猫と釣り竿と太公望 前
ぼちぼち書いていきます。拙い文ですがお付き合いいただけたら幸いです。
いい人生だったか振り返れば、そうとも言い切れない。だが、悔いは残さなかった。あとはもう静かに眠りにつくだけだ。彼らが待つ、永遠の眠りの中へ。
誰かに看取られながら死んでいくことが、これほどまでに満ち足りて幸福なことだと知るのに、九十年以上かかるとは、俺という人間はなんとも愚かなものだったのだろう。
家族に看取られ⋯⋯といっても息子たちは先に死んでいたので、見送ってくれたのは孫やひ孫たちなのだが、その最後の別れを済ませた瞬間、目の前に無限の闇が広がる感覚がして、すべての感覚が途絶えた。
それなのに今、俺は家ではなく外にいる。
その証拠に、空はどこまでも青く、雲がゆったりと流れていく。まさか孫たちに捨てられたのだろうかと一瞬よぎったが、そんなことしたら彼らの名声に傷がつくだけだ。もし孫たちが俺を捨てたいほど恨んでいたとしても、まさかそんなこと⋯⋯本当にするなんて⋯⋯考えるだけで、動くはずのない体が身震いする。おじいちゃんそんなの悲しすぎる。
いや、体は動く。そもそも死んだなら、こうして空を眺めながら孫に嫌われてるとかくだらないことを考えることすら不可能なはずだ。
「ふんっ」
力を込めて上体を起こすと、軽々と起き上がれた。やけに体が軽い。何十年も前の感覚が蘇るようだ。つい死ぬ直前まで腰が痛くて、日課の釣りに行くのも億劫になっていたというのに。
青い空が現れたかと思えば、地面には蒼々とした芝生が広がり、その向こうに大きな川か湖のようなものが輝いて見える。草が風に揺れて波打ち、俺の肌にも柔らかな冷気が触れる。川の周りは岩場になっているのか、地面が白っぽく、ごつごつとした大きな岩が隆起しているかのように点在している。
「あれ⋯⋯ちょっと待てよ」
なぜこうも景色が鮮明に見えるのか。数年前から突然目を患い、手の届く範囲外はぼやけて見えていたのに、今ははるか上空を飛ぶ鷹の姿さえもはっきりと見える。
見慣れない景色に軽い体、それに若いころのような目の良さ。
少しずつ、今俺がどういう状況でどういうところにいるのかわかってきた。芝生を手でなでると、手に固い感触が当たる。目を向けてみると、生前何十年も愛用していた、ただ木を細い円柱に削り、糸と獣の骨で作った針を垂らした釣り竿があった。
「なんでこれまで⋯⋯」
孫たちが俺を恨んでここに捨てたのなら、わざわざ愛用の釣り竿なんて一緒にするはずがない。
それとも、せめて朽ちてく老人に唯一の生き甲斐くらいは残してやろうという心遣いなのか。だとしたら俺はなぜそこまで恨まれているのか。
思い返してみても、文字通り何もしていない。甘やかした記憶もなければ、厳しくした記憶もない。
「いつまで生きてんだよこのクソじじい」
と内心ではずっと邪険に思われていたのだろうか。だがそれは俺のせいではない。偶然の産物だ。
商の王族や家臣連中に恨まれるなら理解できる。まあだとしたら、捨てたりせず殺しているだろうが。
竿をつかんで体の前に持ち上げると、さらに驚くことに、皺だらけだった腕や手の甲が、はるか昔の若かりし頃の力強いものに戻っていた。
「あー⋯⋯そうか⋯⋯そういうことか⋯⋯」
確固たる自信がなかった推測は、確かな答えに変わった。
俺は別に、感動的な最期を迎えながらも死にきれず、孫に捨てられたわけでも、どこからか現れたかもしれない商の亡霊に誘拐されたわけでもない。
「やっぱり死んでたのか。なんだ、よかった」
そう、俺はただ死んだだけだ。死んで死後の世界へ来ただけだ。
――
昔から死後の世界について語り、想像する人間はいた。人はみな死を恐れ、ありもしない幻想に夢を描く。現世で栄華を極めた帝辛もそのひとりだった。
あの男や商の王族たちはみな、どこにも存在しない先祖の霊などというまやかしの偶像を供養するため、おびただしい数の人間をいけにえとしてきた。
いや、帝辛たちに限らない。ほとんどの人間は、天に住まう霊魂や神々に何かをささげることが人の在り方であり、美徳だと考えていた。
だが俺はそういうものを一切信じていなかった。
息子が病に倒れて死ぬ間際、「あちらの世界でお待ちしてます」なんて言われたが、そんな世界存在しないだろとしか思わなかった。
でも実際、存在した。
もし息子がこの世界にいるなら会ってみたい。そして謝ろう。当時口には出していなかったから、本人は何のことかわからないだろうが、それでも頭を下げようではないか。
ここがあの世なら妻やあの方にも会いたい。
妻と会っても正直会話があるわけでもないが、あの方にも会えたら事の顛末を報告したい。
しかしながら、俺はこんな右も左もわからない場所で闇雲に人探しするような愚か者ではない。
幸いにも、過去に僥倖をもたらしてくれた釣り竿がここにある。この竿が俺の運命を変え、濡烏色の水底から釣り上げてくれたのだ。
一先ずは、前方に見える水辺で釣りにでも打ち込むとしよう。だが死後の世界に魚はいるのだろうか。
いや、鷹が飛んでいたから魚もいるだろう。だが食べられるのだろうか。そして死人は腹を空かせるのだろうか。
まあいいとして立ち上がると、腰がしっかりと伸びた。やはり若返っているのは間違いないらしい。
だが川までは意外と距離があり、到着するころには少し息が切れていた。
川はやはりかなり大きく、上る太陽と反対に、西から東へと流れている。川の向こうにも人の住む場所は見えてこない。周り全体が静かで、自然の実が存在している。川の中には中洲がいくつかあり、足元もすでに水深がかなり深そうだ。
「んー、やはり」
水面に映った若い頃の自分の姿を見て、最初は誰かわからなかった。成人前にはいつのまにか白くなっていた髪が耳にかかり、頭頂部だけ少し毛先が跳ねている。髪と似たような色彩の着物が手首や足元まで覆い、履いた覚えのない皮か何かでできた檜に似た色の靴を履いている。
見たところ二十歳すぎくらいの頃に思える。確かこの後もいろいろ苦労しすぎて急激に老け込んだはずだ。
「まあ関係ないか」
余計なことを考えるのはやめて、竿を振る。水面に針が沈むと、円形の小さな波紋が広がった。釣りでは無心になることが大事だと、勝手に思っている。
とめどなく流れる川や雲のように、身を他者に委ねきることが肝心だ。この場合、他者とは針に獲物をひっかけてくれるかどうかの天運そのものだ。
だから俺は目を閉じる。竿に獲物がかかるその時を待って。
――
「あれれー。もしもーし。おにいさーん⋯⋯」
どうやらいつの間にか眠っていたらしい。どこからか聞こえる声で意識が呼び覚まされる。女性の声だ。それも多分、今の俺と同じくらいの年齢の。
眠っていたから声をかけてくれたのだろうか。きっとこの子も死んでここに来たのだろう。今声が若くても、前世では皺だらけだったことを願う。
目を閉じているのに、太陽の光をひしひしと感じる。
「起きてくださいよ⋯⋯大公望さん」
俺を呼んでいたと思ったが、どうやら違うらしい。 近くにほかにも人がいるのか。俺を呼んでいるわけじゃないなら、答えてやる必要はないが、このまま目を閉じているとまた眠ってしまいそうだ。
いきなり目を見開いて日の光を浴びると、まぶしくてたまらないので、恐る恐るゆっくりと視界を開いていく。目の前に先ほど見た川が現れ、何か初めて見るものが水面から顔を出している。大きな石だろうか。だがぼやけて見えるそれは俺の肌のような色に、上部分と横が赤い。
まさか血なのか。慌てて目を開けると、予想は外れていたが、別の理由で俺は絶句した。
「⋯⋯っ」
「あ、起きてくれました? 気持ちよさそうにしてましたね」
そういえば、目の前は川だったのに、声は前方から聞こえていた。いや、そんなことはもはやどうでもいい。
目の前、水面から顔を出していたのは、人といっていいのかわからない生き物だった。碧い瞳を輝かせ、牡丹の花のような鮮やかな色をした髪の少女。世の中には金色の髪を持つ人間だっているのだから、赤い髪くらいいても不思議ではない。ただ俺が絶句したのは、彼女の頭頂部についたふたつの物体のせいだ。それは上に向かって三角形を作るように先端が少々尖り気味になっている。周りを赤い毛で覆い、ピクピクと震えるそれは、間違いなく獣の持つ耳そのものだ。
少女はぼんやりと首をかしげながら、不思議そうに眼をきょとんとさせながら口を開いた。
「どうしたんですかー」
「化物か⋯⋯」
俺は思った。こんな奇妙なものが存在するあの世で、果たして妻や息子たちが無事でいられるのだろうかと。
――――
「もう、失礼しちゃいますね。女の子に向かって化物だなんて」
目の前の少女は水面から鎖骨あたりまでを出しながら頬を膨らませた。水が限りなく透明に近いため、くっきりとその全貌が確認できる。胸元があらわになった奇妙な着物を着ていて、肩と二の腕は露出し、首から黒い布が体へと垂れ下がるようになっている。黒い布は胸元で白へと変わり、また腹部で黒色へと変わっている。腹部の布地には上からさらに黒い帯が巻かれ、その帯の上を朱と金色の紐が巻かれている。奇妙な衣服で、肩や腕部分には布地がないが、肘より先が白い羽衣のような袖で包まれ、親指と人差し指の間でひっかけるようになっている。腕部分の布は生地が違うのか、それとも限りなく薄いのか、色白で透き通った肌が見て取れた。垂れ下がった布は太もも辺りで止まり、膝より少し上くらいから足元までを、ものすごく細かい網目状の黒い布がそれぞれ一本ずつの足を独立して被っている。
全体的にかなり露出が多い。昔森の中で女が裸で狂ったように火を囲んで踊る姿を見たことがあるが、衝撃度でいえばその時以上かもしれない。
「すまない、この年まで生きてきたが、人をかたどった奇妙なものを見るのは初めてなんだ」
「むっ、余計ひどいこと言ってますよ。そもそもそんなに生きてませんよね見た目的に」
「いや、こう見えて結構年寄りだぞ俺は」
「へえ⋯⋯」
目を三白眼にしながら、水辺から手で体を支えて上がってくる。その姿を何気なく見ていると、臀部の少し上から、赤い体毛で覆われた細い鞭のような物体が、背中側に伸び、先端を地面に向けて垂れ下らせていた。明らかに獣のしっぽそのものだ。やはり奇妙なものに違いない。
早く逃げたほうがいいのは間違いないが、どうもこの娘からは敵意を感じない。魑魅魍魎だからといって、いたずらに人を襲うわけではないみたいだ。
それに、彼女が呼んでいた太公望という人物の姿が見えない。ではもしかして、俺をその人物と勘違いしているのだろうか。だとしたら誤解を解いてやらねば、なんだか申し訳ない。
少女は俺の隣で膝をたたみながら座った。見たことのない靴を履いている。黒く若干の光沢があって、つま先のほうが滑らかで丸っぽい。
少女は体ごと俺のほうを見ながら、観察するように全身をじろじろと凝視してきた。
「あんまり女子から見られるのは慣れてないんだが」
「太公望さん、年寄って言ってましたけど、いったいいくつなんですか」
「さあ、百超えたか超えてないくらいだなきっと、詳しく覚えてない。で、太公望って誰だ」
質問には答え、俺も質問を返すと、少女は相貌を見開きながら、「えっ」と声を漏らした。
「あなたのことですけど⋯⋯太公望さんですよね?」
「いや、違うけど」
「え、え⋯⋯じゃ、じゃあお名前は」
なんだか随分と当惑している様子だが、いったい何を間違えているのか見当もつかない。
――君こそが我が大公が望んだ人だ。
大公という単語で、昔あの人にそんなことを言われた記憶がふと頭をよぎる。だがだからと言って、大公なんて呼ばれたことはない。
「呂尚⋯⋯字は子牙」
名を名乗ってやると少女は目を閉じながらうなりだした。それはそれとして、少し目線を下げれば胸元が見えてしまうとは精神的にあまりよくない気がする。主に俺にとって。
帝辛の妾だった妲己とどちらのほうが胸が大きかっただろう。あの女は帝辛のお気に入りだけあって、あらゆる面が他と比べて突出していた覚えがある。
「おかしいですね⋯⋯確かにあなたを見たとき太公望って名前が浮かんできたんですけど」
邪なことを考えていると、いつの間にか少女が目を開いていた。碧い玉のような瞳が光る。この目の輝きは、妲己でさえも持っていなかったかもしれない。なにぶん妲己と会ったことがあるのは何十年も前の話なので、記憶が朧気だった。
「浮かんだ? どういうことだ」
「あ、私、目の前の人が他人から何て呼ばれているか時々見えるんですよ」
「⋯⋯なんなんだそれは」
「うーん、まあ要するに、眠っていたあなたを見ていたら太公望って名前が浮かんだってことです」
「なるほど⋯⋯」
頷いてみたものの、何を言っているのかさっぱりわからない。
「あの世にはお前みたいな奇妙な存在がいるのか。これなら天帝や蚩尤も存在してそうだな」
「そのお二方のことは存じませんけど⋯⋯私は魑魅魍魎じゃないですし、ここはあの世ではありませんから」
口元をひきつらせた少女を見ながら、俺は首を傾げた。
「いや、俺は確かに死んだはずだが、君も死んだんじゃないのか」
「失礼ですね⋯⋯死んだことなんてありませんよ⋯⋯」
確かに初対面の相手に、あなた死んだことありますかなんてものすごく無礼な質問だろう。
ずっと川の中に垂らしていた釣竿を引き上げる。当然ながら魚はかかっていない。何しろ餌をつけていないのだから。骨で作った針が空しく揺れ動く。
「じゃあなんだ? ここは斉のどこかなのか」
「せ、せい? どこですかそこは。ここはボクレンっていう国の中ですよ」
「どこだそこ⋯⋯」
そんな地名は斉の中で聞いたことがない。
いや、ちょっと頭が混乱しすぎている。
姿勢を整えるように胡坐をかき直し、大きく息を吸い込む。川の冷たく無味に近い淡い香りが、体中の巡りを整えてくれた。
若返った肉体、謎の奇妙な存在、知らない場所に知らない地名、そして太公望という名前⋯⋯微かに今置かれている状況の全貌が見えてくる気がする。
「なあ、名前が見えるといったが、字はわかるのか?」
俺は竿を持ったまま腕を組み、うつむいた少女の返答を待った。
「分かりますよ。こんな文字でした。初めて見ましたけど」
そういって指で地面に書き始めた文字は、俺が思っていた通りのものだった。
『太公望』
随分と歪んではいるものの、間違いなかった。望の字の意味は知らないが、大公ならわかる。何しろ俺は大公なのだから。
深い意味はない、ただ息子や孫の親であり祖父であり、斉という国の親であるだけだ。だが当然、直接大公なんて呼ばれたことはない。これはあくまでも、現世を去った人間を呼ぶときの呼び名だ。
「要するにあれか、俺は死んであの世ではなく別の現世に迷い込んでしまったのか」
そうつぶやくと、全身から力が抜ける。考えてみれば、どうしてこの少女の言う名前が見えたなんて摩訶不思議なことを信じているのだと思うが、人間の姿で獣の耳と尻尾を持つ奇妙な存在の言うことだ。
信じるほかない。何せ俺自身、若返るという神がかり的な現象をもう自ら体感しているのだから。今突然空が闇に染まって奇妙な存在どもが降ってきて妖怪大戦争が起きても驚きはしない。
隣の少女を見てみれば、ぼんやりと俺を見つめながら、何か納得したのかうんうんと頷いていた。
「なるほど、だから自分を年寄りだと。で、太公望っていう名前は結局何なのです」
「俺に聞かないでほしいんだけど、たぶんあれだ。死後の呼び名だ」
「戒名みたいなものですか」
「それが何かまずわからん⋯⋯」
また何か知らない単語が出てくる。それも死後の呼び名なのか。
「ところで、どんな奴が俺をそう呼んでるとかはわからないのか」
「分かりますよ。ちょっと失礼しますね」
少女は膝立ちになると、俺の側頭部を両手で挟み、額と額をぶつけた。彼女の匂いが鼻腔をくすぐる。どんな香よりもかぐわしく甘美で、官能がくすぐられる。
鼻先が触れそうになりながら、少女は目を閉じる。
「うーん。たくさんの人に呼ばれていますね。皆さん畏敬の念を抱いてますよ」
言葉とともに漏れ出た息が顔をくすぐり、俺の胸があわただしく鼓動する。何しろ、妻が死んでから数十年、子孫とその嫁くらいしか女と触れ合う機会はなかったのだ。
しかも触れ合うといっても、日常の世話をされるくらいだ。多少のことで動揺するのは仕方がないことだ。
「ていうか⋯⋯あなた祭られてますよ⋯⋯神様みたいに」
「ほへぇ」
気の抜けたような声が口からまろびでたところで、少女は顔を離し、俺の鼓動は落ち着きを取り戻した。
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