落花
「つまりだべグリ⋯⋯助けた弟妹はその男のところで住むことになる可能性が高い⋯⋯だが会いに行くことはできるし、やつが皆を無下にするとは思えないからそこは飲み込んでほしい」
シジュと出会った翌日、夜の帳が降りた街で、俺はべグリを前に、これからの事を話した。
昨日、ルナを背負って王都まで行った俺は、その足で国王の従者に事の顛末を伝え、また宿泊させてもらうことになった。
シジュが出した条件について、ハクラは狼狽しながらも飲み込み、ルナは何も答えなかった。
ルナが何を考えているのか分からず気味が悪かったが、自分から探ろうとも思わなかった。
今はべグリの家の前に俺とべグリだけがいる。
訪ねた時、ちょうどべグリは店の片付けをしていて、家に上がるよう誘われたが、すぐに終わることだからとここで待った。
シジュの条件の中には、当然べグリの弟妹も含まれるし、メイの兄も含まれることはわかっている。
それでも、奴隷解放という最大の目的のためには飲み込むしかないのだ。
「いや⋯⋯気にしないでくれ。あんたが気に病むことじゃない」
俺の顔は病んで見えたのだろうか。
頬に手を当ててみると、いつもより僅かに暖かかった。
べグリは俯いてはいるが、今の現状を受け入れようと、唇をかみしめている。
「それに⋯⋯会いに行けるなら問題は無い」
「べグリ⋯⋯」
「太公望さん⋯⋯もちろん⋯⋯俺もその男達と連れて行ってくれるよな」
真に迫ったべグリの険相に、俺は言葉が詰まった。
シジュには3人いると言ったが、俺ひとりでも問題は無いだろう。
べグリとハクラを危険な目に合わせる必要は無いのだ。
それに、べグリに何かあれば、解放された弟妹はどう思うのだろうか。
「当然だ。そなたにも戦ってもらう。だが死ぬなよ。その弟妹達と再会するまでは絶対にな」
べグリは無言で力強いた。
結局俺は、待っていろと言えなかった。
昔からそうだ。俺はいつも人の力に甘えてしまう。
あの男は人の性は死んでも変わらないと言っていた。まさにその通りなのだろうか。
「じゃあ⋯⋯その時がきたら迎えに来る。それまで心の準備をしておくんだ」
「わかった」
静かな意思表明の中に、重厚なこの男の矜恃が含まれていた。
べグリは拳を固く握りしめながら、家の中へと帰っていった。
ひとりになった俺は、まっすぐ帰らず、路地の方へと入っていった。
特に何かがある訳では無い。
ひんやりとした石壁に挟まれ、前方は暗闇だ。
足元を猫が何度か通ったが、人が通る気配は無い。
その代わり、石壁の向こうからは人々の声が聞こえた。
「いいかげんにしなさい!」
「お母ちゃんのばかぁ!」
そんな喧嘩のような言葉も聞こえてくるのが、どうにも微笑ましくてつい笑みが零れてしまう。
それと同時に、俺にはそんな喧嘩も喜びも無かった事実が、胸にそっと穴を開けた。
路地をそのまま歩いていると、見たことの無い場所に出た。
円形に建物が並び、その中には加工された石が敷き詰められた地面があり、中央には大きな木が1本立っていた。
木はまるで傘のようにその枝と葉を広げ、僅かな月明かりさえも遮ってしまっている。
その木の周りには、地面より高く土が盛られ、その土を石壁が囲んでいる。
なんとなくだが、俺はゆっくりとその木に近づいて、太く逞しい幹に触れてみた。
木なのだから当然冷たい。そして虫食いの後があるのか、僅かに穴が空いている。
だが触れていると、不思議と頭の中で今までの記憶が呼び覚まされるような、そんな感覚がした。
断片的に頭の中に流れる記憶は、ろくなものが無い。
家族を奪われ、友人を奪われ、復讐に駆られた俺は、他を顧みずにその道を進んでいる。
だが不思議と嫌な気分にはならなかった。
それどころか、記憶が進む度、胸の穴が塞がっていくような、そんな満足感がある。
なぜだろうと考えても、答えが見つからない。
ただ、最後、皆に看取られた時には、また物悲しさが蘇っていた。
「なんだったんだ⋯⋯俺の生涯は⋯⋯」
石の囲いの上に腰を下ろし、大きく息を吐いた。
シジュの住処への往復で疲弊した足が、僅かに地面を離れると、まるで木の幹のように硬く重く感じた。
全身から力が、生気が抜けるように、気怠げになっていく。
このまましばらくここに居てもいいかと思った。いや、ここを離れたくないと思った。
ひとりだとこの暗闇の中帰れるか分からないし、何より今日はもう動きたくない。
昨日は寝冷えして風邪をひいてはダメだと急いでいたのに、その意思はもう彼方へと消えている。
だがそれほど寒くもないし、病気にはならないだろう。これはこの場から動きたくない、帰りたくない自分への言い訳か。
帰りたくない理由が分かった。
またあの団欒の声を聞くのが辛いのだ。
俺が年老いるまで手にできなかった家族や仲間の空間を感じ取るのがたまらなく虚しいのだ。
そして、今それを取り戻そうとしている自分が、恐ろしく哀れな存在に思えるのだ。
あの小屋に戻ると、それが顕著に認識できる気がしてならないのだ。
周りの建物からは、淡い火影が揺らめいている。
近隣の者が俺をみたらどう思うだろうか。
興味本位で近づいてきたりするのだろうか。
なんてことを考えていると、俺が通ってきた路地から、人の影が現れた。
別の客が来たのかと思い、目を凝らしてみると、それは人ではなく、人に近いが人ではない猫耳少女⋯⋯ルナだった。
ルナは明かりも持たずにここまで来たらしく、立ち止まりながら、じっとこちらを見ているようだ。
「見つけましたよ望さん」
まるで無くし物を見つけた時のように、ルナは呟きながらせまってくる。
暗くてその顔はよく見えない。広がった木の影にまで来ると、余計に分かりずらくなった。
だが、隣に腰掛けると、その神妙な面持ちがくっきりと暗闇の中に浮かび上がった。
「こんな所で何してるんですか?」
「なにって⋯⋯べグリに会って⋯⋯それからなんとなくこの街を見てみようと思ったらここに来て⋯⋯なんか動くのが億劫になってな」
「疲れでも溜まってるのでしょうかね。望さんこの数日だけで凄い動いてくれてますし」
「それもある⋯⋯」
「それもというと、ほかにも?」
こんな暗夜の中でも、ルナの碧眼は不気味なほど煌めいて見える。
そしてその目で見つめられると、心の内を晒したいような衝動が起こる。
「少し⋯⋯昔のことを思い出した」
「前世での事ですか?」
「ああ⋯⋯それでなんだか色々と虚しくなってな」
せっかく奴隷を解放する算段がほんの少しついたというのに、俺はなぜこんな暗くなっているのか。その理由は、赤子でも分かるくらい簡単なものだった。
「なんで俺は⋯⋯あの世界で得られなかったものをここで手に入れようとしてるんだろうなって」
風がどこからか吹き抜け、枝と葉を揺らした。
ルナは少し肌寒そうに、穴が空いたように袖がない二の腕を撫でた。
「望さんが手に入れられなかったものとは⋯⋯なんなのでしょう」
「家族⋯⋯仲間⋯⋯いや、それらは一度は手に入れたものだし、最後も俺の元には家族がいた。手に入れられなかったのは⋯⋯大切な者たちの静穏だ」
ルナは太ももの上で手を重ねながら、じっと瞬きも忘れて潤んだ目で俺を見つめている。
その目はもっと話すことを俺に求めているように思えた。
「俺はなルナ⋯⋯復讐を果たしたといっても、取り戻したいものはなにひとつこの手には戻ってこなかった。いや⋯⋯それどころか復讐に捕われるあまりいくつもの大切なものを落として生きていた。だが今はどうだ。たしかに⋯⋯奴隷の存在なんてどこにいても認めたくはない。だがハクラも⋯⋯べグリの弟妹やメイの兄も、俺にとっては直接関係のない人間だ。なぜ彼らを救おうとするのか考えると⋯⋯あの世界で得られなかったものを⋯⋯メイやべグリを使って手にいれようとしているんじゃないかと⋯⋯父や母⋯⋯兄弟達や仲間に与えられなかった静穏を⋯⋯代わりに彼らに与えようとしているんじゃないかと⋯⋯そう思うと自分が惨めでたまらないんだ」
話しているうちに、目頭が熱くなっていた。
そこだけ焼けるような熱を帯びながら、零れ落ちた水滴が僅かに熱を冷ました。
「私には⋯⋯私には⋯⋯望さんが今まで背負ってきた重荷は分かりません」
ルナの声が微かに震えている。
声だけじゃなく、身体も少し震えているようだ。
ルナの手が俺の手に重なる。
それは少し冷たく、小刻みに震えていた。
「でも⋯⋯これだけは分かります⋯⋯望さんは⋯⋯優しい人なんです」
暖めあうように手は握られ、徐々にルナの手は温もりを帯びていく。
「だから⋯⋯自分では気づいていない⋯⋯いや、見ないようにしてるだけで、望さんは今自分のためじゃなくて、あの人達の為に動いてるんですよ。望さんに期待する私は皆さんのために」
なぜこの娘は、あたかも人の心の内を探り当てているように言い切れるのだろうか。
自分では、ルナの言っていることが正しいのかどうかも分からない。
だが、ルナの言うことが正しいなら、俺は今、失った者ではなく、目の前にいる者と向き合えているのだろう。
「だったらいいな⋯⋯俺もそう願うよ」
身体が少しばかり軽くなった気がする。
要因はこの猫耳少女か。
「しかし⋯⋯俺を優しいなどと形容した者は⋯⋯そなたを入れても3人しか知らないな」
「私を入れて3人ですか。それは確かに少ないかも知れませんね」
ルナは口元を綻ばせている。
俺の手に重ねられた手は、いつの間にか震えが止まり、暖かなものになっていた。
「どんな方ですか。私の他には」
「それ聞きたいか? どうせ知らない人間のことだぞ」
「望さんのことは何でも気になるんですよ」
「まあいい⋯⋯ひとりは妲己という俺と境遇が似た女だ。で⋯⋯もうひとりは⋯⋯」
「もうひとりは?」
「⋯⋯思い出せない」
確かに俺はもうひとり誰かに言われた。
「あなたは本当にお優しい人⋯⋯」と。
しかしながら、その相手がどうしても思い出せない。
思い出そうとしても、頭の中に靄がかかって何も見えないのだ。
「いつ誰にどこで言われたのか、何一つ思い出せないが⋯⋯妲己とは違う声でそう言われたことは確かに覚えているんだ」
なぜ俺はその声の主さえも思い出せないのか。
「もしかしたら⋯⋯望さんの奥さんとかじゃないですか?」
「妻⋯⋯妻なのか」
俺はどこまで最低な夫なのだろう。
妻が亡くなったのは何十年も前のこととはいえ、顔も思い出せなければ、妻の声さえも忘れてしまっているのは愚かとしか言いようがない。
だが、彼女が俺を優しいなどと思うのか。まずそこが疑問でしかない。
「まあ分からんが⋯⋯別にいいか」
「そうですか⋯⋯? まあ、もうこの世界じゃ前世のふたり以上の人数に優しいと思われてますよ」
「それは⋯⋯べグリやハクラ達か?」
「はい。あのふたりもメイちゃんも」
「随分と慕われたものだな。俺も」
「むしろまだまだ少ないくらいですよ。これから望さんは、もっと大勢の人に慕われて、敬われていきますから」
「⋯⋯なんだ。俺を本当に神様にでもするつもりか」
「さあ、そこまでは考えてませんけど。望さんが皆さんの為に力を尽くせば自然とそうなりますよ」
「俺はこれが終わったらスローライフとやらをしたいのだが」
「それは無理ですよ。きっと」
なんだか駄目と言われるよりも気が滅入るが、何を根拠にそう言ってるのだろう。
メイやべグリの家族を解放したら、本当にもう、俺に出来ることはない。
はやく羊達に囲まれた生活に戻りたいのだが、ルナはこれ以上俺に何を求めると言うのか。
「じゃあ⋯⋯帰りますか?」
ルナは声量を少々抑えた。
なんとなく空を見上げたが、葉に隠れて様子が見えない。
少し遠くを見ようとしても、建物が壁になって空の様子が見えない。
「いや⋯⋯俺はここにいる⋯⋯もう億劫ではないが今はここに居たい気分だ」
「そうですか」
ルナは俺のとなりへとさらに接近し、身体を寄せて肩に頭を乗せた。微かに甘い芳香が漂う。
「じゃあ私もここにいます」
「⋯⋯風邪ひいても知らないからな」




