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猫と羊と不滅の記憶 3


 羊たちの視線を感じながら、メイについていく。

 太陽がはるか向こうに傾きかけるのを眺めると、改めて俺はよく分からないところに来てしまったのだと身に染みた。


 大きな家屋のそばにある背の低い建物の前まで来ると、メイは壁から突き出たような細い木の長方形の取っ手を掴んだ。それを手前に引くと、板の一部が外側へ開き、中の様子があらわになった。

 床は黄土で固められ、四方の壁の隅には、大量の荷が無造作に置かれている。

 中には武器になりそうな荷もある。家畜泥棒対策だろうか。


「この中に敷くものがあるので⋯⋯ああ、あったこれこれ」


 メイは中に入りながら、荷のひとつを持ち上げた。

 四角く畳まれた布を無造作に広げながら地面に敷く。

 すると、大人五人ほどが雑魚寝できそうな広さの空間が現れた。


「布団は後で持ってくるので、とりあえず今はゆっくりしてて。水は井戸から好きに汲んで、食事は私が持ってきますから」


 手の土ぼこりを払いながら、のんびりとした口ぶりでメイが説明する。

 それにしても、ここは倉庫らしいが、倉庫にまでわざわざ壁と屋根を造るとは、この世界恐るべし。


「なにからなにまでありがとうございます。このお礼はいつか必ず」


 ルナが靴を脱ぎながら敷かれた布の上に乗る。まさかこの敷物の空間で彼女と過ごさなければならないのか。

 孫や子供たちに見られたら何を言われるだろうか。


「母以外の女を側に置かなかった父上がそんな化生と⋯⋯」


 なんて風に驚かれるところを想像していると、息子が生きていたころを思い出して侘しさを覚えた。


「いいよ、その分働いてもらうしね。じゃあまたあとで」


 メイはルナと俺に手を振ると、小屋の外へ出て行った。

 ルナは膝をたたんでぺたんと尻を地面につけて座りながら、一息つくように声をもらした。

 俺は部屋を出ることもなく、ルナに近づくわけでもなく、呆然と天井を見上げ続けた。

 天井はいくつも交差して屋根を支える木材がむき出しになっていて、鼠なんかが嬉々として走りそうな構造になっている。


「ルナ⋯⋯本当にここに住むのか」


「へ? ここは不満ですか」


 天井から視線を移すと、ルナはあどけない顔で俺を見つめながら口角を上げた。


「ここは十分すぎるくらいだが、はあ」


 あまりにも鈍感なルナに対してため息が漏れる。猫は感覚が鋭敏なはずなのに、この娘はどうなっているのだ。


「あー。もしかして望さん、私とひとつ屋根の下で暮らすの照れちゃってるんですかぁ?」


「は?」


 突然にんまりと頬を上げながら、ルナは甘ったるい胸焼けしそうな声を出した。語尾が少し伸びているのが腹立たしい。


「大丈夫ですよぉ。私は望さんと一緒はウェルカムなので、気にしないで望さんの好きにしたらいいんですよぉ」


「う、うぇ、うぇるか⋯⋯? また知らない言葉を⋯⋯」


「大歓迎ってことですよぉ」


「だったら最初からそう言ってくれ」


 若い女が⋯⋯というか今は俺も若いから若い男女が結婚しているわけでもないのに同じ家で暮らすとはいかがなものなのか。

 この世界と俺のいた世界では貞操観念に差があるのだろうか。俺なんて結婚するまで妻とふたりきりになったことさえなかったのに。


 今も俺をからかうように目と口で笑っている猫耳娘をお礼だけ言って無理やりにでも放り出したい衝動を抑え、あきらめて俺も靴を脱いで布の上に座る。

 布は表面がざらっとしていて、細かい毛のようなものが立っている。何の素材を使っているのだろうか。柔らかく、この上で眠るだけで気持ちよさそうだ。

 しばらくぼーっとしていると、メイが藁の筵をふたつもってきてくれた。


「では望さん、さっそく明日からお願いします」


「承知いたした」


「⋯⋯では明日朝こちらに来ますね。あとで夕食も持ってきますが」


 一礼すると、またメイは小屋から出ていった。


 退屈になり、ルナがいろいろと話しかけてくれることを若干期待していたかもしれない。

 しかしルナは座ったまま意識がどこかへと飛んで行ったかの如く、茫然と天井を見上げて俺なんていないかのように過ごしていた。

 狭い空間での沈黙がこんなにつらいのかと、俺は耐えきれなくなって口を開いた。


「あの子とは仲いいのか」


 だが返事はない。ルナは口をぼんやりと開いたまま、ずっと天井を凝視している。


 天井を確認しても、特に何もない。鼠が這ってたりするのかと思ったが、そんな様子もない。


 ルナに聞こえるようにわざと咳払いをして、もう一度声をかける。

 それにしても、年を取ると咳払いが巧みになるのはなぜだろう。


「あの子とは仲いいのか」


「へ?」


 咳払いの効果もあってか、今度は気づいてこちらを見た。


「仲いいですよ。最近は私がこの町にいなかったので会ってなかったですけど」


「どんなふうに知り合ったか聞いてもいいか?」


「え、どうしたんですか望さん。メイちゃんのこと気になってるんですか」


 ルナは左手を口元に添えながら、目を三日月のようにした。


「どちらかといえば気になってるのはルナのことだがな」


「えっ⋯⋯」


 戸惑いの声とともに、手を口元からずらしながら、三日月だった目が満月のように丸くなった。

 

「そなたがどうやってあのいたって普通の少女と仲良くなったのかが知りたい。よく受け入れられたな」


「あー、そういうことですかぁ」


 今度は満月になっていた双眸が長方形のようにまっすぐ平行な線をつくり、その口元にはわずかな怒りが滲んでいるのか、下唇がぴくっと震えた。


「別に、小さいころに普通に仲良くなって、それが今も続いているだけですよ」


「なるほどなあ」


 俺が過敏に反応しているだけで、この世界でルナの存在は当たり前にあるものなのだろうか。

 思い返してみると、街を歩いていても普通にルナに挨拶をする人間はいたが、奇怪な目で見る者はいなかった。

 あの世界にルナがいたら、神への捧げものとして殺されるか、帝辛の寵愛を受けるかのどちらかに違いない。


「その縁のおかげで助かったよ。感謝する」


「⋯⋯望さんってそういうところすごく素直ですよね」


「普通だけどな。あ、そっちの企みには加担しないからな。何考えてるかわからんが」


「その点はお構いなく。どうせ望さんは何もせずにはいられない人だと思うので」


 意味深にルナの目じりが笑う。果たして何をさせるつもりなのか。見当がつかないが、ある程度頭の中で意識しておこう。


 夕刻。メイが持ってきた食事は美味だった。

 あまり見慣れない穀物や肉があったのが新鮮で、味に不安はあったが、たまたま俺の好みに合ったらしい。

 晩年は噛む力が弱まり、ほとんどドロドロに溶けたような穀物を口から摂取するだけだったので、十何年ぶりに食事の楽しさを見いだせた。

 

 その日の晩、さすがにこの世界での生活を不安に思ったのか、死の間際まで愛用していた釣竿を抱いて筵に寝転がった。

 部屋の明かりを消すと、ルナはあっという間に眠りに落ちた。まるで幼い玄孫のようだった。


 竿の冷たくざらざらとした感覚がやけに心地が良かった。

 頬を寄せると、この竿を手に入れた時のこと、そしてこれを作ってくれた彼が商の兵士に殺された時のことまで思い出し、胸が焼け焦げるような気がした。

 それでも人は眠たくなると眠ってしまうことで、気がつくと懐かしい夢を見ていた。



 昔住んでいた家に帰ると、妻が生まれたばかりの赤子を抱いて子守唄を歌っていた。

 小さな家なのに、夢中になっているのか、俺が帰ってきたことに気づいていない。背を向けたまま腕を上下に動かし、息子を揺すっている。

 そこに後ろから義父がやってきて、妻の前に腰を下ろすと、初孫をうれしそうに眺めながら、妻から赤子を受け取って抱き上げた。

 子を手放しても、妻はこちらを見ようとせず、茶色い布にくるまれた息子も、祖父に夢中で父である俺を見ようとしてくれなかった。

 俺が妻たちの元へ行けばいいのだが、どうしても足が動かない。声をかけようにも、喉に縄でもかけられているかのように声が出なかった。


 理由は分かっている。昔の妻と息子の顔が思い出せず、見るのが怖いからだ。

 このころの俺は、商への復讐しか頭になかった。

 同じ志を持つものを探し、武技を磨き、いつどこで事を起こすかということしか頭になかった。

 妻と子を顧みることがなく、わずかな銭を稼いでは家に入れ、ふたりの顔をまともに見ようともしなかった。


 そんな俺だから、夢の中でも妻と子に向き合うことを恐れてしまうのだ。

 見たところで、俺の知らない他人の姿が浮かび上がるのではないかと、怯えてしまうのだ。

 商が滅び、斉の地に封じられてからも、この夢は時々見た。そのたびに目を覚ますと、頬が湿っていたものだ。


「すまない⋯⋯」


 目を覚ますと、格子状の窓の外はまだ薄暗かった。

 ずっと抱き寄せていた竿を手放し体を起こすと、案の定筵の一部が湿っている。


 すぐ近くには、今も心地よさそうに寝息を立てているルナがいた。

 ルナの寝顔からは一切の悩みや苦悩というものが感じられず、それが少し妬ましかった。

 凝った肩を回し、腰を伸ばしながら立ち上がって外へ出ようと、メイの見よう見まねで、木戸についた小さな長方形の木を引いた。

 壁に引っかかっていた木戸が取れ、外からの風が吹き込む。

 昨日の昼間と夜は暖かいくらいだったが、朝は少し肌寒い。

 開けっ放しにしているとルナが風邪をひくかもしれないので、急いで戸を閉める。

 まだほんのりと星の姿が確認できる空の下には、羊たちの姿はなかった。

 あたりを見渡すと、また別の三角屋根の小屋があり、たぶんそこに羊たちはいるのだと考えられた。

 年を取って全てを息子に譲ってからは、今のような暁闇の刻から釣りに出かけることが多かったので、目は慣れている。

 小屋の隣の、メイが暮らしているであろう家に目を向けると、どこからか炊事の湯気が立ち込めていた。

 空へと舞い上がる湯気を眺めていると、後ろの方から木戸の開く音がした。

 そこには目を擦りながら大きく欠伸をするルナがいて、きょろきょろと首を回し、俺を見つけると動きを止めて歩き出した。


「あはようございますぅ⋯⋯望さん早いですねぇ」


 その声はまだ夢うつつというふうな様子で、最後にはまた大きく欠伸をして言葉が途切れた。


「年寄りは起きるのが早いんだよ」


「いや、だから今の望さん年寄りじゃありませんから」


「それでも長年の習慣は抜けてないんだな。死んだのにどういうことだ?」


「さあ⋯⋯私に言われても分かりませんよ」


 そう言いながら、ルナは三度目の欠伸をした。

 やはり猫だから睡眠が足りないのか。それなら俺が目を覚まさせてやろうと、ひとつ妙案を思いついた。


「ルナ、目を覚まさせてやるからちょっとこっち来てくれ」


「ん? なんですか?」


 歩き出すと、何も疑う事なくとことこと目を擦りついてくるルナ。

 俺は井戸に向かって歩き、水を汲み上げた。

 久しぶりに井戸から水を汲むのは、桶や水の重さが伝わって腕が痛くなったが、やはり身体が若返っているのか、それなりの力が発揮された。

 それにしても、石積みの井戸の上にも屋根があり、奇妙な車輪のような装飾が付いているが、これはなんなのか。

 車輪は周りが凹凸をつくり、縄と密接しているが、なんの意味があるのかさっぱり分からない。

 とにかく、水でいっぱいになった水桶を地面に置き、揺れる水面に手を入れて、水をすくう。

 ひんやりとわずかな寒さを覚えるほどの水は、目を覚ますにはちょうどよく、顔を洗うと肌が引き締まる感覚がした。


「よし、ルナも顔を洗ったらどうだ。目が覚めるぞ」


 俺は桶から両手で水をすくって、後ずさった。

 すくった水が指の隙間からわずかに漏れだし、それが腕を伝って肘まで届く。

 ルナはまた欠伸をしながら、口をもごもごと動かしながら水桶の前に進み、しゃがみ込んだ。


 俺は今だと言わんばかりに、俺はルナの首筋から背中にかけて水を注ぎ込んだ。


「ひゃっ!?」


 瞬間、ルナは全身を大きく痙攣させながら、跳ね上がるように起き上がった。

 そして背中を抑えながら振り向くと、歯を食いしばりながら俺を見上げた。


「な、なにするんですか!!」


「目を覚まさせてやろうと。どうだ? 目覚めただろ?」


「そんなことしなくても顔洗えば眠気なんて吹き飛びますよ!! このっ!」


 ルナはあからさまに怒った状態で頬を染めながら、桶から水をすくって無造作に俺にかけてきた。


「子供か⋯⋯」


 冷たい水なんて慣れているので、かけられたとしても問題は無い。服が濡れてしまうだけだ。


「望さんには言われたくありませんよ!! 子供みたいなイタズラして」


 声を荒らげて怒りを露わにするルナに、俺は人差し指を口元で立てながら言った。


「ほら、静かにしないと迷惑だぞ」


「⋯⋯っ! だれのせいですか! もうっ!」


 俺の正論、というより一般論に反論できなくなり、ルナは悔しそうに顔を背け、大人しく背中を丸め、顔を洗った。



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