その85 虚無を征く者たち
魔王ディアボル=ネーメシア=アークトリウス=イレイザ=ヴァルハラ=トラジディア十三世の婿、けんたろうが邪神軍にさらわれた。
主が別次元の人間界から戻られる前に、救出しなければならない。
それは、魔王軍の威信と忠誠心、そして何より、主の心を悲しみで満たさせないための、至上命題であった。
魔王軍けんたろう救出部隊は、邪神軍の本拠地『混沌の渦』へと続く前線基地、『虚無の谷』に到達した。
ここは物理法則が歪み、空間そのものが敵意を持って襲いかかってくる呪われた土地。
一歩進むごとに、常人ならば発狂するほどの精神汚染に苛まれる。
普段は「回転寿司の食べる順番」や「きのこ・たけのこ論争」で真剣に頭を悩ませている彼らだが、ひとたび戦場に立てば、その姿は一変する。
彼らは、魔王が認めた魔界最強の布陣なのだ。
「ギシャアアアアアッ!!」
空間の裂け目から、名状しがたい異形の魔物が無数に溢れ出した。
触手と刃が入り混じったような醜悪な姿で、精神を直接攻撃する不協和音をまき散らしながら殺到する。
先陣を切るのは、炎と氷をその身に宿す魔人、ファイアイス。
「ヒャッハー! 雑魚が何匹集まろうが、ゴミはゴミだぜェ!」
彼の左腕から放たれた極低温の吹雪が、殺到する魔物の群れを瞬時に凍てつかせ、氷の彫像へと変える。すかさず右腕に宿した獄炎がそれを薙ぎ払い、魔物たちは一瞬で蒸発、塵すら残さず消滅した。
その姿は、混沌を浄化する荒ぶる災害そのものだ。
部隊の後方、漆黒の全身鎧に身を包んだ黒騎士ヴェリタスは、静かに大盾を構える。
魔物の残党が放った、触れた者の存在そのものを消滅させるという呪詛の光弾が、雨のように降り注いだ。
「―――無駄だ」
ヴェリタスが構えた大盾『ダークイージスシルド』が黒い光を放つと、呪詛の光弾は盾に触れることなく、まるで別の次元に吸い込まれるかのように霧散した。
彼の守りは絶対。
いかなる攻撃も、彼の護るべき仲間には届かない。
そんなヴェリタスの隣で、ローブを目深にかぶった冥術士デュランダルが、古文書を片手に淡々と詠唱を続けていた。
「古き理よ、我に応えよ。混沌の内に、秩序の道を示せ」
彼の詠唱に呼応し、敵の足元に複雑な幾何学模様の魔法陣が展開される。
魔物たちは身動きが取れなくなり、自らの邪気によって内部から崩壊していった。
デュランダルの知性は、この狂気の地における唯一の羅針盤であり、最も効率的な殲滅兵器だった。
そして、その部隊を率いるのは、魔王軍総司令官ハドうー。
彼は、マントをまとったまま、ただ静かに前を見据えていた。
「各員、気を抜くな。ここまでは、ただの庭先に過ぎん」
その時、谷の奥からひときわ巨大な邪気が膨れ上がり、山のような巨体を持つ異形の魔物が姿を現した。
それは、この谷の主ともいうべき混沌の化身。
ファイアイスが炎を滾らせ、ヴェリタスが盾を構え、デュランダルが次なる術式を準備する。
だが、それよりも早く、ハドうーが動いた。
「―――邪魔だ」
一言だけ呟くと、彼の拳から地獄の爪が飛び出す。
地獄の爪の一閃。
次の瞬間、世界から音が消えた。
ハドうーが振るった一撃は、空間も、時間も、因果律さえも断ち切るかのような絶対的な一閃。
巨大な魔物は抵抗する暇もなく、その存在ごと「無」に還された。
ハドうーの拳の爪は、何事もなかったかのようにその拳の中へ戻る。
「行くぞ。我らが『宝』は、この先で待っている」
その背中は、魔王軍最強の司令官たる威厳と、揺るぎない覚悟に満ちていた。
魔王様が不在の中、魔界最強の精鋭部隊は、主の婿を救うため、混沌の深淵へとその歩みを進める。
その頃、リリィは苦戦を強いられていた。
キィン! と甲高い金属音が響き、リリィの持つ『光輝の剣』が重い一撃に弾かれる。
目の前に立つのは、魔王軍・不死軍団長のバルドだ。
「どうした、勇者!
その程度か!
グレンの剣が泣いておるぞ!」
「うるさい! 親父の名前を軽々しく呼ぶな!」
バルドの剣技はまさしく達人の域。
一撃一撃が重く、速く、そして正確無比。
リリィは神の加護による超人的な身体能力で辛うじて対応しているが、剣術そのものの技量では、明らかにバルドが上回っていた。
(このバルドってやつ…強ぇー!
今まで戦ってきた魔物とは、格が違う!)
一方、バルドもまた内心で驚愕していた。
リリィの剣筋は荒削りだが、その一振りは常識外れのパワーとスピードを秘めている。
それは技術ではなく、もっと根源的な、理不尽なまでの「力」。
(この小娘…!
我が師の娘とはいえ、なんという強さだ…!
これが、神に選ばれた勇者の力か…!)
両者の剣が再び激しく打ち合わされ、火花が散る。
パワーと技術、神の加護と百戦錬磨の剣技が、互いに譲らず拮抗していた。
この戦い、まだ決着は見えない――。




