その66 アンチクライスト・ラプソディ
けんたろうは一人で書斎を眺めていた。黒曜石でできた机の上に、開いたままの日記が置かれている。
「あ……魔王様の日記……」
見てはいけない。でも……気になる。
そろり、そろりと近づいて、斜めからチラ見。
『×月△日 曇り、時々心の涙
人間界からさらってきてしまったけんたろう。最近、元気がないように見える。故郷が恋しいのだろうか。窓の外を遠い目で見つめていることがある。きっと、故郷の家族や友人を思い出しているに違いない。
余は彼をここに縛り付けているだけなのではないか。彼の真の幸福は、人間界の青い空の下にあるのではないか。そう思うと、この暗い魔王城で彼を独占している余が、ただの身勝手な魔王に思えてくる。
さみしくないかしら。余がそばにいるというのに、彼の心の隙間を埋められていないのなら、それは余の力不足だ。
何か、彼が喜ぶことをしてやりたい。そうだ、彼の故郷の料理とやらを作ってやろう。確か「からあげ」とか「オムライス」というものがあると聞いた。
愛しているからこそ、手放したくない。だが、愛しているからこそ、彼の幸せを願わずにはいられない。ああ、この矛盾した想いに、胸が張り裂けそうだ。この身勝手な愛を、神(いたら魔剣アルケラトスでぶった切るけど)はお許しになるだろうか。』
「…………………」
けんたろうの顔がみるみるうちに赤くなる。
「うわあああああ! これ、純愛じゃん! 純愛すぎるじゃん! どうしよう、魔王様……!」
けんたろうの目から、滝のように涙が溢れた。さらってきたとか縛り付けてるとか物騒な単語はあるが、その根底にあるのは、あまりにも純粋で、あまりにも重い愛。そして致命的にズレている優しさ。想像するだけで胃が逆流しそうだが、その気持ちが嬉しかった。
恐怖と畏怖で成り立っていた関係に、「愛」という名の新しいバグがインストールされる。もうどうにでもなれ。けんたろうが、この狂おしい愛に身を委ねようと決意した、その瞬間。
「何がどうしようじゃ?」
「ひぃぃぃぃ!?」
いつの間にか背後に立っていた魔王様。けんたろうは振り返ると、魔王様の優しい微笑みと目が合った。
「日記、読んでしまったのじゃな」
「す、すみません……!」
「構わぬ。むしろ、余の想いが伝わって嬉しい」
そっと、けんたろうの手を取る魔王様。
「からあげ、作ってみたいのじゃ。一緒に作らないか?」
「……はい」
けんたろうは、自分でも驚くほど素直に頷いていた。
~~~川~~~
そのころ魔王軍では、生誕祭&箱根温泉旅行実現のため、人間界バイトサバイバル真っ最中。
会議室——という名の居酒屋(大ジョッ鬼)の座敷に、疲れ果てた幹部達が順に揃う。
ハドうー「同志よ!今日も生き残ってくれて嬉しい。我らは肉体労働に強い(筋肉痛で全滅だが)」
ネフェリウス「下等生物・人間に学問を教えて疲れ果てた。我が魔力も四割削れた」
ザイオス「私は立ち食いソバ屋。朝の忙しさはまさに戦場だ」
ヴェリタス「私は給食を作っていた」
アスタロト「私はたらこソース」
ファイアイス「俺は……倉庫とプールでクビになった」
ハドうー「……お前の火力は、世界がまだ早い」
目標金額にはあと一歩届かなかったが、誰も彼も魂を削ってギリギリ集めきった。最後にファイアイスのクビ手当(?)を小銭で積み、ついに「魔王様と婿殿ご招待!箱根二泊三日温泉旅行券」が手元に。
全員「魔王様、けんたろう殿の絆のためなら、我ら幹部、いくらでも働きます!」
なお、帰宅後に経費精算でまた地獄を見るのは、彼らにもまだ知らされていない。
◆勇者一行、エルフの里にて哲学する
一方、勇者一行はエルフの里で、絵に描いたような門前払いを食らっていた。
エルフの店主「お引き取りを。穢れた人間に売る薬草など、一葉たりともございません」
ぴしゃり、と閉められた扉の前で、仲間たちが頭を抱える。
エル「ここまで徹底的に嫌われているとは……エルフの誤解はどう解けばよいのだ」
カティア「やはり、百年前の人間の王子とエルフの姫の駆け落ち伝説が、何か悪い形で伝わっているんじゃないか?」
ミレルカ「世界の平和のためにも、彼らの協力は不可欠です。どうにかして……」
仲間「「「魔王を倒すために!!」」」
三人が決意を新たにしたその時、これまで鼻をほじっていた勇者リリィが、けろりと言った。
リリィ「え? 心配いらないよ。だって私、人間じゃないし」
仲間「「「は???」」」
リリィは再び店の扉を叩くと、出てきた店主に向かって、淀みなく語り始めた。
「そもそも、あなたが『人間』と認識する『私』とは何か? プラトンが言うところのイデア界に存在する『人間のイデア』に、この私の肉体がどれほど参与していると断言できるのかね?」
店主「は、はぁ……?」
「デカルトは『我思う、ゆえに我あり』と言った。だが、それは私の実存を証明するに過ぎない。エルフであるあなたが『人間』と認識する『私』は、所詮あなたの主観の中にしか存在しない、あなたが生み出した虚像なのではないかね?」
店主「きょ、虚像……?」
「つまりだ! あなたが取引を拒否しているのは、この私というリアルな存在ではなく、あなた自身の心が作り上げた『人間という名の幻影』に過ぎんのだ! さあ! 虚無と取引をする愚を悟り、この実存たる私にをエルフの秘薬を売るがいい!」
「わ、わかりました……売ります……売りますから、もうその話はやめてください……」
店主は涙目になりながら、店の奥から最高級の薬草と、ついでに「頭がスッキリする」というエルフ印の茶葉まで差し出した。
カティア「……どっちが悪魔だよ」
エル「……倫理観の素振りどころか、存在の素振りから始めたぞアイツ」
ミレルカ「でも、茶葉はもらえたみたいです(困惑)」
~~魔王城・テラス~~
夕暮れ。けんたろうと魔王様は一緒に作った(魔王様が作って、けんたろうが見守った)からあげを食べていた。
魔王様「どうじゃ?味は」
けんたろう「……美味しいです。故郷の味に近い」
魔王様「そうか。良かった」
優しい微笑み。けんたろうは、魔王様の日記を思い出す。
けんたろう「魔王様……」
魔王様「なんじゃ?」
けんたろう「……ありがとうございます」
魔王様の目が、一瞬驚いたように見開かれ、それから優しく細められた。
魔王様「礼を言うのは余じゃ。けんたろうがここにいてくれるから、この城に光が差している」
二人の間に、温かい沈黙が流れる。
そこに、ハドうーが現れた。
ハドうー「魔王様、箱根旅行の準備が整いました」
魔王様「箱根・・・」
ハドうー「生誕祭のプレゼントです。婿殿とご一緒に」
けんたろうと魔王様は顔を見合わせた。
けんたろう「……温泉、久しぶりかもしれません」
魔王様「では、二人で行こうか」
けんたろう「はい」
その夜、魔王様は日記に書いた。
『×月○日 晴れ、時々幸せ
今日、けんたろうが初めて『ありがとう』と言ってくれた。 これ以上の幸福があるだろうか。 明日から箱根に行く。二人で。 ああ、何という至福。 (温泉で一緒に入れるじゃろうか。ドキドキ)』
けんたろうは隣の部屋で、小さく微笑んでいた。




