国家と決意と太公望
メイの兄が奴隷となっている。そんなこと、想定できることではなかった。
それで昨日、メイはここを飛び出した後、珍しく外に出ていたのか。見えぬ先にいる奴隷商人を憎んで。
「本当なの⋯⋯お兄ちゃんがまだ生きてるなんて」
しかし兄が奴隷となっていると知っているなら、なぜメイは兄を死んだものとして考えていたのだろうか。
基本的に、奴隷というのは無差別に殺されたりはしない。
言い方は悪いが、所有者にとって奴隷は財産であり、使い潰すまでは捨てたりもしない。
大体、奴隷の面倒を見る所有者なんて存在しないので、病気や年を取って働けなくならない限り、その身は良くも悪くも保証される。
「ああ、私は見たんだヒュイでどこかの貴族の下男として働くリシの姿を」
「あの国に連れていかれて⋯⋯生きてるなんて」
両手で口元を抑えながら、メイは声を震わせながら目を潤ませた。
「恐らくは⋯⋯贄にされそうになったが、どこかの家に気に入られて買い取られたというところだろう」
ハクラの言葉が、頭の中で何度も反復し、こびりついて離れなくなった。
贄、確かにそう言った。本来であれば、奴隷に使う言葉ではない。
その言葉を使われるのは、奴隷よりもはるかに恐ろしく哀れな者たちだ。
「贄とは⋯⋯どういうことなんだ」
黙って聞きいているつもりだったが、気がつくとハクラに声をかけていた。
俺の形相がただ事じゃなかったのか、ハクラは一瞬たじろぐと、恐る恐る口を開いた。
「はい。ヒュイという町があるエイという国は⋯⋯神への捧げものとして人身御供が行われている国なのです」
まさか、俺のいた世界よりもはるかに文明が進んだこの世界で、その言葉を耳にするとは思ってもみなかった。
なぜ愚か者は目に見えない神などという虚像のために生身の人間を犠牲にすることを厭わないのか。
神に人身を捧げてなにを享受する。みだりに殺めて何が満たされるというのだ。
命を奪われない分、奴隷のほうがまだましだ。
俺も、家族が生贄にされず、奴隷とされただけなら、もしかしたら商を滅ぼしたいなんて考えが飛躍しなかったかもしれない。
今なぜか、目の前のメイと昔出会ったひとりの女が重なった。
容姿は全くと言っていいくらい別物だが、家族が連れ去られた不幸な女として、妲己のことを思い出したのかもしれない。
その女は朝歌に住んでいた。
出身は東方の地域らしかったが、どうやら俺と似たような境遇で、家族を商の兵士に連れていかれ、神や先祖への供物にされたらしい。
帝辛の世になってから、人身御供の犠牲者はそれまで以上の数となった。
それまで、供物の対象となっていたのは、俺達姜族やその他一部の民族ばかりだったが、帝辛はその範囲を拡大させた。
東西南北に勢力を誇る部族を攻め、その成果として奴隷や供物となる人間を連れ去っては、商を興隆させるための犠牲とした。
他人にこの本音を漏らしたことはなかったが、俺にとっては、それは悪いことばかりではなかった。
人身御供とされる種族が増えたおかげで、俺の仲間は奴隷の身に留まり、命を奪われるまでには至らなかったのだから。
そして、その供物とされる者への魔の手は、妲己の両親に及んだ。
商による討伐をうけた妲己の父たちは、商が誇る屈強な軍隊に蹂躙され、逃げ遅れた者は老若男女問わず捉えられ、奴隷や供物とされた。
運良く生き延びた妲己は、朝歌にいる遠い親族を頼って、着の身着のまま、足裏を血だらけにに、その美しい髪や肌の面影すらなくなるほど悲壮な姿で走り続けたという。
そんな妲己に、俺はひそかに親近感を覚えていた。
彼女はとにかく美しかった。どんな玉でさえも彼女の前では美しさが霞み、どんな楽器の音色でも、彼女の声の前では耳障りな騒音に早変わりした。
俺は妲己を引き取った家族と懇意だったこともあり、時々様子を見に行っては、羊の乳なんかを届けてやった。
美しい娘がやってきたという噂はすぐに広がったが、妲己は半ば人間不信に陥っていて、一歩も外に出ることがなかったので、噂はすぐに下火になった。
妲己が部屋に通すのは、引き取ってくれた家族と、俺くらいだった。
どうやら、妲己は同じような過去を持つ俺に共感していたらしい。
自ら家族の話をしては、涙ぐんでいた。
当時まだ成人したばかりの娘だったから仕方がないことではあるが、俺もその話を聞いているのは忍びなく、しかしながら自ら話したがる彼女の感情を無下にはできなかった。
「子牙様がおそばにいらっしゃいますと、あの頃のように心が安らかになるのです」
時折、彼女は胸に両手を当てながらそんなことを言っていた。
同じ過去を持つ俺といて心が安らかになるのなら、その境遇を創った王朝の妃となるのは、どれほど辛いことだったのだろうか。
そして、これはすべてが終わった後に知ったことだが、俺たちに敗れた帝辛は応急に逃げ帰ると、自ら火を放って命を絶ったらしい。
その時、帝辛の多くの妾達が運命を共にしたが、どうやらその中には妲己も含まれていたらしい。
気が付くとメイの姿はなくなっていて、家の前にはハクラだけが残っていた。
「メイは⋯⋯どうしたのだ」
「私に手土産をと戻っていきました」
「そうか」
どうやら、ずいぶんと物思いにふけっていたらしい。
周りを見てみると、ルナは羊から降りておとなしく子羊を遠巻きに見守っていた。
そういえば、見た目という点では、ルナは妲己と少々重なるところがある。
といっても、妲己に獣耳や尻尾なんてものは当然なく、似通っているのは顔の造形だ。だが妲己のほうが顔つきが成熟していて、ルナのほうが目に活力を感じるという違いはあるし、髪色も妲己は墨のように黒く艶やかだった。
「あの⋯⋯太公望様」
慎み深く拱手しながら、ハクラがこちらをうかがっている。
「どうかしたか」
「大変恐縮ですが、贄と私が言ってから様子が変わられた気がしまして」
「⋯⋯ああ、昔のことを思い出していた」
「昔とは⋯⋯あの世界でのことでしょうか」
俺は口を閉じながら頷いた。メイが戻ってくる足音がしたからだ。
思った通り、メイは手土産として干した肉と野菜の類を藁のかごに入れて戻ってきた。
「これ、帰る道中にでもどう食べて」
「ああ、すまない、助かるよ」
「じゃあまたね。望さんも、よろしくお願いします」
メイはそう言って家に戻っていった。
敷地外までハクラを見送ろうと踵を返すと、ハクラが反転するのと同時だった。
「今の話なんだが」
なんだか、彼に話を聞いてもらいたくなった。
人に心の内を話したくなるのは、西伯候とあの世捨て人に対して以来だった。
ハクラは緩んでいた頬を引きながら、神妙な面持ちになって俺を横目で見た。
「子供のころ、俺の家族は商の祭事のための生贄とされた。だから、人身御供だとか生贄だとか耳にすると、どうしても思い出してしまうんだ」
歩き出しながら、気持ちが沈んでいくような感覚が沸き立つ。
泥沼に足が引きずり込まれるような感覚だ。
「もしかして、だから太公望様は昨夜我々を」
「恐らくそうだ。俺が商に奪われたのは家族だけじゃない。世話になっていた部族は商に連れ去られて奴隷とされた。そして、俺と同じような境遇だった妲己という女も、商に連れ去られ、俺が殺してしまった」
「妲己? 妲己とはあの悪女として名高い帝辛の妃のでしょうか」
ハクラの声色が高くなり、驚愕の意が込められていた。
「悪女⋯⋯ではないと思うが。別人か? いや、でも帝辛の妃なら彼女か」
「我々は妲己を悪女と習ったのですが、実像は異なるのでしょうか」
「少なくとも、俺の知る限り悪といわれるような行為をした記憶はないが」
「というより、妲己と太公望様がお知り合いという事実にまず打ち震えます。いろいろ信じられなくて」
「まあそりゃそうだろうな。俺だって目の前に湯王がいて、伊尹との思い出を語られたりしたら驚愕して腰抜かすと思う」
「まあ、腰はぬかしませんが。摩訶不思議なことがあるんですねほんと」
ゆったりとした足取りで柵のところまで到着し、ハクラは敷地の外で振り返った。
「忘れるところでした。太公望様、ひとつご忠告をさせてください」
ハクラの温厚なまなざしが一瞬のうちに鋭く光り、俺を捉えた。
「何のことかわからないが頼む」
「今すぐヒュイに手を出すのはおやめください。この国に災禍が降りかかってしまいます」
「⋯⋯俺ってそんな無謀なことするように見える?」
もしかして昨日のことで不安になっているのだろうか。
だが安心してほしい。あの商人たちがもっと兵を雇っていたりしたらあんなことはしていない。
俺はきちんと頭の中でハクラたちを開放できる算段を立てていたから行動を起こしただけだ。
「いえ、あの大賢人様に申すべきことではございませんでした。ご無礼お許しを」
拱手しながら頭を下げるハクラ。別に怒ってはいないのだ。手を出すなという理由も理解するのは容易い。
「大賢人なんて呼ばれても戸惑うだけだが、案ずるな。俺がそんな愚者なら君の時代で祀られてたりしないはずだろう」
「その通りですが⋯⋯」
何か憂いがあるのか、顔を下げたまま言葉を詰まらせている。
「心配するな。俺の原動力は怒りと憎しみかもしれんが、だからこそ無駄死にするようなことはしないのだ。ちゃんと用意してからことを起こすことにしている。俺が怒りで我を忘れる猪なら、子供のころ商の兵士に嬲り殺されているだろう」
「杞憂でしたか」
また知らない言葉が出てきたが、腕を下ろして顔を上げているところを見ると、納得したと受け取っていいだろう。
「では太公望様、失礼いたします。もし⋯⋯その時が来ましたら、すぐにでも駆けつける所存でございますので。心に留めていただけたらと」
「⋯⋯そうか。よろしく頼む」
「では」
お互いに一礼すると、ハクラはそのまま街の中央に向かって歩いて行った。
俺はその背中を見届けることなく羊たちのほうを確認した。
羊たちの様子に変わりはない。ルナも時折此方をうかがっているみたいだったが、話を聞きに来るでもなく、羊の体を枕にしてくつろいでいる。
「いやなにしているんだあいつ⋯⋯」
メイの友人とは言え、彼女の持つ財産になんて乱雑な扱いをしているのだ。
しかし、メイが何も言わない以上、俺としてはやんわりと注意するくらいにとどめておくしかない。
溜息を吐いて空を見上げると、雲が西に向かって流れていた。
俺はその雲を目で追いながら、ヒュイという街はどこにあるのだろうと、ハクラに苦言を呈されそうなことを考えた。




