国家と決意と太公望 5
何時間馬車に揺らされただろうか。馬車が止まると、従者が先に外へ出て昇降用の台を置いた。
「では先に失礼する」
国王が先に降り、それに続くと、俺は自分の目を疑った。
まず眼前には木で作られた豪奢な建造物がいくつも現れた。
家の屋根は小さく黒い何かがいくつも集まっていて、壁の木は家によって黒かったり茶色かったりしている。
そしてその背後には白い形の整えられた石が積まれた壁がある。
どうやら、この街は全体が壁に覆われているらしい。見たところ、壁は円形に近いが、実際には不規則な形になっているみたいだ。
そしてこの城の中心、歩いて数歩の場所に、黄土が色あせたような色彩の、小さく高い円柱の建物がふたつあり、その間に左右対称の似たような色合いの屋敷が立っている。
屋敷の広さは、そのあたりの建物と比べても群を抜いている。
何本もの大きな丸太に支えられた屋敷は、屋根の上にさらに建物が乗っかっている。
中で上の建物とつながっているのだろうか。見たことのない形状だ。
屋敷は俺二人分くらいの高さの壁に囲われていて、見張りの兵が何人も立ち、王に向かって頭を下げた。
「太公望殿。儂はシジュへの文書を用意する。今日は人をよこすから休まれよ」
国王は近くにいた女性に声をかけると、従者とともに屋敷の中へと入っていった。
もう日が暮れている。確かに今日は、ここに泊まるしかなさそうだ。
「ではこちらに」
銀色の花を模った髪飾りを付けた女性が、屋敷のほうを指し示しあ。
女性の後に続いて屋敷の中に入る。
屋敷の壁はあちこちに様々な絵が描かれ、それを見ているだけで一日がつぶれる気がした。
帝辛のいた朝歌の屋敷もこのような絵が描かれていたりしたのだろうか。
帝辛に風流が理解できるとも思えないが、あの男なら自分の威信を示すために無駄な装飾を施していそうだ。
女性の体から、かすかに甘いにおいが漂ってくる。何かの果実のような香りだ。
さすが、王に仕える女子は、身だしなみからあらゆるものがそんじょそこらの人とはわけが違うのだろう。
「ここへどうぞ。あとで湯あみとお食事の用意をしてまいります」
案内された部屋は、客人が止まるための場所なのだろう。
それほど大きくはないが、ベグリの部屋にあったような、脚付きの寝台があり、ベグリのものよりも装飾が立派で、枕の上に寝このような生き物の形をした像が彫られている。
猫にしてはやや顔が険しく、顔の毛が多い気がするが、まあなんでもいい。
部屋全体に目を向けると、自分の姿が大きな鏡に映し出された。
鏡は見たことがあるが、これほど大きく鮮明に映るものは初めてだ。
鏡に使づいて自分の姿を確かめると、やはりかなり若いと再認識した。
いったいなぜこんな若い姿で生まれ変わったのだろう。生まれ変わるなら普通赤子からだろう。
一人になると無駄な思考がうねりを挙げてひたすら出てくる。
寝台に腰掛けると、腰が沼へと沈むような、気味の悪い感覚が襲った。
これがこの世界では好まれているのだろうか。
藁の上か土の上でしか寝たことのない俺には、柔らかい場所で眠るという感覚がよくわからない。
今頃、ハクラはルナに伝えてくれているだろうか。
なんとなくだが、ルナが頬を膨らませて不機嫌になる姿が想像できる。
まあ、ひとりがさみしいならルナはメイのところへでも行っているだろう。
寝台の上に寝転がると、全身が沈むように柔らかい何かに包まれる気がした。
座ったときはその感覚が気持ち悪かったが、こうして寝てみると、懐かしい思いがして、とても心地が良い。
気が付くと眠っていたらしい。
知らない間に運ばれてきた食事が、机の上に置かれている。
食事の内容は、米と焼き魚と、汁とさらに小さな小鉢に野菜のたぐいのものがふたつあった。
正直言って、すべてメイの拵えてくれたものより美味しい。
特に、名前のわからない野菜に茶色い調味料が混ぜられた小鉢が美味でたまらない。
食事を食べ終え、しばらくすると同じ女性が湯あみの用意ができましたと言って俺を部屋から連れ出した。
連れられて到着したのは、床も壁も天井も石でできた空間で、扉を開けると中には水がたまった大きな石の器があった。
湯あみというのはどうやらお湯につかることらしい。いままでほとんど水浴びしかしたことのなかった俺には、存外心地よすぎる快感があった。
寝巻に着替えて部屋に戻ると、寝台に飛び込んだ。
もはや眠気にあらがえる自信はなかった。俺はこのまま二度と目覚めない眠りへと落ちるかもしれない。だとしたらほんとにもう目覚めなくていい。
だがそんなことはなく、透明な板が張られた窓から陽光が差した。
何日も眠り続けていたかのように、体全体が軽い。
あの世界でも、お湯に浸ってこういう沈むような寝床で寝ていたら、さらに長生きしてたのだろうか。その場合本当に孫たちに捨てられそうだ。
また女性が食事を持ってきてくれた。ここにきてから至れり尽くせりで申し訳ない気持ちだ。
朝食は粥だった。粥の上にはルナの神みたいな色をした皺だらけの丸いものがあり、食べてみるととても塩味が濃く、粥が水のようにのどを通った。
寝巻から機能の腹へ着替え、ぼんやりと壁のシミを眺めていると、昨日国王といた青年従者が迎えに来た。
「国王は朝議があるのでお会いできませぬゆえ、私が代わりに」
そう言って、懐から白い長方形の柔らかい布のようなものを取り出した。
それは何重かに折りたたまれていて、上に何か文字が書かれていて、受け取ると見た目のわりにそれは真っすぐ形を保った。
「これはなんなのでしょうか」
「は⋯⋯? 紙ですが」
困惑しながら、従者は答えてくれた。
なるほど、この柔らかい紙というものに文字を書くのか。俺が知っている文字を書く竹や木とは根本から違うらしい。
「そのなかにシジュへの文書がしたためられておりますゆえ、なくさぬようお持ちくだされ」
とりあえず腰のところでその紙を腰のところで服で挟んだ。
「いろいろと世話になった」
「もうお帰りですか> お帰りであれば表にお送りの馬車を用意していますが」
ほんと、俺は何かそんなに尽くしてもらうようなことしただろうか。むしろ失礼なことしかしていない。
「ではお言葉に甘えて」
「ではこちらに」
名残惜しいが、心地の良い寝台に別れを告げ、従者に案内されるまま、表の馬車がいるところまで戻った。
昨日のような豪奢な馬車ではなく、ただ荷車うを曳いただけのものだが、それでも徒歩で帰ることを考えたら十分すぎた。
「では、これにて。代わりに国王に例を伝えていただきたい」
乗り込む前に、従者に例を市、荷車に乗り込む。
「国王からのお言葉を」
荷車に座ると、従者が背筋を伸ばした。
「このようなことをひとりの勇士に任せて大変申し訳なく思う。奴隷を解放した後のことは儂に任せ、存分に賊どもを扱ってくれと」
「承知いたした」
従者がほほ笑むと、御者に対して一瞥した。
そのまま御者は鞭をふるい、馬を進ませ始めた。
昨日の馬車よりも進む速度が速く、あっという間に城壁の向こう側へとたどり着いた。
振り返った先には、大きな城壁が見るものを威圧している。
昨日は壁で囲われていたから知らなかったが、この城の周りは山が多い。
白の周辺こそ田畑が広がっているが、少し離れると岩山があたりを覆っている。
なるほど、首都としてはいい場所だろう。
水も十分にあり穀物を育てられ、なおかつ山が外敵の侵攻を阻む。
牧野で敗れた帝辛も、朝歌が防衛に向いた土地だったら、あんなにも潔く自害したりしなかっただろう。
馬車に揺られること数時間、気づいたことがひとつある。
今までいくつかの街や集落を見かけたが、どこもろくな防衛設備がない。
首都のような石壁は作れなくても、堀を掘ったり土壁を作ることはできるはずだが、それもまともにない。そういえば、今俺が暮らしている街にもないのだ。これは何か理由があるのだろうか。
見慣れた街のそばまで来て、俺は体を起こした。
町の手前で、ルナが石に腰かけているのが見えた。
「あの、ここまででいい」
御者は振り向くと、手綱を引いて馬を停止させた。
「本当によろしくて?}
「ああ。もう着いた。感謝する」
馬車から降りて、御者に一礼すると、御者は反転して白のほうへと戻っていった。
俯いていたルナがこちらに気づいて駆け寄ってくる。
「望さんっ」
俺もルナに向かって歩き、ルナは飛びつくようにに抱き着いてきた
釣竿を持ったままルナを抱きしめると、たった一日離れていただけなのに、どこか郷愁が感じられた。
「もうっ私に内緒でお泊りなんて駄目ですよ」
「といっても俺からしても突然のことだったんだからしかたないだろう。あとルナに事前確認をする必要性はどこに?」
「何言ってるんですか。私と望さんは戦友ですよ」
「戦友ならなおさらいらないと思うんだが⋯⋯」
ルナは離れると目をそらしながらほほを釣り上げた。
「で、なにか収穫はありましたか?」
小屋へと足を進めながら、俺は腰のところに挟んであった書状を取り出そうとしたが、馬車に乗っている間に思ったより下のほうへとずれていたらしい。
「ああこれこれ。国王からこんなものをもらったのだが、あいにくここの文字は読めん」
「⋯⋯ていうか今それどこから出しました?」
顔を引きつらせながら、ルナは手を震わせて紙を取った。
「股からだけど⋯⋯すまん」
「まあいいですよ⋯⋯望さんにデリカシーなんて期待してませんし」
言葉の意味は分からないが、あきらめられていることは雰囲気でわかる。
「どれどれ⋯⋯ふむふむ」
ルナは頷きながら、文書を目で追って頷いた。
「これ凄いこと書いてますね。望さんに協力したらシジュさんとその配下を赦免するって」
「大盤振る舞いだなあの国王」
やはり、あの国王にも腹の中に据えかねるものが溜まっていたのだろう。
だが自分の立場では何も出来なかった。だから今まで我慢していたものを俺とそのシジュという男に発散させようということか。
「ところで、このシジュって誰ですか?」
「賊徒らしい」
「賊徒? まさか望さん⋯⋯そんな人と」
「王が兵を出してくれないのだから仕方ない。そいつも、その条件なら協力してくれるだろ」
「でも、悪い人なら望さんになにか要求してくるかもしれませんよ」
「⋯⋯まあそうなったらそのときはその時だ。とにかく今はメイの兄とべグリの弟妹を救出することだけ考える」
「なんだかんだその気になってくれて嬉しいですよ」
「これが終わったら憧れのすろー⋯⋯スローライフだからな」
メイの兄を助けると俺は用済みになってしまうかもしれないが、その時はまた別の職を探し、ひっそりと暮らすことにしよう。
「え? 何言ってるんですか? これくらいで私が満足すると思ってます?」
立ち塞がるように俺の前に立ったルナが、両手を腰に当てて胸を張った。
「お前は俺になにを望んでいるのだ⋯⋯」
ルナは微笑すると、人差し指を立てて唇に添え、方目を閉じた。
その姿にほんの少しだけ心臓が高鳴ったのは、絶対に知られたくない。
「今はまだ秘密です」
「いや、秘密にすることでもないだろ⋯⋯」




