国家と決意と太公望 3
では結局のところ、俺はどうしたらいいのか。答えはひとつ、兵を集めることだ。
ヒュイという場所について調べたりするのは後でいい。
とにかく兵だ。少なくても百人は必要だと思われる。
「しかしなあ」
今この瀬楓俺が知っている人間は、あの人間とは言い難いルナを入れても片手で足りる人数だ。しかもそのうちの半数は女子だから戦力にはならない。
「それで、どうやって兵を集めたらいいと思う」
「いや、私に尋ねられましても。あの太公望様にできないことを私ができるわけありませんよ⋯⋯」
「それは俺を買いかぶりすぎだが、まあいい」
頼みの綱が外れ、俺はついため息を漏らした。
今はベグリの家に来ている。
あの物置小屋以外で建物を見るのは初めてなので、まずその部屋の内装に驚いた。
ベグリの住処はいくつもの石造の家が連なっていて、外の壁も中の壁も白い。
その中には腰の高さくらいある椅子や机があり、今その茶色い椅子に座っているが、地面から離れている感覚が落ち着かない。
部屋は簡素な作りになっているが、背の高い木の箱があったり、ベッドというこれまた足の長い箱のような形の寝具があったりで、俺が今も昔も使っている筵とは質感が違う。
落ち着くためにべぐりが入れてくれた紅茶という茶褐色の飲み物を飲んだが、なんだか絶妙に苦かった。
俺とハクラはテーブルを囲み、べぐりは外で商売をしている。もうこうなったらベグリの私財で兵を雇うしかないか。
「とにかく兵だ。これ以外に必要なものもないが、これがなきゃ何もできない」
「ですよね。孫子もいろいろ説いてますけど、そもそも兵士がいなきゃ話にならないって前提がありますしね」
「孫子ってなんだ⋯⋯」
「あ、太公望様の時代から数百年後に生まれた兵法書です」
「そもそもその兵法書っていうのがよくわからんが、戦いについて書かれてるのは間違いなさそうだな」
「ええ、戦術や謀略について。といいますか、太公望様も兵法書お書きになりましたよね?」
「は? いや俺はそんなものかいた覚えないというか、文字すらほとんど書いた記憶ないぞ」
「え!? で、では、あの国家の治め方や軍隊について書かれた六韜や戦術を説いた三略は?」
ハクラは目を丸くしてあからさまに困惑しているが、そんなものの名前初めて聞いた。
「いや知らん⋯⋯大体俺に謀略なんてできるわけないだろ。戦いも、戦車隊を集めて攻撃する。これだけだ」
「せ、戦車隊⋯⋯そんな大昔の遺物が」
「まあ君からしたら大昔の人間だからな俺」
しかしながら、戦車が過去の遺物というのは何とも悲しい話だ。
犬戎も帝辛も、果ては斉での戦争でも、俺に勝利をもたらしたのは戦車隊だというのに。
俺に対する淡い憧れが崩れ落ちたのか、肩を落とすハクラ。それにしても、なぜ俺がそんなものを書いたことになったのだろう。
「では周の文王⋯⋯姫昌様に戦略や統治について指南したというのも作り話なのでしょうか」
「うーぬ。君が思い描いているものとは違うだろうが、そういう話を西伯候にしたことはある」
「ではそれを聞いていた誰かが書き記し、それがいつのまにか太公望様の著書として伝わったのでしょうか」
その時の西伯候とのやり取りは覚えている。
渭水で出会い、あの人に召し抱えられた帰り道そのままに屋敷に招かれた。
たいそうなものじゃない。土壁と辛うじて木の床があるだけの、薄暗く風が吹き抜けるたび、天幕が揺れる場所だ。
この家や今暮らす小屋のほうがよほど立派だ。
その部屋で酒を出されたが、俺はあまり酒が好きじゃなかったので,最初の一口を飲んでからは口をつけなかった。
期限がよかった西伯候アどんどんと酒を飲み進めていたが、泥酔する雰囲気はなく、俺の話を何度も頷き、時に問答のように会話しながら聞いていた。
その時確か、そばには息子殿がふたり、発と旦が控えていた。
もしかしたら、どちらかがのちにその時の話を拮抗か青銅にでも記したのかもしれない。
「書いたとすれば⋯⋯やはり旦殿か」
「旦⋯⋯周公旦のことですね」
「その呼び名は知らんが恐らくそうだなって、前世の話はどうでもいいんだ。兵をどうやって集めるかだ」
「あ、そうでしたね」
ハッとして顎に手を当てて思案し始めたハクラを横目に、冷めた苦い汁を飲み干す。
最初は不味いと思ったが、改めて味わってみれば、案外悪くないかもしれない。
「兵を集めるとなると、有志を募るか国から兵を出してもらうかしか⋯⋯あ、そもそも勝手に兵なんて集めたら謀反の嫌疑でもかけられて我々斬首になりますよ」
「となると同じように身内が奴隷になった者を集めるのは無理か。なら国に」
「そのような伝手⋯⋯少なくとも私は持ってませんよ」
「ふむ⋯⋯これは本格的に困ったな」
べグリが置いていった、杯より大きな陶器に満たされた紅茶を注ぎ、また一気に飲み干す。
喉が熱で焼けるかと思った。
「まあ⋯⋯焦らず頭を働かせるしかないか。どうだ? 今から釣りにでもいかないか」
少々痛む喉を撫でながら、椅子を降りて床に転がしていた釣竿を持った。
もともと釣りをする予定なんてなかった。ただこれがないとなんとなく落ち着かないから基本的には離さないだけで、子供が人形を抱いて寝るのに感覚としては似ている。
「釣りですか⋯⋯私は竿を持ってないので、いるだけでいいならお供しましょう」
「ああ、助かるよ」
最後の心残りとしてもう1杯紅茶をいただき、外へ出た。
外を出てすぐの所では、壁に武器の類を立てかけ、べグリは壁にもたれ掛かりながら、赤い布の上に座っていた。
「ん? 2人共どこか行くのか?」
べグリは片膝を立てながら、客が来るのを待っているようだが、今のところ誰も店を気にとめる者はいない。
「ああ、少し釣りに」
そっと後ろを振り向けば、ハクラが魚を入れるための大きな籠を持って出てくる。しかしその籠はべグリの物ではないのだろうか。
「そうか⋯⋯手土産楽しみにしてるよ」
べグリはハクラの持つ籠を一見し、なにも反応を示さずに言った。
ふたりで住む上での取り決めでもしてあるのだろうか。そういえば、俺はルナとそういった約束事をほとんど決めていない気がする。
とにかく、俺とハクラは川に向かって歩いた。
目指すのはルナと出会ったあの川だ。
川には変化がなく、若干流れがあの日よりも早いだろうか。
またもや餌を持ってきていないので、ハクラに餌になりそうな虫を持ってきてもらい、それを針に引っ掛けて糸を放った。
小さな波紋が水面に浮かび上がるが、すぐ流れによって消えた。
まっすぐ垂れた糸の先を見つめながら、大きな欠伸がでた。
空は晴れ、雲は緩やかに西へと流れている。
どこからか鷲の声が聞こえるが、遠いのか音が小さい。
こんなのどかな日に外に出ていると、すぐにでも眠くなってしまう。年寄りはすぐに眠たくなるのだ。そしてすぐに起きる。
「あの、太公望様」
「どうした?」
ハクラの声で糸が揺れた気がしたが、たぶん気のせいだ。
「覆水盆に返らずという言葉をご存知ですか」
「いや⋯⋯知らないが。どういう意味なのだ」
「いちど器から零れた水が元には戻らないように、起きてしまったことは取り返しがつかないという意味です」
「ほお⋯⋯なるほど。確かにそうだな」
そんな話をしていると、さっそく魚が餌に食いついた。
竿を軽く引くと、銀色の腹を輝かせた小さな魚が釣り上げられた。
どんな魚か分からないが、おそらくは食べられるはずだ。
その魚を籠の中に放り、また竿を振った。
「死んだ人間が蘇らないことや、いちど壊れた人の縁が決して元に戻らないことを表すには良い言葉だ」
「この言葉⋯⋯私は太公望様と奥様のお話が元だと教わっております」
「俺と⋯⋯妻の⋯⋯」
体から力が抜け、竿が滑り落ちるかと思った。ハクラは籠の中に水を入れながらこちらを一瞥した。
「どんな内容だと⋯⋯君達には伝わっているんだ」
俺の声は、自分でも戸惑うくらい低く鈍重なものだった。
ハクラは話しずらそうに瞬きをして視線を逸らしながら、それでもおもむろに語りだした。
「周に仕える以前、結婚した太公望様は、仕事もせず書物ばかり読んでいて、呆れた奥様は太公望様と離婚してしまいました」
まず前提が色々違っていた。
「その後殷を滅ぼした太公望様が斉公になったことを知ると、奥様は突然太公望様の目の前に現れ、復縁を申し出ました。しかし、太公望様は傍にあった盃の中の水を捨てると、奥様にこの水を元に戻せと命じました。当然そんなこと出来るはずもなく奥様が困惑していると、太公望様は言いました。その水のように、終わった関係が元に戻ることは無いと。こうして太公望様は奥様の申し出を断ったのですと。これが覆水盆に返らずという言葉となって伝わっております」
「⋯⋯なるほど」
何だか虚しくて頭が痛くなった。
俺の知らないところで俺に関する話が創られていることが虚しいのではない。
俺などがそうして後世に物語を作られるなら、俺が知っている禹王や湯王の姿も虚構なのではないかと。
胸が空っぽになり、胸の中の肉や臓物が頭に詰め込まれたかのように、急な頭痛がした。
「これも違っていますか」
まるで腫れ物にでも触るかのように、俯く俺を覗くようにハクラが伺う。
「ああ⋯⋯そもそも西伯侯に仕える前はほとんど羊を飼っていたし、妻と離婚したことも無いし書物なんてろくに呼んだことも無い。もっと言えば妻は俺が斉に行く前に死んでいる」
「全てが違ってますね⋯⋯」
「ああ⋯⋯まあ、俺がろくでなし夫だったのは間違ってないがな。妻が離婚を切り出したとしても、それは正当な訴えでしかなかっただろう。なにしろ⋯⋯そんな嫌味な会話どころか、俺と妻はほとんど話すらもしなかったからな」
俺は妻にとって良き夫にはなれなかった。いや、ならなかった。
妻のことも子のことも顧みず、ただ復讐のことだけを考えて生きていた。
妻も子を顧みることもなく、ようやく向き合おうとした時には、妻はこの世にはいなかった。
今思えば、妻が俺と離縁しなかったのは、彼女なりの俺への優しさだったのだろうか。
だとすると、彼女を愚者のように書いたその後世の教えは、腹に据えかねる。
「どこかでねじ曲がってしまうものなんでしょうね。太公望様は資料も少なく神格化されていますから尚更」
「まあ、後世の人間が死者をどう言おうと自由ではあるからな」
話しているとまた魚が釣れた。青魚に似ているが、同じものなのかは不明だ。焼けばそれなりに美味い。
「そのあたり⋯⋯太公望様はなんとも思わないのでしょうか」
「⋯⋯妻が愚かであるような伝聞は許し難い。しかしながら、妻の名誉も幸せも考えなかったのは俺自身だし、むしろ考え方によっては、その話は俺を神格化するために作られたとも言えなくも無さそうだ⋯⋯となると怒り出すのも虚しくてな」
100年近く生きて、怒りなんて感情はどこかへ消え去ったとばかり思っていたが、この世界に来てからは怒ることが多くなったように思う。
若返った影響だけではない。もっと何かほかの要因があるはずだ。
「さすが⋯⋯太公望様は悟られていらっしゃるのですね」
いちいち大袈裟なハクラの言葉には、なんの澱みも悪意もない。
この男はただ純粋にひたすらに俺を崇め仰いでいるとしか思えない。
「ふふ⋯⋯悟っていたら他者のことなど考えずに山篭りでもして神仙の力を追求しているさ」
おかしくなって笑えてきた。
自分が敬われるべき存在であることが、未だに信じられない。
たしかに、斉公となってからは人々に敬われ、頭を下げられる人生だった。
しかしそれは、立場がそうさせたのであって、俺自身が何か変わったわけではない。
なのに、斉人ですらない後世の彼らが俺を神格化し、神として崇めているというのは、滑稽な話ではないだろうか。
釣りに集中するため、口を閉じて水面に聞き耳を立てる。
川の流れる音と、自分とハクラの息遣い、そしてほんの少しの風の音だけが頭の中に入ってくる。
そこに、何かが転がるような音がひとつ、遠くから迫ってきている。
ゴロゴロと何かが転がっている。おそらくは車輪だろう。
馬車か牛車かはたまた人力の車か分からないが、たしかに近づいてきている。
だが、俺には関係ないことだ。今はただ釣りに集中し、べグリやルナ達への手土産を増やすことに専念するべきだ。
車輪の音がちかづいてきても、俺は水面から目を離さなかった。
先程まで騒がしかった川の音は、今少し落ち着いている。
だがそれと反対に、近づいてくる車輪はどんどんと荒々しい音を立てていく。
ただ接近しているからではない。
馬車が大きいから揺れて大きな音が出るのだろう。
馬車の周りには人間の足音がいくつか。さてはそれなりの身分の者を乗せているのだろう。
魚が針にかかり、釣りあげようとしたが、水面から青魚が飛び出し、弧を描くように飛び跳ねたところで、針がちぎれて空中に散ってしまった。
こんなのは釣りをしていたら、いつでも訪れることだ。
だが新しい針を持っていない。諦めて帰る他あるまい。
いつの間にか馬車の音が止んでいる事に気づき、竿を足の上に乗せ、立ち上がろうとしたその時、背後から声がした。
「なにか釣れましたかな」




