国家と決意と太公望 2
考えてみれば、俺はこの国のことなんて全くと言っていいほど知らない。
奇妙な化け物がいても誰も気にしない心が寛大な国という材料しか持っていない。
だからこの国のことなんて気遣わずに好きにしたらいいじゃないかと、人によっては言うかもしれないが、それでは俺は帝辛やあの奴隷商人らと何ら変わらない姦人になってしまう。
それにしても、国民を奴隷として他国に売られ、どうしてこの国は黙っているのだ。
昨日だって、往来を堂々と奴隷商人達は闊歩していた。
民を虐げる者をみすみす見逃すなど、国としての尊厳が無いと自白しているようなものだ。
だがそれは、認めることは出来ないが、受け入れざるを得ない事情なのだろう。
諸侯が商に逆らえなかったように、この国も ヒュイという国に逆らえないのだろう。
もしかしたら、恭順しているのかもしれない。
だとすると、あの商人達が死んだとわかると、この国に報復に来る可能性は大いにある。
となると、俺のせいでこの国が窮地に陥るという事も、考えすぎかもしれないが僅かながらに有り得る。
「だとしたら、早めに行動する他ないか?」
何故かこちらに歩み寄ってきた雌の羊の背中を撫でながら、いわゆるスローライフがどんどんと遠ざかっていくなと、呆れてため息を吐いた。
だがしかし、相手が国だとすると、何もかもが不足している。
兵士も武器も兵糧も何もかも持たない俺が、報復にやってきたヒュイをどうにかするなど不可能だ。
それに、その場合穏便に済ませるため、この国の王は俺を排除することを考えることも有り得る。
となると俺は、捕まらないように昔みたいにひたすら足裏を血まみれにしながら逃げる他ない。
腕ん組みながら唸ってみる。
昔から、なぜ人は考え事をすると腕ん組むのかと考えているが、90年以上生きていても答えが見つからなかった。
出来ることなら、此度の人生はその答えを見つけるために費やしたいのだが、それを許してくれなさそうな来訪者がひとり、柵の向こう側で立っていた。
「⋯⋯べグリか」
その男は昨夜と同じ格好だった。
ハクラの身支度を整えることに集中しすぎて、自分のことを後回しにしてしまったのだろうか。
それにしても、裾に血が着いている服で外に出るのは如何なものなのか。絶対人に尋ねられるはずだ。
「どうしたんだ?」
「あああんた⋯⋯さっきここに居たってハクラに聞いてな」
べグリは柵に手を乗せながら、その視線をぐるりと牧場に向けた。
「いい所にいるんだな」
「雇われてるだけだがな。衣食住があるのはありがたい」
勝手にべグリを敷地に上げるわけにもいかず、俺達は柵を挟んで対面した。
「それで、どうしたんだ? 弟達のことか?」
単刀直入に切り込むと、べグリは目を逸らしながら、静かに息を吐くように言葉を発した。
「⋯⋯ああ。ヒュイに居ると知ったらいても立っても居られなくてな⋯⋯だがひとりじゃ何も出来ない」
べグリは昨日、ヒュイという地名をあの奴隷商人が口にした時、顔を変えて小さく震えているようだった。
ただ奴隷にされているだけならともかく、供物にされる可能性があることに怯えているのだろう。
俺としても、行動は起こしたい。だがさっき迂闊なことはするなとハクラに忠告されたばかりだし、第一に何の準備も整っていない。
「気持ちはわかるが⋯⋯今は待つんだ。今ヒュイに手を出すことはできない」
「あんたでもか」
「買いかぶられてるようだが、昨日は敵の人数が少ないからできたことだ。国が相手となるとこちらにも相応の部隊を整える必要がある。それに⋯⋯」
「それに⋯⋯?」
べグリは身を乗り出すように柵を掴みながら、不安に満ちた目で俺を見つめた。
この男は、本当に俺を神かなにかだと思っているのだ。
それが俺の思い上がりでないことは、べグリの目から読みれる。
「他国に仕掛けるとなれば、害が及ぶのは俺達だけに限らなくなるんだ。まずはそこを解決する必要がある」
「解決って⋯⋯どうやって」
「さあ⋯⋯そこが俺にも浮かばん。ハクラの知恵でも借りる他ない」
今1番頼れる⋯⋯というより唯一頼れるのはハクラだろう。
時を見て彼を訪ねて、話を聞いてみる他ない。
といっても、彼が俺に協力してくれるとは限らないのだが。
「いいかべグリ。輸送中の奴隷を奪うのと既にその地に根付いている奴隷を奪うのでは難易が異なりすぎるんだ。だが俺だって何もしないわけはない⋯⋯というか、そなたを引き入れたのはそなたの弟妹を後々救うためだ。だから俺を信じて待っていてくれ」
自分の無力さを痛感する。
商王朝と戦った時、俺は何万もの兵を率いる立場にあったのに、今じゃただひとりの兵士と変わりない。
「分かったよ⋯⋯俺はあんたを信じる⋯⋯」
果たして納得してくれたのか、べクリは肩を落としながらその双眸を下に向けて唇を結んだ。
「じゃあ、俺は帰るから⋯⋯その時がきたら呼んでくれ。絶対にアイツらを助ける」
「ああ⋯⋯必ず助けよう」
べグリの背中を見届けながら、どうして俺は彼に肩入れしているのかとふと考えた。
そうして導き出した答えは、驚くほど単純で、俺が何よりも欲しかったものをべグリには手にして欲しいからに他ならなかった。
べグリには、家族と再会する感動を味わって欲しい。
俺のように、復習を果たした時、もはや助けたかった者たちはどこにもいないなんてことになって欲しくないのだ。
たまたまその肩入れの相手がべグリだっただけで、それ以上の意味は無い。
べグリの精神やその弟妹達の身のことを考えるなら、1日でも早くことを起こすにはどうしたらいいのかと、当たりを散歩しながら頭を捻ってみた。
やはりまずは人集だが、どこから集めるのか、俺なんかのところに人が集まるのか、集めた人数を養う糧はあるのかなど、問題が山積み過ぎて困る。
考えているだけで、頭が締め付けられるようだ。
やはりここは、いちどメイから暇を貰うべきだろうか。
畑を作ったばかりだし、子羊もまだ生まれて間もないし、家畜泥棒がいつ来てもおかしくないが、そうする他ない。
もし兵が集まったとしたら、その者らを鍛える必要もある。
集まるとしたら、奴隷や供物という蛮行に怒りを抱いている民が多数と考えられるから、そのままでは戦えないだろう。
ということで、俺の足はルナや羊達に向かって、ではなく、メイのいる家の方に向かっていた。
戸の前に立ち、開こうとしたが中断して戸を叩いた。
すると、また中から「待っててください」という声が聞こえ、慌ただしくメイがやってくるのが分かった。
「どうもどうも⋯⋯って、望さんですか⋯⋯どうかしましたか」
メイは服の上から白い前掛けを付けていて、微かに薬膳の匂いがした。
何も考えずに来たのはいいが、いったいどうやって切り出すべきなのか。
正直に言うか適当な理由をでっち上げてしまうか、ハクラには無謀なことはしないと言っていたのに、ほんのわずかな時間で無謀を犯していた。
「何か用では?」
俺が一言も話さないので、訝しんだメイは首を傾げて目を細めた。
早く要件を話せという無言の圧が、全身にひしひしと伝わってくる。
「ハクラは昨夜、奴隷商人に捕まっていたところを俺が助けたんだ」
言い終えてすぐ、自分の口下手を恨んだ。
これだと何を伝えたいのかが分からないではないか。
「ハクラお兄ちゃんが⋯⋯ですか」
「ああ、それをルナとべグリと3人で助けたんだ」
「べグリ⋯⋯べグリ⋯⋯ああ、あの武器を売ってる⋯⋯それにしても、ルナちゃんも一緒だったなんて⋯⋯そんな危険な」
「まあ、あいつにはさすがにそれほど危険なことはさせていないが」
随分と回りくどい話し方をしているが、果たして本題に入れるのだろうか。
「だから昨夜、外に行ってたんですね」
「⋯⋯気づいていたのか」
「はい。窓をみたらふたりの影だけ見えましたから」
「そうだったのか。それで本題だが」
いきなり俺が話を変えようとするので、驚いたのかメイの頬がピクリと動いた。
「同じように兄を助けたい⋯⋯なんて言い出すつもりですか」
「ぇ⋯⋯」
瞬間、胸を射抜かれたような感覚が襲いかかり、思わず後ずさった。
「⋯⋯よく分かったな」
「私にハクラさんの話をするってことは⋯⋯そういうことかと思いまして」
「うーむ」
こう言ってはなんだが、この世界で俺が話した人間はルナを含め、あの世界の住民よりも頭がいい気がする。
正直なところ、俺の妻も友もその他大勢の者も大半は、ルナやメイ達より思慮が浅く、なんの知識も思考も携えてなかった。
それは、学ぶ機会が無いのだから仕方の無いことなのだが、だからこそ、この世界の住民の頭が際立つ。
多分だが、これが妻だったら、「それで⋯⋯貴方は結局何を仰りたいのですか」といった反応だったと思う。
妻は話に聞くところ、幼い時から親と家畜の世話や家事に追われていて、世の中のことにとにかく疎かった。
あの世界では珍しくなかったが、住まいの隣町の名前や場所すら知らないような女性だったのだ。
「もうはっきり言うが、そういう事だ。そなたの兄やべグリの弟妹を救うため、ここの仕事を少々休ませてもらいたい」
回りくどい話し方をした自分を戒めるように、俺は唇を噛んだ。
これでは、自分の口からは何も言わずに相手から欲しい言葉を待つ子供と変わりない。
「いいですよ。ルナちゃんもいますし」
メイはあっさりと承諾し、薄ら笑みを浮かべた。
「ただまあ、その間の駄賃は出せませんけど」
「それは当然だろう⋯⋯何せ働かないのだが」
「でも嬉しいですね⋯⋯身内の私達でさえ諦めていた兄を助けようとしてくれる人がいるんですから」
どこかはるか遠くを眺めるように、メイは俺の斜め上に視線を向けた。
「望さんに託しますね。なにしろルナちゃんが連れてきた人ですから」
「どういう意味だ?」
俺が疑問を呈すと、メイは意味ありげにほほ笑むだけで、家へと戻っていった。
ただ純粋に、メイはルナを信用しているということなのだろうか。
それとも、ルナには何か力があるのか。
そういえば、ルナは人が周りからどのように想われているか見る力があった。
それで俺が神として崇められていることを知り、太公望という呼び名も知った。
ルナの言っていることが真実なのは,ハクラの存在によって証明された。
それをメイも知っているから、ルナに対して信頼が厚いのだろうか。
その疑問を解消するため、俺の足はルナのほうへと無意識に動いていた。
ルナのそばには、生まれたばかりの子羊とその母親がいた。
子羊は母親に寄り添いながら乳を飲み、ルナはしゃがんでその様子を眺めている。
「授乳を眺めるのは、あまりいい趣味とは言えないぞ」
後ろから声をかけると、ルナは肩をびくっと震わせて振り向いた。
その顔は俺の接近に全く気が付いていなかったのか、口をあけながらひきつっている。
「な、なんですかいきなり」
「そっとしておいてやれ、母親のために」
「いいじゃないですか。生命の神秘ですよ」
「ほら、母親こっち睨んでないか」
母親の目が鋭く見えたのでそういうと、ルナはもう一度羊を見た後、またこちらを見て首を傾げた。
「べつに、いつもあんな顔ですよ」
「そうか⋯⋯」
「望さんがむっつりさんだからそんな風に見えるんですよきっと」
くすくすと顔をほころばせながら、ルナは人を小ばかにするように目で弧を描いた。
「俺はただ親子の時間をじろじろ見るなと言いたいだけなんだがな」
しかしながら、俺とルナがそばで話していても、子羊はお構いなしに母親の乳に夢中だ。
「まあそんな話はいいんだ。それよりひとつ聞きたいことがある」
「どうしました?」
「メイはそなたの力について知っているのか」
ルナは少し考えるように唇に人差し指を当て、うつむきながら口を開いた。
「それは、人の呼び名やどう思われているかわかるあれのことですか」
「ああ、そのあれだ」
「いえ、話したことないので知らないはずですよ。どうしたんです急に」
「いや、それならそれでいいんだ」
ならメイのルナへの信頼の厚さは別のところが由来していることになるが、それは今はいい。
「そうだ。俺はしばらく暇をもらったから、ここはひとりで頼むぞ」
ひどい事後報告だなと、自分で感じるほどには身勝手だと思う。
「そうですか。任せてください」
だがルナは詰問することもなく、あっさりと受け入れた。こういうところはメイと似ている。
「軽いな⋯⋯」
「そもそも私は望さんにこのまま暮らしてもらうつもりはないですし、動き出してくれるならそれが一番です」
まるで俺のなそうとしていることを読んでいるように、ルナは意味ありげに笑って見せた。
そこが知れぬこの猫耳少女をわずかに怖いと感じた。




