開花 4
「あの人はいつ帰ってくるんでしょうねー」
晴天の下、ルナは自分になついている1匹の羊の頭を撫でた。
この羊はよほど自分のことが好きなのか、背中に乗せたりもしていた。
ルナとしても最初は気乗りしなかったのだが、彼自身が楽しそうにしているので、今は遊興のひとつとして楽しんでいる。
望がヒュイに向かってから、十日と少しが経過した。
メイの牧場に変わりはない。
ルナはメイの仕事を手伝いながら、時々西方を見つめて望の帰還を祈っていた。
望と出会ってからこれまで、ほとんどの時間を共に過ごした。
食事も寝るときも仕事でも、少し周りを見渡せば望がいて、その姿を眺めていると、不愛想な目が自分を見ていた。
その望がいないという事実は日を増すごとにルナの中に影を落とした。
望は人のため、自分の願いのために戦っている。望を駆り立てようとしていたのは自分だとわかってはいたが、なぜ今望の隣に自分がいないのかと胸を撫でると、寂しさが風となって吹き抜けた。
望は今頃戦っているのだろうかと想像する。
見た目からは考えにくいが、その剣技は見事なもので、奴隷商人と戦った日は、ついその姿に見とれてしまった。
誰かに剣を教わったとは話していたが、具体的にどんな鍛錬を積んだのかは知らない。
そもそも、太公望の過去を自分はほとんど知らない。
もっと色々彼の口から聞きだしたいが、あまり過去を語りたがらない彼に、どう口を開か背ばいいのだろうか。
自分に備わった力で望が人からどう思われているか見た時、神格化された姿を確かに感じ取った。そして彼自身すらも知りえなかった太公望という呼び名を。
この世界の彼に名前を与えたのは自分だ。
自分が名前を教えなければ、彼はまた呂尚という名で、前世の続きを歩んでいただろうと。
そう思うと自然と頬が緩む。
「てなんか、わたしすごい嫌な女の子みたいなこと考えてません?」
足元で伏せる羊に尋ねても、返事はない。
時々会話ができるのだが、今日は応えてはくれないらしい。
望がいなくなってからの夕食時はろうそくの明かりが手元を照らし、ルナはメイが作った食事をひとりでいつも食べていた。
ひとりは寂しかったが、メイは病気で寝たきりになっている母の世話があるので、邪魔するようなことはできなかった。
箸が進む速度がここ数日早くなっている。
望がいた時はもっとゆったりと彼に合わせるように食事していたと振り返る。
「ルナちゃん。はいっていい?」
小屋の扉がノックされる。珍しくメイが尋ねてきた。
「どうぞ」
短い返事をしながら戸を見ていると、メイが自分用に膳を持って入室した。
「お母さん寝ちゃって起きないから、こっちで食べていい?」
「はい。ひとりで食べるの寂しかったしですし」
言ってすぐルナはハッとした。
本音がポロリと漏れてしまったことに気が付いたのだ。
「やっぱり望さんがいないと寂しいんだね」
からかうように笑いながら、メイはルナの目の前へと腰を下ろした。
「そんなんじゃないですよ。ただあんな人でもいないよりはましってだけで」
頭の中に浮かんでくる望の姿を振り払うため、ルナは椀の汁を啜った。
そんな姿を見つめながら、メイは頬を緩ませて言った。
「ふーん。じゃあ私が望さんに告白しちゃおっかな」
「んうっ!?」
飲んでいた汁と具材の葉がのどに引っ掛かり、ルナは大きくむせた。
「な、何言いだすんですか急に」
ルナは胸を叩きながら咳きこんだ。
「べつにぃ、ルナちゃんにその気がないなら私が望さんのこともらっちゃおうかと」
メイは落ち着いた様子で平然と箸を進める。
ルナのほうを見ながら、器用に焼き魚の骨を取り除いていく。
「でもでも、望さんってなにも面白くもないですしつまらない人ですよ? 夢は一人で静かに暮らすとか言ってますし、そもそも実年齢90歳越えの老人ですし。私たちの高祖父とかそんな年代の人ですよ?」
「それって、あの人は前世があって90年以上生きたってこと? いいんじゃない。人生経験豊富そうだし、守ってくれそうだし」
「いやいやいやいやでも」
身を乗り出しそうな勢いでメイの言葉を否定しようとしたが、それ以上言葉が浮かばず、しどろもどろになってメイを見つめた。
そんなルナを見て、メイは口元を押さえて笑みをこぼした。
「冗談だよ。あの人私のタイプじゃないし」
「も、もう。変なこと言うからびっくりしたじゃないですか」
「ほんとうにへんなこと言ったからなのかなあそれ」
赤面しながらルナは俯いて食べ進める。
「でも、実際私はあの人のこと好きだよ。お兄ちゃんのことも助けてくれるなんて言って。実際ヒュイまで乗り込んだりして」
天井を見上げながら、メイは望が兄を助けるといった日を思い出していた。
兄が行方不明になってからしばらくたつ。
最初は毎日のように、日が暮れるまで周辺を探し回った。
しかし、日が経つと母が息子を失ったショックもあって病に倒れ、兄のことを気にかけている余裕はなくなっていた。
いつのまにか、兄は死んだものだと思っていた。
いつまでたっても帰ってくる気配もなく、誰も消息を知らない。
死んだと思い込むことで、悲しみを紛らわせようとしていた。
そんな兄が、兄の友人であるハクラの口から生きていると聞いたとき、わずかな光明が差したが、誰が兄を取り戻してくれるのか、奴隷となった兄がどうやって家に帰ってくるのか。
その現実が光にふたをした。
その蓋を取り除き、再び光を取り入れようとしてくれたのが望だ。
ただ親友が連れてきたという理由で受け入れた不思議な男が、自分たちのために命を賭けている。
そんな相手に好意を抱かないはずがないが、それが尊敬や崇拝に近い感情であることも、メイはよくわかっていた。
「まあ、望さんの本質はそういう人なんですよ。目の前に悲しんでいる人がいたら、その人に手を差し伸べられずにはいられないのです。だから後世で神様としてまつられるまでになったんですあの人は。口では何も巻き込まれたくないようなこと言ってても、実際には体が勝手に動いちゃう人なんですよ」
食器を置き、ルナは頬を書きながら俯いて顔をほころばせた。
自分のことのように望を語るルナに、メイは笑いをこぼした。
「なんか。あの人のことなら全部わかりますって言いたげだね」
「そ、そんなことないですけど。多分間違いはないですよ
「それは⋯⋯ルナちゃんがあの人を連れてきたから?」
ルナは瞠目して一呼吸おいて頷いた。
「はい。あの人は私が選んだ人ですから」
「⋯⋯ならもっと素直になればいいのに。ほかの人に取られても知らないよ」
「ですよねぇ⋯⋯たぶん、今回のことがうまくいけば多くの女性から好意を向けられますし」
ルナは項垂れて望が女性から好意を向けられている姿を想像したが、想像上の望はどれだけの女性に囲まれても不愛想に、ただ視線だけはしっかりひとりひとりを向いている。
なぜこんな望が浮かぶのかルナは頭を捻ったが、どうしても彼が女性にたじろぐ姿は浮かんでこない。
「でもあの人きっと、人は見ても女性は見ないんですよ」
「⋯⋯どういうこと? 望さんは男の人が好きだったり?」
「そうではなくて、きっと望さんの心の中には想い人が刻み込まれてるんです。前世での想い人が」
「そーいうこと⋯⋯」
メイは椀の中の汁をわざと揺らし、おもむろに唇を椀に添え、高く器を傾けた。
親友の珍しい所作をまじまじと見つめながら、メイの顔が露になると、目を背けるように後方の格子窓へと頭を向けた。
——多分その人は⋯⋯望さんの⋯⋯。
考えれば考えるだけ、胸が締め付けられる。
ルナは自分の望に抱く思いを理解しながらも、どう行動すればいいのか、まったく浮かんでこなかった。
彼を自分が思い描く世界の表舞台に駆り出す手段はいくつも浮かんでくるのにだ。
翌朝、ルナは寝床から起き上がれなかった。
体が鉛のように重く、足が石のように固くなっていた。
「ああ、風ですかね」
目覚めてすぐそう思ったが、それら以外の体の異変はないし、そもそも風邪をひいたことがなく、人から症状について聞いたことがあるだけだ。
ならなぜ体が怠いのか、寝起きの頭で考えても、答えは浮かんでこない。
幸い、寝返りは打てた。体ごと小屋の出入り口のほうへ向け、外へ出なければと体に言い聞かせる。
「働かなきゃただのごくつぶしですよ私」
だが体は言うことを聞かない。
これは鉛というより、沼に体が沈んでいる感覚に近いなどと考えたりしながら、縋るように声を出した。
「起こしてくださいよ望さん。早く帰ってきてください」
外から足音が聞こえる。メイの足音ではないと、ルナは直感的に断定した。
サッと草を踏む音が、扉越しに聞こえ、おもむろに音が大きくなる。
足音の主を迎えたい。
だが体はやはり重く、動かすのが困難だ。
「んぅっ!」
両手を勢いよく床にたたきつけ、寝床の藁をつかんだ。
途端、先ほどまでの重さが嘘のように消滅し、跳ね上がるように起き上がった。
寝巻のまま、胸元が露になっているのも、髪が乱れていることも忘れて入口へと走った。
入口の隙間から光が差し、その光は徐々に大きくなり、その光を背景にして、待ち望んでいた男が現れた。
「望さんっ!!」
「うおっ⋯⋯」
飛びつくように抱き着いてきたルナをその男はがっしりと抱き留めた。
ルナは男の胸に顔を埋めながら、その男の顔を確かめた。
もう見慣れた白髪が揺れ、いつも何を考えているのかわかりにくい相貌が自分を凝視している。
何も変わりがないその人の姿が、ルナを喜色満面にした。
「どうした。俺がいなくてそんなに寂しかったのか」
「そうですよ⋯⋯寂しかったし、望さんに何かあったらッて心配してたんです」
ルナは望の胸板におでこをこすりつけた。
まるで猫のようだと、望はルナの頭を軽く撫でてみた。
「だったら俺に何か期待するのはやめたらどうだ」
「⋯⋯それはできませんよ。私は望さんを信じてますから」
望は溜息を吐き、ルナの肩をそっと抱いた。
ルナを後ろへと押し、その碧眼を見つめた。
「まあいい。シジュに借りを返さなければならんし、この国に降りかかるやもしれん難事には責任を取らねばならないしな」
言い終えるころには、望はそっぽを向いていた。
ルナは望の頬を両手ではさみ、彼の不愛想な顔を強引に自分へと向けた。
珍しく、望の顔に戸惑いが見えた。手のひらから伝わる彼の頬の熱が、わずかながら上昇している。
望も時々照れたり恥ずかしがったりはしている。その姿は何度も見ている。
それでも、彼の心に誰かが刻み込まれているのは間違いない。
その核心を押し殺し、ルナは微笑みながらその人と自分に相応しい挨拶をした。
「おかえりなさい。望さん」




