国家と決意と太公望 4
今でも忘れることの無い、運命の日が想起されそうになりながら振り返ると、漆黒の壁と朱や金の装飾を施された馬車が止まっていた。
馬は黒く毛並みがよく、艶々と毛が照り輝いていた。
その馬車の窓の向こうで、土色の覆い布をあげ、年老いた男が姿を現した。
男の髪は白く、顎に伸びた髭も白い。
目元や口元には皺が目立ち、少し前までの俺を見ているようだった。
胸元が見えるだけだが、男の着物には俺やハクラが着ている物のように皺などなく、生地もより高価なものだと見てとれる。
男がどこかの名のある名士であることは間違いない。
馬車の周りでは、男を護衛する数十人の兵士が剣や槍を携えている。
ちょうど針に獲物がかかり、引き上げてみるとまた青魚が釣れた。
青魚を籠に入れようとハクラの方をむくと、ハクラはいつの間にか姿勢をただし、膝を畳みながら両手を地面について頭を下げていた。
聞かなくともわかる。現れた老人がこの国の重鎮なのであろう。
この国の作法は分からないが、魚を籠に放り、とりあえずハクラと同じような格好をとった。
「釣果は上々ですな」
両膝と両手をつきながらどこかの貴人らしき老人に向かって言う。
すると老人は顔を前に出し、こちらに向かって微笑みかけた。
「それはよきことだ。ぜひ励むがよい」
随分と人を見下ろすような口振りだが、不思議と不快感は無かった。
温和で寛容さが伺える老人の顔の影響だろうか。
「はっ、ありがたきお言葉、感謝いたします」
それにしてもへりくだるハクラを一瞥し、軽く彼に耳打ちをした。
「あの男は何者だ」
「ご存じないのですね、あの方はこの国の国王様です」
「ほお⋯⋯国王か」
そういわれれば、確かにそれくらいの威厳を感じ取れる。
国内を遊覧して民に声をかけるとは、帝辛とは似ても似つかぬ王だ。
あの男が自ら庶民に声をかけるときは、いたずらに民を殺めるときだけだと言われていた。
国王だという男は、捲っていた幕を下ろし、すぐにでも出発しようとしている。
ここに国王が現れたのは、俺にとって僥倖であり、言ってしまえば、神が与えてくれた機会だといえる。
この機を逃してはならない。俺は大きく息を吐きながら、頭の中で言葉を巡らせた。
「国王ならば、こんなところで遊興せず、もっと嘆く民に目を向けるべきだろう」
自分でも露悪的だと分かるくらいの笑い声をあげながら、俺は幕の向こうを睨みつけた。
「た、太公望様!?」
血の気が引いた顔で、ハクラが目を見開いている。
「無礼者!!」
護衛のひとりが腰の剣に手をかけ、今にも向かってきそうな険しい形相で俺を睨みつけ、それに呼応するかのように。ほかの兵たちも武器に手を伸ばす。
だが肝心の国王は、顔をのぞかせながら神妙に口を結んで黙っている。
「無礼者? くだらない冗談はやめてくれ。民も守れず、ただ奪われるのを黙ってみているだけの愚者に諫言してなんの問題があるというのだ」
「貴様!」
兵の一人は明らかに殺意をこちらに飛ばしている。だが別に、彼らを挑発してよからぬことをしようなんて気はさらさらない。
俺が待つのは、あの国王の一声だ。
「待て」
馬車の中から、力強い声が響く。
その風貌からは想像しずらい声だ。
国王は徐に馬車から出てくると、小柄な黒髪の青年とともにこちら側へと姿を現した。
国王の身長は、俺より頭2つ分は大きいだろうか。恰幅がよく、肩幅も大きい。
だがそのお肉体とは裏腹に、その人相からはお人よしのような雰囲気ばかりが感じ取れる。
国王が青年を引き連れてこちらに迫る。
迫る旅、兵士たちの緊張感が高まり、ハクラの顔の汗の量が増加している。
心配しなくても、この国王に少しでも邪悪な気があれば、おれはこんな行動には出ていない。もっとも、信憑性はないに等しい。
実った稲穂のような色合いの袖を揺らしながら、国王は足を止めて俺を見据えた。
俺は立ち上がり、その目を凝視した。
「つまりその⋯⋯そなたが申したいのは、儂が民を苦しめているということか」
「そこまで大げさに言ったつもりはないが、民が卑劣な商人に好き勝手されている現状について政権としてどういう見解を示しているのかはぜひお聞きしたい」
王の視線が下がる。隣の青年に目配せをし、王は口をまごつかせている様子だった。
「つまりそれは、奴隷になっている者たちのことか」
「ああ、その通りだ⋯⋯」
国王の顔が悲哀を感じさせた。
落とされた目線は民への懺悔を表し、固く結ばれた唇は大国への怒りとやるせなさをうかがわせた。
「そのことについては儂もわかっている⋯⋯しかし」
「⋯⋯商人が行っていることとはいえ、国の首都にまで堂々と奴隷がいるとなれば、もはや商人の裏に国がいることは明白どれだけ憤慨しても、力なき自分たちは黙って指を指をくわえているしかない⋯⋯そういうことだろう」
「そこまでわかっているのであれば⋯⋯」
「だがそれは、当事者たちには関係のないことだ。むしろ、そのような王の下で暮らす民たちはいつかその怨嗟を貴殿に向けるのは目に見えているであろう。その目に耐えられる冷酷な人間ならば気にする必要はないと思うが」
なんで俺はこんなにも偉そうに高説を垂れているのだろうと、ふと思ったりもしたが、これはすべて目的のためだ。
奴隷を開放するには、この国の兵を動かしてもらうしかない。
この国の部隊が動いてくれるのであれば、俺は兵卒として剣を振るうだけでいい。
だが国王が怒る様子はなく、あくまでも真摯に俺の言葉を受け止めている。
人間としての器の大きさが如実に表れているようで、自分がみじめになる。
「そなたの名前は」
次に口を開いた国王は、すべてを受け止めて笑顔を浮かべていた。
「太公望。と今は呼ばれている」
「そうか、では太公望殿。ぜひそなたの知恵をお借りしたい。よろしいかな」
あまりにも話の分かりすぎる王に、俺は言葉を失った。
お人よしという域を超えているだろう。俺はただ釣りをしていただけのどこの馬の骨ともわからない羊飼いでしかないのに。
いや⋯⋯思い返してみると、あの人も同じくらいお人よしだったかもしれない。
占者の言葉を信じ何もなせぬまま年を重ねた俺を迎えに来た西伯候。養子はなにも重ならないのに、なぜか似ているように感じる。
もしかして、この国王にはあの人と同じ何かがあるとでもいうのだろうか。
「ぜひに⋯⋯失礼ながら、国王様のお名前をお教えいただきたい」
「シューラングラム・ボクレン。好きなようにお呼び下され」
覚えにくい名前を頭の中で復唱しながら、俺は拱手して頭を下げた。
「ではボクレン王と」
国王ボクレンは満足そうに頷くと、快活に頬を挙げた。
「ではぜひ賢人殿を王宮までお招きしたい。馬車の中で語らおう」
唐突な誘いに好機を感じ取り、ずっと黙っていたハクラを確認した。
瞠目したまま凍ったように動かないハクラに、声をかけた。
「ハクラ、そういうことらしいから、ルナに説明してくれ。その魚は君にやる」
「⋯⋯はっ。あ、は、は、はい」
ハクラの信心深さが、よくない方向へと進んでいる気がしてならない。
目の前にいるのがこの国の最高権力者であれども、自分を見失ってはいけないのだ。
本当に伝えてくれるか不安だが、まあ何日かいなくなっても問題はないだろう。
「ではまいりましょう。ボクレン王」
「ああ」
馬車に向かって歩き出すボクレン王と従者に続いて、豪奢な馬車へと向かう。
先ほどまで俺に殺意を向けていた兵士たちが、俺と国王がともに歩く光景を奇怪な目で見ている。
国王に続いて馬車に乗り込むため、台を踏んで上る。
馬車の中は質素そのもので、黒い壁と腰掛のほかには何もなく、国王と従者が並んで後ろへと座り、俺は向かい合うように前に座った。
釣竿を膝に抱えながら、また幸運を釣り上げてくれたお礼として、軽く撫でた。
動き出した馬車に揺られながら、そういえば屋根のある馬車なんて初めてだなと思った。
「それで、率直に聞くだ太公望殿。そなたは儂になにをさせたい」
王の黒い目が俺をとらえ、この狭い空間に緊張感が漂う。
「ならばこちらも率直に。ヒュイを攻めるだけの兵をお出しいただきたい。こちらが望むのはそれだけです。しかし、それができるならボクレン王はすでに行動に出ているでしょう」
国王は黙ってうなずくと、そのままうつむいた。
「はずかしながらそのその通りだ。我々ではエイに軍事行動を起こすことができない」
結局のところ、大国に小国は逆らえないという縮図をどうにかしないと、何も始まらない。
だからと言って悠長に時間をかけるわけにもいかないのだ。
「国そのものが動く必要はない。誰かに兵を貸し与え、すべてはその者が独断で行った蛮行とし、エイが糾弾してくるのであれば、その者の俺の首を差し出せばいい」
「なぜそこまで⋯⋯」
王のその言葉を、自分の中にいるもう一人の自分が唱えた。
確かに、この世界で奴隷になっているのは俺の身内でもなければ友でも仲間でもない。名前も顔も知らない者たちに、なぜか与えられた二つ目の命を懸けるまでの価値があるのだろうか。
いや、俺はそこまで打算的に生きられない。それは自分が一番よくわかっている。
「決まっている⋯⋯俺はただ、奴隷という存在を認めたくないのだ。奴隷を生み出す者たちの存在も」
国王は黙り、自分の息遣いだけが聞こえる。
しばらくすると人の声が聞こえた。馬車が町を通っているのだろう。
民衆がこの馬車を仰ぐ姿が、見えなくても想像できる。
きっと彼は。大半の民慕われているのだろう。しかし、問題の渦中にいる者たちは、果たして国王のことをどう考えているだろうか。
ボクレン王は窓から顔をのぞかせ、笑顔で手を振っている。
その光景は、とても羨ましいものがあった。
民衆の中を通り過ぎたのか、王は手を下すと大きく息を吐き、またこちらを見て声を出した。
「あのなかにも、儂の無力を嘆く者がいたようだ。太公望殿、弱いというのは罪なのか」
「⋯⋯ただ国王がひとりの人間として生きるのであれば、弱さが罪になることはない。しかし国王、あなたは万民を束ね、その頂点に立つ王だ。そして王に必要なのは慈悲と強さ。あなたには慈悲は備わっているようだが、強さが足りない。ゆえに、弱者であることが罪なのではなく、国王でありながら力のないあなたが罪そのものなのです」
「そうか、その通りだな」
「しかし王の強さというものはあらゆる要因からなるものです。どんな暗愚も大きな基盤を継げば見てくれだけは強い王となり、どれほどの器量を持った英才も、受け継ぐ基盤が小さければ力なき弱者となるのです。だからこれはあなたの罪ではあっても、あなたの咎ではありませぬ」
国王は少し安心したようにほほを緩め、隣の従者に笑いかけた。
「しかしながら太公望殿、こう言っては何だが、彼らを助けるために兵を犠牲にすれば、今度はその兵たちの身内が嘆き悲しむことになるのではないだろうか」
突然鋭い刃で胸を穿ち抜かれたように、一瞬息が止まった。
すぐに呼吸できたが、今度は俺の口が動かなくなってしまった。
何をどうあがいても戦えば犠牲は出る。戦わなくても奴隷は奴隷のまま苦しみ続ける。
では奴隷の救出を優先するのか、兵たちの安寧を優先するのか。
俺は今、その答えを持ち合わせていないのだ。
「いやはや、少々意地の悪い質問を致した」
国王は顎を撫でながら、すまないと言いたげに目で笑った。
「そこで口ごもるということは太公望殿、そなたもこちら側ということだな」
以前の俺なら、迷うことなく奴隷の救出を最優先にしただろう。
兵士というのは戦うために、死ぬために存在するものだと、おごり高ぶった考えを持った節があった。
しかし、今は違っている。ベグリのように同じ志を持つものならいざ知らず、関係ない者たちを巻き込むという現実を、このような形で直視させられてしまうと、自分のなそうとしていることに疑問を抱き、尻込みしてしまう。
だから、兵を借りたらそこを考えないようにしようとしていたのに、この国王の一言で思想を引きずり出されてしまった。
「太公望殿、そなたにひとつ提案がある」
「それはいったい⋯⋯」
王はため息をついて遠い目をしながら、腕を組んで顎を引いた。
「実はこの国の北東に、手の付けられない悪党集団がいる」
「悪党⋯⋯」
「奴らは目的のためなら、自分の血を流すのを厭わない集団だ。儂がそいつらに向けて、太公望殿に協力したら討伐軍は派兵しないという誓約書を書こう。それをそなたの手で届けてくれ」
「つまり、その賊徒と手を組めと」
「無論、決めるのはそなた自身だ。儂はただ手を貸すだけだ」
そういわれても、俺の選択なんて決まっている。
「その案お頼み申し上げる。して、その賊を束ねるものはどんな人物なのでしょう」
「あの者はだな、どこからか集めてきた人間で自分たちの集落を作る統治者であり、国の財を脅かす盗人でもある。名はシジュという」
「シジュ⋯⋯」




