その99 邪神軍の逆転と船上の皮算用
◆邪神軍・虚無の牢獄
「ふふふ……どうやら貴様には、どんな拷問も通用しないようね」
「ならば、最後の質問よ。貴様の精神構造そのものを分析させてもらう」
邪神姫アザトース=アポフィス=ド・ティラミス=ラグナロク=ペルセポネ=あんみつ九世(もはやただの文字列)は、知的な探求者の目でけんたろうに尋ねた。
「貴様ら人間は、暇な時に何をして過ごすのだ? 『娯楽』について教えなさい」
「え、娯楽ですか……。まあ、ゲームとか……」
「ゲーム? それはどんな儀式だ?」
「いや、儀式とかじゃなくて……
テレビ画面の中のキャラクターを操作して、敵と戦ったりする遊びです」
「ほう、遠隔で他者を操る傀儡の術か。
それで、その戦いに負けたらどうなる?」
けんたろうは、当たり前のことを言うように答えた。
「別に……セーブしたところから、ロードしてやり直すだけですけど」
「……は?」
邪神姫の顔から、表情が消えた。
「……せーぶ? ……ろーど……?」
「ええ。時間を記録して、好きな時にその時点まで戻れるんです。死んでも、何度でも」
その瞬間、全能の邪神姫の体が、カタカタと震え始めた。
(時を……記録……? 死を超えて、過去に戻る……だと……!?)
(それは、因果律を破壊し、世界の理そのものを捻じ曲げる、神々すら手を出すのを禁じた絶対禁忌……!)
(人間は……そんな恐るべき秘術を……『遊び』と称して、日常的に行っているというのか!?)
邪神姫は、けんたろう個人ではなく、「人間」という種族が持つ、底知れないポテンシャルと狂気に、本能的な恐怖を覚えた。
(この男を、これ以上試すのは危険だ……!
こいつの常識は、我々の非常識……!)
彼女は、自分が見ているものが、巨大な氷山の、ほんの一角に過ぎないことを悟った。
◆邪神軍本拠地:神殿最奥・玉座の間
魔王軍の猛攻は苛烈を極め、邪神軍は徐々に、しかし確実に追い詰められていた。
ハドうーの圧倒的なパワー、ファイアイスの破壊衝動、デュランダルの死霊術、そしてヴェリタスの鉄壁の守り。
「ば、馬鹿な……我らが、押されているだと!?」
「魔王軍め……ここまでだったとは……!」
その時――。
パズスの脳内に、氷のように冷たい声が響いた。
『……パズス。聞こえるか?』
「こ、この声は……姫……!」
その瞬間、彼の全身を悪寒が走った。
別の場所にいる、邪神姫アザトース=アポフィス=ド・ティラミス=ラグナロク=ペルセポネ=あんみつ九世の声が、空間を超えて直接、魂へと突き刺さってきたのだ。
『我が視界はすでに、そちらを見ている。
このままでは、我らの威光に泥を塗ることになる……。
――禁呪を解放しなさい』
「な……禁呪を……!?」
低く、しかし空間全体を震わせる声。
その一言で、場の温度が一瞬にして氷点下まで落ちる。
パズスが眉をひそめ、一歩前に進み出た。
「……お待ちください、我が姫よ。
まさか、あの禁呪をお使いになるおつもりで?」
邪神姫は、わずかに目を細め、静かに頷いた。
「そう。『ティノレトウェイト』――この世の理を風化させる呪文よ。
この戦、長引かせるわけにはいかぬ。
あの者たちを塵に変えるまで」
「……良いのですか?」
パズスの声が震える。
その瞳には、恐怖と忠誠がせめぎ合っていた。
「良い。命ずるわ、パズス。――唱えなさい」
パズスは、青ざめた顔で周囲を見渡した。
アーリマン、エキドナ、ニャラルトホテプ――三柱の邪神が、一斉に顔色を変える。
それは、彼ら三柱の邪神ですら見たくなかったものへの本能的な拒絶だった。
「ま、待て……まさか、本気か……!」
「ティノレトウェイトなど放てば、この神殿が……いや、この世界が崩壊するぞ!」
「あの方……この地を焼き払う気か……!」
パズスは静かに頷いた。
「――命令だ。姫より、直々に」
三柱の邪神が息を呑む。
エキドナの手が震え、ニャラルトホテプの笑みが凍りつき、アーリマンは頭を抱えた。
「くそっ……わかった!時間を稼ぐ!パズス、詠唱を急げ!」
ニャルラトホテプの号令一下、アーリマンとエキドナが、自らの身を犠牲にする覚悟で魔王軍の前に躍り出た。
「させるかよォ!」
アーリマンの拳がハドうーを、エキドナの呪いがヴェリタスを、それぞれ足止めする。
「……助かる、三柱よ」
パズスは、静かに天を仰いだ。
禍々しい光が、その身を包み始める。
そして、低く、恐ろしい旋律が彼の口から紡がれた。
沈黙が、場を支配した。
パズスは両手を天に掲げ、禁断の詠唱を始めた。
それは、かつて彼が滅ぼした文明の、怨念と絶望を束ねた言霊の羅列。
「――虚ろなる玉座より生まれし、最初の嘆き」
「――砂に埋もれし王たちの、忘れられし墓標」
「――渇いた喉で水を求め、ついには己が血を啜った、聖職者の最後の祈り」
「――母を売り、子を食らい、それでもなお生きようとした、愚者の醜き渇望」
「――天に唾を吐き、神を呪い、己が無力を悟った、賢者の涙」
「――愛を信じ、裏切られ、絶望の淵で自ら命を絶った、乙女の怨嗟」
「――星空を見上げ、故郷を想い、異国の土に還った、兵士の無念」
「――奪われ、犯され、汚され、それでもなお我が子を抱きしめた、母の祈り」
・ ・ ・ 禍々しい言霊が紡がれるていく。
しかし、彼の周囲に満ちていく魔力は、空間そのものを震わせ、次元に亀裂を走らせていた。
「まずい! 何か来るぞ!」
デュランダルが叫ぶ。
「止めさせろ!」
ハドうーが、アーリマンを殴り飛ばし、パズスへ向かおうとする。
だが、ニャルラトホテプの幻影が、その行く手を阻んだ。
そして、ついに、最後の言霊が紡がれる。
「――すべての終わりを、ここに告げる」
「ティノレトウェイト!!!」
パズスの体から、灰色の風が放たれた。
それは、呪文ではない。
すべての時間を喰らい、万物を風化させる「絶対的な終わり」そのものだった。
「ぐっ……!?」
ハドうーの強靭な肉体ですら、その風に触れた瞬間、皮膚がひび割れ、崩れ落ちていく。
驚異的な治癒能力が、風化の速度に追いつかない。
「くそっ……まともに食らっちまった……!」
炎の化身ファイアイスも、その勢いを失い、膝をついた。
「我が冥術が……風化していく……!?」
デュランダルも、冥術の書が砂のように崩れていくのを目の当たりにし、戦慄した。
ただ一人、ヴェリタスだけが「ダークイージスシルド」でその身を守り、無傷で立っていた。 しかし、たった一人で、この絶望的な状況を覆せるはずもない。
禁呪を放ち終えたパズスは、魔力を使い果たし、その場に崩れ落ちた。
だが、彼の顔には、満足げな笑みが浮かんでいた。
魔王軍の誇る精鋭たちが、たった一撃で、壊滅寸前に追い込まれた。
戦況は、一瞬にして、絶対的な絶望へと塗り替えられた。
魔王軍、絶体絶命のピンチ。どうする!?
◆勇者一行:船上にて
手に入れた船に乗り、一行は次の大陸を目指していた。
広大な海原を眺めながら、仲間たちは思いにふける。
「なんだかんだ、強くなったよね、私たち」
カティアがしみじみと呟く。
「ええ……リリィ様についていけば、本当に魔王を倒せるかもしれない……」
ミレルカが希望に満ちた目で水平線を見つめる。
しかし、そのリリィは、甲板で一人、ブツブツと何かを計算していた。
「唐辛子の売上でしょ……船の命名権ビジネスの利益がこれでしょ……」
「次の大陸で新しいビジネスを始めれば、資産はさらに倍……」
「最終的に、魔王を倒した後の世界で、私が一番の大金持ちになる……ククク……」
その邪悪な笑みに、エルが呆れたようにツッコミを入れた。
「あんた、魔王を倒すことより、その後の資産形成のことしか考えてないでしょ!」
「当たり前じゃない! 勝利の果実を、どうやって美味しくいただくかが一番大事なのよ!」
リリィは高らかにゲスの格言を叫んだ。
「覚えておきなさい!
戦いは、終わった後が本番!
利益を確定させるまでが、私の戦いよ!」
◆魔王様、ご帰還
その頃、魔界王宮《メフィス・ヘレニア・ダークネス・クレプスキュール宮殿》に、空間の裂け目が開いた。
「けんたろーう! ただいま帰ったぞー!」
魔王ディアボル=ネーメシア=アークトリウス=イレイザ=ヴァルハラ=トラジディア十三世が、上機嫌で玉座の間に降り立つ。
しかし、そこに愛しい婿の姿はない。
「……けんたろう?」
その声に、緊急対策本部が凍り付いた。
ネフェリウスが、滝のような汗を流しながら叫ぶ。
「婿殿奪還の前に、魔王様が帰ってきてしまったのである!
下手をすれば、我ら全員処刑なのである!」
「ネフェさん……どうします?」
アスタロトが冷静に問いかける。
「なんとかごまかせないか……いや、無理だ……」
ザイオスが、ゴクリと喉を鳴らす。
「腹をくくって、正直に話すしかあるまい……。
暗黒竜と戦った時より、緊張する……!」




