猫と奴隷と太公望 5
身だしなみを整えながらこちらに向かってくるルナの目は、いつもと変わらない彼女だけの輝きを放っていた。
俺に対する恐怖や失望は見て取れない。
この奴隷解放を俺に期待した時点で、そこは覚悟していたのだろうか。
「どうだ。これが神の姿に見えるか?」
剣を鞘に納めながら、ルナに向かって右の口角を上げた。
「さあ、私としては最初と何も変わりませんけど」
ルナは平然と、転がる死体を見下ろしてから俺を見据えた。
「でも、あの方達にとっての神にならなるんじゃないですか。救いの神に」
ルナの言葉に促されるように後ろを振り返ると、奴隷達はやはり怯えた顔でこちらを見ていたが、その中のひとり、先程と昼間目が合った青年だけは、表情から僅かな希望を覗かせた。
「救いの神ね⋯⋯俺はどちらかと言うと破壊の神だと思うんだが」
商王朝を滅ぼし、斉に封ぜられてからも、暫くは戦いに明け暮れた。
斉の部族を打ち破り、従えさせることであの荒地を治めたのだ。
斉の原住民からすれば俺は侵略者で、大いなる恐怖を抱けば、破壊の神と思われてもおかしくはないだろう。
昔の記憶はさておき、枷と縄に繋がれた彼等を解放してやりたいが、木の枷はともかく、銀色の縄はこの剣で断ち切れるのだろうか。
というかこれは、縄なんてやわな物じゃなく、もっと別の強固なものじゃないかと思う。
ひとつひとつが細く四角い物体になっており、それがいくつも連なっていて、実際に触ると鉄くらい硬い。というか鉄だろうこれは。
手で持ってみると、カチャカチャと音鳴らし、その途中途中で奴隷全員を繋ぐ足枷が付いていた。
「これどうやって外したらいいんだ」
俺は虚ろに俯くひとりの奴隷に声をかけた。
奇しくもそれは、昼間目が合ったあの男だった。
黒い髪は垂れ、フケが少々目立つが、顔立ちは整っているらしく、わずかに誰かに似ている気がした。
「鍵が⋯⋯必要です」
その声はやけに透き通って聞こえ、最初どこから放たれたのか分からなかったが、顔を上げると男が目線を枷に向けていた。
確かに、枷には小さな鍵穴のようなものがある。
となると、まずいかもしれない。
「あの男は生かしておくべきだったか⋯⋯」
頭領らしき亡骸を逆恨みで睨みつけ、唇を噛んだ。
やはり人は感情で動いてはいけないのだ。
きちんと頭の中で結末までの道筋を立てて行動しなければならない。
「いや待てよ」
この奴隷達をどこかで捉え、買い手のところまで向かっていたなら、鎖の鍵は男がどこかにしまっているはずだ。
「ベグリ。その辺に鍵がないか探ってくれないか」
半分放心状態で佇んでいたベグリに向かって叫ぶと、彼は肩を震わせて探し始めた。
ベグリと共にルナも探し始め、まずは商人たちの持ち物を確認している。
袋や箱を開けては中を覗いているが、どうやら見つかっていない。
「はあ⋯⋯手際が悪くて申し訳ない」
「い、いやそんな⋯⋯」
男に向かって謝ると、彼はたじろぎながら顔を上げた。
前髪の隙間から見える黄金色の双眸が俺を捉える。
どうやら、彼はまだ精神に異常をきたしてはいない。
俺の知る中では、捕らえられ奴隷か供物となる運命を察した人が、わずか1日で狂死したという話もあった。だが、彼はたどたどしくはあっても、昼間も唯一顔を上げてこちらを見ていただけあって、どこか毅然とした風格を感じる。
「君はどこで奴らに捉えられた?」
「え⋯⋯仕事場のすぐ近くで⋯⋯」
「そうか」
黙って鍵が見つかるのを待つのもなんだか退屈だったので、とりあえず話しかけてみたが、男は普通に答えてくれた。
「あの⋯⋯」
「ん? どうかしたか」
男から声をかけてきたと思うと、目を泳がせながら、なにか言いにくそうに口をモゴモゴとさせている。
それにしても、中々鍵が見つからないのか、商人達の道具を辺りに撒き散らしながら、ルナとベグリは必死に探している。
俺の予想では誰かが懐にでも入れていると思うが、今は話す時間が欲しいので、黙っておくことにした。
これは年寄り時代の癖だ。年寄りというのは老い先短いのに、時間の使い方がゆったりしているものなのだ。
「これから我々をどうするつもりですか」
「⋯⋯帰る家がある者は家に、無い者は⋯⋯さてどうするか」
俺の言葉が聞こえたのか、他の奴隷達が顔を上げ、こちらを見ている。
ようやく、彼らの中から俺達に対する恐怖心が薄れたのだろうか。
奴隷商人に色仕掛け仕掛ける猫耳娘がいる時点で、悪い奴ではないと信頼して欲しかった気もする。
いや、あんな娘いたら逆に不気味か。
「俺が面倒見ると言いたいが、俺も今は雇ってもらってる立場だしな。本当はこいつらの住処まで行って金品を奪って君達に渡すつもりだったが、一時の衝動でそれもダメになった」
自分に向かって吐いたため息は、いつもより長く、音が重く感じた。
「なぜ⋯⋯たった3人で危険を犯してまで見ず知らずの我々を救いに来られたのです」
男は今までで1番すらすらと言葉を述べた。
「簡単な話だ⋯⋯俺もあの男も⋯⋯そしてあの猫も、奴隷なんてものが許せないだけだ」
「そうですか⋯⋯あの、失礼でなければ名前をお聞きしても」
「太公望、今はそう名乗っている」
「⋯⋯えっ」
そよ風のような力無い声を漏らした男は、瞼を大きく開き、口を小さく開けながら、気味が悪いほどに俺のことを見つめ、瞬きをした。
「どうかしたか?」
「い、いえ⋯⋯遠い昔ですが、同じ名をした人の廟によく祈っていたものですから⋯⋯」
心臓が小さく脈打ち、咄嗟に胸を抑えた。
彼の目は変わらず、実直で嘘を言っている様子は無い。そもそもそんな嘘をつく理由が浮かばない。
まさかと思って思考を巡らすが、俺という人間がこの世界にやってきたのだから、同じことが起きていたとしても、何ら不思議はない。
「⋯⋯もしやその太公望という男、呂尚という名で呼ばれてもいなかったか」
「え、ええっ! 呂尚様です。周の文王に仕え、武王と共に殷を滅ぼした呂尚様です⋯⋯って、まさかあなた様⋯⋯」
男は察したのか、下唇を震わせながら、神妙な面持ちに変わっていった。
「ああ、俺がその呂尚⋯⋯のはずだ。殷とは王都のことか。となると武王とは息子殿で⋯⋯文王は西伯侯のことか」
「ええ。おっしゃるとおりです」
歳をとっていてよかったと、今にして思う。
俺の精神年齢が肉体と同じくらいだったとしたら、目の前の彼のように地面に尻もちをつきながら声にならない声を漏らしていたことだろう。
「ああ⋯⋯あああ⋯⋯た、太公望様」
男は完全に俺に畏怖したのか、腰を抜かしたように逸らしている。
手枷のせいで地面に手を付いていないのに、体を反らせたまま肩を震わせている。
無理もないか。祈りを捧げるような信仰の対象が目の前にいるのだから。
俺だって目の前に黄帝や禹のような方が現れたら腰を抜かして平伏することだろう。
「な、なぜこの世界に⋯⋯」
「いや知らん。気がついたらここにいたんだ。というか、やはり君も俺と同じ世界の住人だったのか」
「ええ⋯⋯私は天宝14年に亡くなりましたから、太公望様とは随分と時代が違いますが」
「うむ⋯⋯いつの時代か全くわからんな」
俺が死んですぐこの世界に生まれ変わった訳ではないことは、ルナが太公望という諡を見つけたことから検討がついていた。
「俺が生きていた時代からどのくらい後かは分かるか?」
「おそらく⋯⋯1700年ほど後かと」
「ほわぁ⋯⋯」
俺は言葉を失った。
死んでからそんなにも時が経っていたのも驚きだし、そんな時代の者とこうして別世界で邂逅するなど驚愕でしかない。
では当然、彼の時代には周も斉も存在しないのだろう。
夏や殷も滅びたのだ。周だけが続くなんて夢物語、あるはずが無い。
「君の生まれた時代の国の名を聞いてもいいか?」
「私は周最後の時代の生まれです」
「⋯⋯周はそれ程までに続いたのか? いやぁ⋯⋯さすがあの息子殿や旦殿らが造り上げた国だな。見事見事」
「あ、いえ⋯⋯申し訳ないのですが、私が生まれた周と太公望様達の周は全く別の国です。太公望様達の周ははるか昔、いちど犬戒に滅ぼされ、その後再興された後、秦という国に滅ぼされました」
「ふむ⋯⋯そうか、残念だ」
一瞬それほどまでに長く国が続いたのかと期待したが、その希望は呆気なく打ち砕かれてしまった。
「しかし、どちらも聞いた覚えのない名前だな」
「秦は後々初めて中華を統一した国で、犬戒は西域の異民族の呼び名です」
「ほう⋯⋯統一か⋯⋯空は凄まじい功績だ。してその犬戒とやら、もしかして西戎のことだったりするか?」
「恐らくは同義かと」
「ふむ⋯⋯昔西伯候と共に討伐した覚えがある。しかし商と戦った時には味方だった者たちに滅ぼされるとは、ままならないものだな」
まあ死んだあとのことまで興味は無いのだが、僅かな寂しさが隙間風となって胸をすり抜けた。
それにしてもこの男は随分と博識らしい。
ぜひもっと様々な話を聞かせてもらいたいものだ。
「そういえば、そなたの名前は?」
「王靖です。字は伯羅。この世界では偶然にもハクラという名前で生まれました」
「そうかハクラか。よろしく頼む」
そう言うと、ハクラは何故かよそよそしく頭を下げ、口を閉じてしまった。
振り返ってみると、ようやく鍵を見つけたベグリが手を死骸の血で染めながら、こちらへやって来ていた。
歪な形をした鍵を枷の穴に差し込みながら、ベグリはひとりひとりを解放していく。
足枷が外れたもの達はその場で座り込んだまま動こうとしない。
俺はひとりひとりの手枷を強引に剣で叩き割っていきながら、ひとりひとりに同じことを言った。
「家族がいるならそこへ帰るんだ。もし居ないならとりああず俺についてくるでも、ひとりでどこかへ向かうでも好きにするといい。まあ、ついてきても街に連れていくくらいしか出来ないが」
同じ文言をハクラにも告げ、全員を解放すると、皆泣いて礼を言いながらその場に蹲ってしまった。
てっきりみな家族が居ないのかと思ったがそうではなく、奴隷として死んでいくしかないと絶望していたところに光が差したので、感謝のあまり落涙しているだけらしかった。
そんな中、ひとりの女性が伏せたまま俺ににじり寄り、頭と両手を地面に擦り付けながら言った。
「ありがとうございます⋯⋯このご恩は生涯忘れません⋯⋯どうこの御恩に報いればよいのやら⋯⋯」
その声は喜びと感動で震えているのか、最後には泣き出しそうになっていた。
考えてみれば、俺は仲間や家族を奪われた恨みで商を滅ぼしたが、自らの手で奴隷や供物にされそうになった人間の縄を解き、礼を言われたことなんて無かった。
急に胸がぽっかりと空いたような虚しさに襲われながら、俺は膝をついて女性の肩を叩いた。
「ならいつか幸せになって俺に会いに来てくれ。いつになってもいいから」
そう告げると、女はくしゃくしゃになった顔を上げてすすり泣いた。
そして、あの時代、俺がどれだけ望んでも見られなかった顔を、彼女は見せてくれた。
「はい。必ず参ります」
────
解放した皆に商人たちの手持ちの金や食料を与えると、ハクラを残して全員がその場から去っていった。
「君はいいのか?」
残ったハクラに目を向けると、服の汚れを叩き落としながら、ずっと枷に締め付けられていた手首を撫でていた。
「ええ、家族は遠くにいてそもそもここ数年会っていませんし、この近くに用があるのでそちらへ寄ります」
「そうか。では我々は帰るよ。眠い」
「太公望様っ」
ハクラは慌てて土埃を払いながら、床に膝をつくと背筋を伸ばして拱手した。
「私もこのご恩は一生忘れませぬ。貴方様に出会えた僥倖を胸に刻んで生きてまいります。そしていつの日かこの御恩をお返しいたします」
なんだかずいぶんと堅苦しい。
俺は別に見返りを求めてなどいない。というかいらない。
「まあそうだな。君もどこかで幸せになってくれたらそれ以上望むことは無い」
「感謝します」
ハクラが頭を下げるのを確認し、俺は亡骸が転がる方へと向かい、その亡骸を焚き火の中に放り込んだ。
一気に人が焼ける匂いが充満するが、このまま放置しておくのはそれはそれで腐敗するだけだし、埋めるのは面倒だからとりあえず燃やすことにした。
一応、枯れ枝を焚き火に追加したりしたが、ちゃんと骨になるまで焼けることは無いだろう。
俺達は元来た道に向かって歩き出した。
すると、ハクラも同じ方向に向かうらしく、後ろからひっそりとついてきた。
「なんだ。君もこっちだったのか」
「ええ。ユピに用がありますので」
ユピとはなんだとルナに目配せをすると、彼女は俺の意を察して口を開いた。
「私たちが住んでる街の名前ですよ」
「そういえば⋯⋯今まで全く知らなかったな。知ろうともしなかった」
「まあ望さん牧場から出ませんしね」
「それもそうだな」
来た道を戻っていると、来る時よりも遠く感じるのはどうしてか。年寄りの勘違いなのか。
「それにしても、望さんってあんなふうに戦えたんですね」
ルナの声はやけに明るいというか、弾んでいるというか、とにかく陰陽で言えば陽の気が強かった。
「まあ、昔の経験だな」
「そうですか。お見事でしたよ。あれなら私を脱がせようとしたことも許せちゃいます。ふふ」
ほんのりと笑い声を出しているが、なにがルナの期限をよくしたのかさっぱらわからない。
街に着くと、さすがにこの時間はもう誰も歩いていなかった。
お陰で服が血で染っていても誰にも見られないからいい。
これでもし住民にでも見られたら、悲鳴とともに人が集まるのは間違いない。
街に着き、ハクラにこれからどうするか尋ねると、「朝に人を訪ねるのでそれまでどこかで待ちます」と言い、それなら家に泊まれとベグリが提案し、それに乗っかっていた。
僅かな笑顔を見せたハクラと、まだ弟妹を救ったわけではないせいか表情の硬いベグリと別れ、俺とルナは牧場まで戻った。
俺としても、これで終わりだとは思っていない。
少なくともベグリの弟妹を連れ戻すまでは、落ち着いて暮らすことは出来ないだろう。




