その74 龍神様も逃げ出す地獄のエンゲージ
芦ノ湖畔に佇む、荘厳な平和の鳥居。
箱根神社への参道で、魔王ディアボル=ネーメシア=アークトリウス=イレイザ=ヴァルハラ=トラジディア十三世(タイピング練習教材)は、けんたろうの手を固く握りしめていた。
「けんたろうよ、この神聖な場所で、余たちも永遠の愛を誓おうではないか」
「いや、ここ日本の神様の場所なんで…魔王様とはジャンルが違うというか…」
けんたろうが必死で断るが、魔王は聞く耳を持たない。
二人が境内を進むと、『九頭龍神社』と書かれた看板が目に入った。
その文字を見た瞬間、魔王の表情がスッと冷たくなる。
「…九頭龍…?」
魔王の口から、氷のような声が漏れた。
「忌々しい名を思い出すわ。
かつて別次元で余の領域を荒らした、生意気な九頭の龍がおってな…」
魔王の全身から、黒いオーラが立ち上り始める。
周囲の空気がビリビリと震え、木々がざわめき、平和だった神社の空気が一変した。
観光客が「なんだか急に寒くない?」
「悪寒が…」とざわつき、神主が慌てて様子を見に出てくる。
「そやつ、余の顔に泥を塗りおってな…! 余がその九つの首を一本ずつ引きちぎり、魂ごと虚空に投げ捨ててやったわ!」
ゴオオオッ!と、暗黒闘気が渦を巻く。
芦ノ湖の水面が不気味に波立ち、空は厚い暗雲に覆われた。
箱根の守り神であるはずの九頭龍は、魔王の殺気に怯え、完全に鳴りを潜めてしまった。
その時、渦巻く暗黒闘気の中から、ゆらりと一体の幻影が現れた。
魔王に似た美貌、
しかし、より蠱惑的で、より混沌とした気配を纏う女性の姿。
その幻影は、魔王を嘲笑うかのように口を開いた。
『あら、ディアボル。こんな辺境の地で、人間相手に痴話喧嘩?
随分と堕ちたものね』
「…その声、邪神姫か。
アストラル体で何の用じゃ」
『あなたの“愛”という名の執着が、時空を歪ませていたから、少し様子を見に来ただけ。
ねえ、その男、私が貰ってあげようか?
あなたより、よっぽど楽しませてあげられるわよ?』
邪神姫と名乗る幻影が、けんたろうに妖しく微笑む。
魔王の目が、カッと見開かれた。
「余の婿に手を出すか…いい度胸じゃ。
神であろうと、塵にしてくれるわ!」
魔王と邪神姫、二つの超常的な存在の殺気がぶつかり合い、空間が悲鳴を上げる。
けんたろうは、神話レベルの痴話喧嘩(?)に巻き込まれ、ただただ失神寸前だった。
◆魔王軍:アンデッドには過酷な環境
灼熱の砂漠。
昼。
「あ…暑い…」
不死軍団長バルドは、ピラミッドの陰でぐったりしていた。
肉体はないが、魂が灼けるような暑さだ。
「軍団長殿! 我々、アンデッドは暑さに弱いのでは…!?」
「う、うむ…骨がキシキシする…カルシウムが溶け出すようだ…」
兵士たちが、ミイラ男の包帯を日よけ傘代わりにしている。
そして夜。
気温は氷点下近くまで下がる。
「さ…寒い…」
バルドは、カタカタと全身の骨を震わせていた。
「軍団長殿! 骨の髄まで凍えますぞ!」
「さっさと火を焚け!…あっ」
焚火の周りに集まったスケルトン兵の一人が、寒さで震えるあまり、自分の腕の骨(尺骨)を薪と間違えて火にくべてしまった。
「あああ! 我が腕が! しかし…温かい…!」
「おお、自己犠牲の精神…!」
「いや、ただの間違いだろ!」
昼は暑さで思考が停止し、夜は寒さでまともな判断ができない。
勇者が来るより先に、過酷な自然環境によって不死軍団は壊滅の危機に瀕していた。
~その頃の勇者は~
アライクムを発ち、本格的な砂漠地帯に足を踏み入れたリリィ一行。
その目の前に、巨大な緑色のハサミを振りかざす魔物が現れた。
「あれは…『地獄ガニ』!」
エルが叫ぶ。
その装甲は鋼鉄よりも硬く、並大抵の攻撃は通じない難敵だ。
「フハハハ! 勇者一行と見受ける!
我が硬き甲羅の錆にしてくれるわ!」
地獄ガニはそう言うと、呪文を唱え始めた。
「ヌワルト!」
カキィン!と、地獄ガニの体がさらに硬質な輝きを放つ。
カティア「ただでさえ硬いのに…私の剣が通るかどうか…」
ミレルカ「長期戦になったら、私の回復呪文で…」
だが、地獄ガニの猛攻は止まらない。
「ヌワルト! ヌワルト! ヌワルト!」
なんと、防御呪文を三度も重ね掛けしたのだ。
地獄ガニの体は、もはやダイヤモンドのように輝いている。
「フハハハハ! これで貴様らの攻撃は一切効かん!
絶望の中で、我がハサミに砕け散るがいい!」
地獄ガニが絶対の自信と共に、勝利を確信する。
仲間たちが絶望的な表情で武器を構える中、リリィだけは無表情で言い放った。
「お前なんかとは戦わん」
リリィは地獄ガニに背を向け歩き出す。
地獄ガニは真正面には歩けない。
ゲスのスルー。略してゲスルー!




