その56 【黙示録の獣】と呼ばれた少女
魔界の玉座の間。 今日も今日とて、けんたろうは魔王ディアボル=ネーメシア=アークトリウス=イレイザ=ヴァルハラ=トラジディア十三世(もはやフルネームを口にするだけで酸欠になる)に、背後からがっちりとホールドされていた。
「けんたろう…♡ わらわのぬくもり、心地よいか?♡」
「ひぃっ…! ぬくもりっていうか、地熱? 核融合炉の隣にいるみたいで、ちょっと…」
「ふふ、照れておるのか。可愛い奴め♡」
魔王様の果てしない強さをなんとなく理解してきた今日この頃、けんたろうは一つの疑問を口にした。それは、彼のささやかな生存戦略の一環でもあった。
「あ、あの…魔王様。一つ、よろしいでしょうか」
「許す。申してみよ」
「魔王様ほどの御力があれば、その…人間界にいるという“勇者”くらい、すぐに倒せるのではないですか?」
そうすれば、魔王軍が人間界に侵攻する必要もなくなり、自分も平穏な日々を送れるのでは…? そんな淡い期待を込めた質問だった。 すると魔王様は、うっとりとけんたろうの首筋に頬を寄せながら、実に理知的な声で答えた。
「うむ。わらわ一人でも、すぐに倒せる。勇者どころか、人間界そのものを消し炭にするなど、赤子の手をひねるより容易いわ」
「(やっぱりー!?)で、ではなぜ…!」
「しかし、それでは魔王軍が成長せんじゃろ?」
魔王様は、まるで子供に言い聞かせるように、優しい口調で続ける。
「兵とは、実戦経験を積んでこそ強くなるもの。来るべき戦いのために、まずは人間界を“最適な訓練場”として活用し、我が軍を鍛え上げねばならんのじゃ」
(え、ちゃんと考えてるんだな…。魔王軍の育成のこととか、将来のこととか…) けんたろうは、魔王様の意外な名君っぷりに、少しだけ感心した。恐怖がほんの少しだけ、尊敬に変わりかけた、その時。
「これから、この地上を完全に滅ぼし、その勢いで天界まで攻め滅ぼし、ついでに冥界も夢界も根絶やしにするためには、今の魔王軍ではまだまだ力不足じゃからのう♡」
けんたろうの背筋が、絶対零度で凍り付いた。
「さあ、婿よ! この次元を統一した暁には、次はおぬしのいた次元まで攻め入って、わらわの愛の帝国を築いてやろうぞ!」
「………………………………」
ぱたり。
けんたろうは、もはやお家芸となった華麗な失神を見せ、静かに意識を手放した。魔王様はそんな彼をふわりと抱き上げ、玉座に座らせると、その膝を枕に幸せそうに微笑んだ。
「おぉ…気絶した婿も、また愛らしいのう…♡」
◆魔王軍作戦会議:議題『勇者の異常な戦闘能力に関する緊急分析』
魔王城の会議室は、かつてないほどの緊張感に包まれていた。 議長席に座るネフェリウスが、重々しく口を開く。
「諸君も知っての通り、クロコダイノレが勇者の手によって敗れた。ハドうー様、状況を」
「うむ…」
ハドうーは、苦々しい表情で報告書を読み上げる。
「クロコダイノレは現在、付属病院にて治療中だ。命に別状はないが、精神的ショックが大きい。何より問題なのは、奴を打ち破った勇者の攻撃手段だ」
ザイオスが、鋼の拳を握りしめる。
「あの強靭なクロコダイノレが…今でも信じられん。奴の鱗は、並大抵の魔法など通さんはずだ」
黒騎士ヴェリタスも、兜の奥で唸った。
「いくら子熊を人質に取られ、背後から不意打ちされたとはいえ…あれほどの歴戦の猛者が、こうもあっさりとやられるとは…」
「それなのだ」
ハドうーは、報告書の最も重要な箇所を指さした。
「クロコダイノレを戦闘不能に追い込んだ攻撃は、火系の中級呪文**『ベヂラマ』、たったの3発**だそうだ」
ザイオス「……何?」
ヴェリタス「…聞き間違いか?」
アスタロト「…3発? ベヂラゴソではなく、ベヂラマで?」
ファイアイス「ヒャッハー!俺のメラゾーアなら一撃で――」
全員「「「黙れ!!!」」」
ネフェリウスが、ざわつく幹部たちを手で制した。
「静粛に! …ハドうー様、それは確かなのか?」
「ああ。クロコダイノレ本人と、我が軍の観測隊からの証言が一致している。正真正銘、中級呪文だ」
会議室が、しんと静まり返る。 それは、恐怖と驚愕が入り混じった、異様な沈黙だった。 やがて、ネフェリウスが震える声で結論を述べた。
「…考えられる可能性は一つ。勇者の保有する『魔力』の絶対量が、我々の想定を遥かに、遥かに上回っている…。つまり、奴の放つベヂラマは、我々の知るベヂラマではない。核弾頭並みの威力を内包した、“戦略級ベヂラマ”とでも呼ぶべき代物なのだ…!」
幹部たちの顔から、血の気が引いていく。
人質、不意打ち、そして異常なまでの魔力。
魔王軍は、自分たちが相手にしている存在の、底知れぬ恐ろしさを改めて認識するしかなかった。
◆勇者一行、ゲスの錬金術◆
その頃、勇者リリィ一行は、アルデンヌの塔へと続く最後の村に到着していた。 村の入り口には、なぜか巨大な立て札が立っている。
【警告:この先、大泥棒・堀木出没注意!貴重品の管理は自己責任で!】
ミレルカ「わぁ…よっぽど被害が出ているんですね…」
エル「なんだか物騒な村ね…」
リリィは、その立て札を見て、にやりと口角を上げた。
一行は、村で一番大きな武具屋に入る。 リリィは店の奥に飾られている、ひときわ輝く剣を指さした。
「店主さん、この『炎の剣』、見せてもらってもいい?」
「へい、お嬢ちゃん、目が高いね!こいつはドワーフの名工が鍛えた逸品でさァ!」
リリィは剣を受け取ると、素早く鞘から抜き、数回素振りをする。
ブンッ、ブンッ!風を切る鋭い音。
「ふむ…素晴らしい切れ味ね。これならどんな敵も真っ二つだわ」
そう言うと、リリィは剣を鞘に納めず、そのまま自分の腰に差した。
カティア「(…あれ?)」
エル「(嫌な予感しかしない…)」
リリィは店主ににっこりと微笑みかける。
「ありがとう、いいものを見せてもらったわ!じゃあね!」
そして、颯爽と店を出て行こうとする。
店主「お、おい!お嬢ちゃん!金払ってくれよ!」
リリィ「え?何の?」
店主「何のって…その剣の代金だよ!」
するとリリィは、心底驚いたという顔で、悲しそうに言った。
リリィ「ひどい…!あんた、この私を泥棒扱いする気!?私はただ、試し斬りさせてもらっただけじゃない!」
店主「試し斬りってレベルじゃねぇだろ!腰に差してるじゃねぇか!」
リリィ「これは、切れ味を確かめるために、一番しっくりくる場所に差してみただけよ!すぐに返すつもりだったのに…人を疑うなんて、あんた最低ね!」
大声で騒ぎ立てるリリィに、店の周りに人だかりができ始める。
リリィは、涙目で群衆に訴えかけた。
リリィ「みなさん、聞いてください!この店主は、勇者である私を泥棒呼ばわりするんです!きっと、あの大泥棒・堀木とグルなんですよ!そうでなければ、こんな言いがかりをつけるはずがない!」
「ええっ!?」「堀木と!?」村人たちがどよめく。
店主は、完全にパニックだ。 「ち、違う!俺は何も…!」
リリィは、懐から一枚の金貨を取り出すと、それをカウンターに叩きつけた。
リリィ「もういいわ!こんな店、一秒だっていたくない!これは迷惑料よ!受け取りなさい!」
エル「!ちょっとリリィ!」
カティア「堀木の名前を使った脅迫と詐欺と窃盗のコンボだわ…」
ミレルカ「ごめんなさい…ごめんなさい…」
――ゲスの風評被害。 それは、ありもしない噂をでっち上げ、無実の人間を悪に仕立て上げ、混乱のさなかに利益だけをかすめ取る、悪魔の所業だった。
ゲスは力なり、絶対ゲスは絶対的に腐敗する」




