その87 混沌の姫君、あるいは至高の煮卵
◆虚無の牢獄 。
暗い。寒い。
けんたろうの意識は、冷たい水底に沈むように曖昧だった。
手足に絡みつく鎖は物理的なものではなく、精神そのものを縛り付ける呪いの楔。
抵抗しようにも、指一本動かす気力すら奪われていく。
(……魔王様……)
助けを求める声も、今は届かない。
その時、不意に目の前の空間がゆらりと歪んだ。
漆黒の闇よりも深い虚無から、一人の少女が音もなく現れる。
銀色の髪、人形のように整った顔立ち。
だが、その瞳に宿る光は、星々が死滅する瞬間のような、冷たい輝きを放っていた。
(……誰だ……? 箱根で会った……)
霞む記憶の中で、アストラル体で対峙した少女の姿が重なる。
少女はゆっくりとけんたろうに近づき、その長い名を紡いだ。
「我こそは、邪神姫アザトース=アポフィス=ド・ティラミス=ラグナロク=ペルセポネ=あんみつ九世」
禍々しい単語の奔流に、けんたろうの意識がさらに遠のく。
(……なんか、甘いものが食べたい……)
邪神姫は囚人のそんな内心を知る由もなく、その細い指でけんたろうの顎をすくい上げ、顔を覗き込んだ。
血の通わない陶器のような肌が、すぐそこにある。
「おまえが、あの魔王が大事にしている人間か……」
声は静かだったが、宇宙の真理を問うような重みがあった。
けんたろうは、蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。
その瞳の奥にあるのは、興味か、侮蔑か、あるいは――。
◆邪神軍本拠地:冒涜の神殿
「フン……思ったより早いじゃねえか、魔王軍の雑魚ども。」
邪神軍幹部・パズスが笑みを浮かべる。
絶対悪の化身アーリマンは、神殿に迫る魔王軍の気配を感じ取り、不敵な笑みを浮かべた。
その口元から覗く牙が、獲物を前にした捕食者のように鈍く光る。
その凄まじい闘気に、他の幹部たちが息をのむ。
「アーリマン……貴様、何か策があるのか?
その笑み、まさかこの神殿ごと奴らを……」
ニャルラトホテプの問いに、エキドナがうっとりと吐息を漏らした。
「まあ、素敵……。
獲物を前にした獣のよう。
その瞳、ゾクゾクするわ……」
しかし、アーリマンの思考は、彼らの想像の遥か斜め下を爆走していた。
(よしッ! この調子なら昼までに連中を片付けられる!
そうすりゃ開店ダッシュで『麺屋カタストロフ』に間に合う!
今日は煮卵サービスデー……!
俺の胃袋が、あのトロットロの半熟を求めて叫んでやがるぜ…!
ニンニクアブラカラメマシマシで食ってやる…!)
アーリマンはポケットの中にある使い込まれたポイントカードをギュッと握りしめる。
その姿は、最終破壊兵器の起動キーを握りしめる悪の化身そのものだった。
◆魔王軍:神殿へ進行中
ハドうーが門番を消滅させた後、魔王軍の進撃に一切の淀みはなかった。
「進め! けんたろう様を救出するまで、歩みを止めるな!」
ハドうーが檄を飛ばす。
通路に溢れ出る邪神軍の兵士たちも、ファイアイスの煉獄の炎に焼かれ、ヴェリタスの剣で切り裂かれ、そして何より、先頭を歩くハドうーが放つ覇気だけで塵と化していく。 それは、もはや進軍ではなく、蹂躙であった。
◆勇者一行:ピラミッド最深部
「ぐっ……こ、こんな人間がいるなんて……」
壁に叩きつけられたバルドが、悔しさに顔を歪める。
リリィがとどめを刺そうと一歩踏み出した、その時。ピラミッドの壁から無数の死霊たちが黒い霧のように溢れ出し、バルドを守る盾となった。
「リリィ…! この屈辱、忘れるな…!
次こそは、貴様のその傲慢な魂ごと冥府へ送ってくれる…!」
捨て台詞を残し、バルドの体は死霊たちに抱えられ、闇の中へと消えていった。
「ふん、負け犬の遠吠えね」
リリィは鼻を鳴らすと、駆け寄ってきた仲間たちには目もくれず、傷だらけのままキョロキョロと辺りを見回し始めた。
そして、ニヤリと極上のゲスい笑みを浮かべる。
「OK! ボスは逃げたけど、ここは古代王家の墓!
つまり、経験値(ザコ敵)とゴールド(お宝)の宝庫よ!
ミレルカは鑑定、エルとカティアは袋の準備!
一欠片たりとも残さず回収するわよ!」
その言葉に、仲間たちの魂のツッコミが炸裂した。
「いや、私たちはトレジャーハンターじゃないんだけど!?」
「せめて傷の手当てをさせてください! 血が垂れてます!」
「もうどっちが悪党なんだか……」
宝の前に倫理など不要。欲望こそがコンパスだ!




