取りながら、体をひねって手を振っている。
あんなことしてたら羊がかわいそうだし、ご近所さんに白い目で見られるのも間違いない。
すぐにやめさせなければと駆け寄ると、ルナを乗せた羊はこちらに向いて、俺をにらみつけてきた。
実際に睨んでいるのかはわからないが、とにかくそんな気がする。
「あー、大丈夫ですよぉ。この人は悪い人じゃありませんから」
ルナはそう言いながら羊の頭をなでている。
「いや、なんで俺が悪者になってるんだ。早く降りろ、馬鹿」
手を払いながら羊に乗ったルナを睨むと、なぜか羊が一歩迫ってきた。
完全な威嚇行動を取っているわけではない。それでも、ルナが上にいなければ攻撃してきそうな雰囲気がひしひしと伝わる。
「ほらほら落ち着いて。この人はあなたのことしんぱいしてきてくれたんですよぉ」
「なにその態度、その子が何考えてるかわかってたりするの?」
「へ? はい。わかりますけど」
「さらっとすごいこと言ったな⋯⋯」
「私は大きめな動物さんとなら意思疎通が取れるのでぇ。この子が乗っていいって言ってくれたから乗ってるんですよ」
「そうなのか⋯⋯やっぱり化け物じゃないか」
たしかに羊は普段おとなしいとはいえ、無理やり乗られたりしたら起こるはずだ。
それよりも、動物と意思疎通ができるという発言が気になって仕方ない。
俺が死後どう想われているのかわかったり、やはり人間ではない怪物ではないか。
「もー失礼ですね。ただちょっと変わってるだけですよ」
「ちょっと変わってるなんて程度の話じゃないだろ⋯⋯そなたは俺の世界にいたら本物の神になれたぞ」
「えー、それはもったいないですねぇ。この世界じゃ私の存在は普通ですから。普通」
当てつけのように普通という単語を繰り返しながら、ルナは羊に乗って離れていった。
心なしか、去り行く羊の背中から恍惚感のようなものがにじみだしているように見えた。
あんまり考えたくないが、羊の世界にもいろいろな趣味嗜好があるようだ。
あんなもの好きは放っておいて、俺はその日、妊娠している羊を重点的に観察し、夜になったら皆を小屋に返した。
夕暮れ、「1日お疲れ様です」とねぎらいの言葉をメイから頂戴し、夕食を受けとった。
俺もルナも同じ献立だが、ほぼ1日羊と遊んでいたルナと、フンの清掃をしたり周りに野犬や家畜泥棒がいないか神経を張り巡らせていた俺の食事が変わらないのは、なんだか納得がいかなかった。
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翌日、フンを回収しに来た男に代金を貰い、この世界の貨幣が薄い円形の鉱物に文字や模様を掘ったものだと知った。
俺の世界では貝殻が通貨だったとルナに説明すると、「それこの世界も一緒ですよ⋯⋯1000年以上前の話ですけど」と戸惑いながら教えてくれた。
俺が生きた時代から千年前というと、禹王が黄河の洪水を治めたころだろうか。随分と果てしない時間だ。
そんなふうに時間は流れ、7日が経過した。
その間変わらずルナは羊に乗って遊んでいたが、俺の方は特に何も起きなかった。
そろそろ妊娠していた羊は子供を産みそうだ。
お尻のあたりが赤くなっていた。
それをメイに伝えると、「では少し夜も見てあげないとですね」と言っていた。
俺なんて昔、羊の出産が近づいても特に見守ったりせず自然の流れに任せていたから、メイの羊に対する愛情に感心した。
そしてさらに3日、蝋燭というなにかの油を固めてそこに火を灯す便利な道具で羊小屋を照らしていると、ついに生命の誕生の時がやってきた。