猫と奴隷と太公望 6
深夜、俺たちの住処である小屋に着いたのは、朝日が出る何時間前だっただろうか。
真っ暗で足元すら見えない小屋に入り、服を着替えて眠るだけだと思い、血の付いた服を脱いだ。
「望さん⋯⋯」
突然、後ろからルナが抱きしめてきた。
俺の腹に回された手には力が入り、微かに震え、それでいて息遣いが背中に直接響いた。
何事かとそのまま動かないでいると、ルナは背中に頬ずりし始めたようで、柔らかな布のような感触が、何度も背中を撫でた。
「⋯⋯どうしたんだ」
この感触には懐かしさがあった。
だが、あの世界で後ろから抱きつかれた記憶は、孫や曾孫にされた時くらいしかない。
それとは根本的に違う懐かしさが、脳裏を駆け巡る。
それは昔、母に抱きしめられた時の記憶だ。
いつも疲れきったような顔をした母は、よく土汚れが残った手で俺を抱きしめてくれた。
その時の母の体の感触が、恍惚とした喜びと幸福感を与え、俺はそれを味わいたくて、小さい頃はよく後ろから母に抱きついては、今のルナのように頬ずりをしていた。
そんな時、母は何も言わず、俺の気のすむまでそうさせていた。
「うれしかったんですよ。望さんがやっぱり私の思った通りの人だったみたいで」
「躊躇なく人を殺せる男でよかったのか。変わったやつだな」
「むう、違いますよ」
後ろにいるから見えないのだが、ルナが頬を膨らませていることは想像に易い。
「望さんが、悲しみに包まれた人を見過ごせない人でよかったってことです」
「そんな奇麗なものじゃないけどな。もっと独善的な行動原理だ。俺が許すことのできないことをしていたから殺した。それだけだ」
まあ、だからと言って4人の死を悼んだりすることはないのだが。何しろ俺が殺したくて殺した相手だし。
「じゃあ、望さんが許せない人ってどんな人なんですか」
ルナは顔を上げて背筋を伸ばしたのか、息が首筋にかかる。
「誰かの家族や友を奪う存在……だろうな。しかし……」
「しかし……?」
「いや、それだと俺も当てはまってしまうと思ってな。俺は復讐を果たすため、あの戦いで多くの屍を作った。俺も死んでいった者の家族や友からそいつらを奪ったんだ」
そう、俺は許せない人間を殺すために、その許せない存在と同じことをしているのだ。
しかも、帝辛に関して言えば、あの男自身を恨んだというわけでもない。
「でもその矛盾は、人が生きていく上で誰でも持っているものだと思いますよ。それこそ小さな子供でも」
「矛盾とは……」
「まあ、つじつまが合わないってことですよ。俺は暴力が嫌いだって言いながら暴力をふるっている人を止めるため殴るようなものです」
「ふむ、だがそれは仕方がないことではないか。手を出す人間に言葉で説いても伝わるとは限らんし」
「そうですね。だからそんな矛盾なんてあまり気にしなくていいんですよ。本当にそれがいけないことなら、人か法律が止めてくれますから」
なんとも他人任せな論だが、妙に腑に落ちた。
「なら、俺も誰かに止められるまではこれでいいのか」
「そうです。もしもの時は私が望さんを止めますから」
「ふっ。化生に諫められたら聞かざるを得ないな」
「もう、またそんなこと言って」
起こった様子でルナは俺の首に息を吹きかけ、そのまま離れた。
振り向いても、その姿はほとんど見えずなにか動いていることが布のこすれる音で分かった。
猫は夜でも平然と行動しているから、ルナも平気なのだろうか。
そんなことを考える余裕を奪う程の睡魔が突然襲い掛かり、手探りで藁敷きを探し当て、その上に寝転がった。
眠る直前、藁を掴んでみると、どこか懐かしい母の手がそこにあるような気がした。
目を覚ますとまず、頭が痛かった。睡眠が足りていない証拠だ。
昔、部族の長老が「睡眠が人間の命の長さを決める」と言っていたが、あながち間違いでもないかもしれない。
といっても俺は、家族を殺されて商を滅ぼすまで、まともに眠れない夜のほうが多かったのだが。
結局のところ、生き物の寿命を決めるのは個体差じゃないのかと思ったりもする。
その経験として、俺より人間的で健康な生活をしていた息子たちは全員先に死んだ。
頭を押さえながら起き上がり、ルナのほうを見てみると、可憐な少女は繭にでも包まれるかの如く、体を丸めながら何の憂いも感じていなさそうな顔で眠っていた。
「顔はかわいいんだなほんと」
年寄りのおせっかいだが、悪い虫がルナにつかないか結構心配だったりもする。
この娘には俺の妻と違って、いい男と結ばれてほしいと切に願う。
ではいい男とは何なのか。まずは容姿だが、一緒にいればでどんな顔をしていても慣れるものだ。
となるとやはり性格と甲斐性だろう。
まず暴力的な男と、頼りにならない男は論外だ。
家柄なんてどうでもいいから、大事なのは俺と違って妻にやさしくできるかということと、きちんとご飯を食べさせてやれるかどうかだ。
性格といえば、義理の親の性格も重要だ。ここが悪いと生活に大きな支障が出る。
俺と妻の場合、俺の家族は死に絶えていたから、むしろ俺たちは義理の父に世話になっていた。
そのおかげで妻としては少しばかり暮らしやすかっただろうが、やはり夫が俺ではそれ自体が不幸だったかもしれない。
朝から余計に頭が痛くなりそうなことを考えていると、ルナが目を覚ました。
「んう、おはようございます」
目を覚まして早々起き上がりながら挨拶ができるのはすごい。
ルナはぼんやりと目を開くと、俺を見て目を丸くした。
「なんで、上裸なんですか」
「脱いだまま寝たからな」
「まあ、メイちゃんにみられるわけにはいきませんしね」
そういいながら、ルナは目を無造作に置かれた血のついた服に向けた。
ちなみに昨日来ていた服は、メイの家を出たお兄さんからの借りものだ。
借り物を血で染めるとか俺は最低だ。
愛用……というよりこの世界に来た時に着ていた白い着物に着替えながら、血は洗えば落ちるのだろうかと不安になった。
いつも服はルナが洗ってくれているので、信じるしかない。
血のついた服を空箱の中に隠し、メイが朝食を届けに来るのを待った。
少しして、メイはいつも通り盆を持って現れた。
「おはようございます」
なんとなくだが、俺は緊張して体が硬くなっていた。
そのせいで色々と不自然に感じたのか、メイが部屋を探るようにきょろきょろとしていた。
服は隠した。何も心配はない。と思っていた矢先、ベグリから貰った剣をそのまま床に置いていたことを思い出した。
メイの視線の動きからして、明らかに視認されている。
何か聞かれたらどう答えようか、痛む頭で考えていると、メイは何も言わずに食事だけおいて戻っていった。
メイの足音が遠ざかるのを確認しながら、ゆっくりと盆に手を伸ばして食事をとった。
「望さんそれ」
ルナは剣を指さしながら苦笑いした。
「まあ、働いてさえくれたら、干渉しないという意味かもしれない」
「大人ですねえ。メイちゃん」
「そなたと違ってな」
半分冗談のつもりでつぶやくと、ルナは俺を睨みつけながら、無言の抗議をした。
外は晴れていた。まあ格子窓から太陽の光が入っていたからわかっていたのだが、なぜか太陽の光に目がくらむと、不思議と安心できた。
羊たちを小屋の中から解放し、小屋を軽く掃除して外に出ると、敷地を囲う柵のところに人が立っていた。
誰かと思って目を凝らすと、そこに立っていたのはどうやらハクラのようだった。
昨夜は髪も顔も薄汚れていたが、ベグリの家で綺麗にしてもらったのか、顔の泥汚れや髪の汚れが落ち、彼自身が持つ活力のようなものが全身から感じられた。
「おや、太公望様ではありませんか」
ハクラに近づいていくと、彼は俺に気づいて拱手してくれた。
様付けで呼ばれるのは少々むず痒い気がしなくもないが、悪い気もしない。これは人間の性なのだろうか。
「なぜあなた様がこちらに?」
「なぜって。ここで働いてるからな」
「何という偶然でしょうか⋯⋯」
「で、ハクラはどうしたのだ。この家に用か」
「ええ、用があるというのはメイになんですよ」
ハクラの視線がメイのいる家のほうにむけられ、俺は首をひねりながら、ハクラとメイの関係性について考えてみた。
「もしや、彼女は君の婚約者だったりするのか?」
俺の質問に、ハクラは冷静に首を振った。
「いいえ。メイは言ってしまえば私の親友の妹です。まあ、私にとっても妹のようなものですね」
そういえば以前、メイには年の離れた兄がいたとルナから聞いた。
ルナはその兄のことを詳しくは知らないようだったし、ハクラのことも知らないのだろう。知っていたら昨日気づいていてもよかったはずだ。
「てことはまさか、出稼ぎに行っているというその兄についての話か」
「さすが太公望様、そのとおりです」
別に大したことは言ってない。少々俺を畏怖しすぎている気がする。
「ならメイのもとへ行こうじゃないか。あっちに回ってくれ」
入口のほうを指さし、策を開けて中に入ってもらう。
見慣れぬ人物に羊たちの注目が集まるが、ルナに乗られるのが趣味のあの羊だけは相も変わらずルナを乗せて闊歩している。
その姿を横目で見ながら、ハクラとともに家に向かった。
「しかし、世界は狭いものだな。この世界に来て君という俺と同じ世界の住人に出会い、その君は俺の雇い主と知り合いとは」
「なかなかに怪奇な縁と言えましょう。実は、私の知り合いにも同じくあの世界からの生まれ変わりがいるのです」
「ほお」
俺が足を止めると、すぐにハクラも立ち止まった。
「その者はいつ頃の人間なんだ」
「私の時代より800年ほど後らしいです。太公望様の時代からは2500年ほど経っていますね」
「に、二千……」
なんて果てしない時間なのだろうか。もはや想像するのも恐ろしいくらいだ。ようするに、俺が25回ほど生死を繰り返したらそれくらいの時間がたつということらしい。
「その者の国は、君の国とも変わっているのだろうか」
「ええ。というかその男、ヒスケというのですが、我々の国から東の海を渡ったところにある国の住民だったらしくて。なんでもその国は、日出る国と呼ばれているらしいですよ。私もおぼろげに聞いた記憶がありました。東の国の人間が朝貢にやってきて、自分たちの国をそう称したと。時代は違いますが、そこの住民で間違いないと思われます」
知らない言葉がいくつか出てきて、頭がこんがらがる。
東の海といえば、斉に行ってから何度か見たことがある。島もおぼろげに見えたことがあるが、そこの住民なのだろうか。
「確か斉の北東付近に島があったが、そこの住民か?」
「いえ、もっと遠くの国だそうです」
「ほお、あの海の向こうに国が」
まっ平らな水の上に立つ波の向こう側には、何もないものとばかり思っていた。
俺のいる大地がすべてであり、海の向こうには世界の果てしかないと、今思えばそれは思いあがりだったかもしれない。
「世界とは広いものなのだな」
ハクラは何も答えずに、俺を一瞥するとまた歩き出した。
一応は俺がメイを呼ぶつもりなので、ハクラの一歩前に出て家まで行った。
戸を叩いてメイを呼ぶと、中から「今行きます」と声が聞こえ、中はあわただしくなっていた。
「お待たせしました」
出てきたメイは俺の隣にいるハクラを見て目を丸くし、口を開きっぱなしにした。
「ハクラお兄ちゃん……久しぶり」
その声は戸惑いの色がよく出ていた。どれくらい久しぶりなのかはわからないが、メイの瞳は焔のように揺れ動いていた。
「久しぶりだね」
「ど、どうしたの急に。お兄ちゃんならいないよ」
「そのお兄ちゃんのことで話があるんだ。メイは以前、あいつはもう死んでいると嘆いていたが、生きてたんだ」
「え……」
ハクラの声に、メイは困惑しながら口を手で押さえた。
何があったかは知らないが、あまり良い話ではなさそうだ。
「あいつはヒュイにいるんだ。奴隷として。」
それを聞いて、メイは手を下ろして唇を結んだ。
今度は俺が、声を出すのを我慢するために口元を抑えていた。




