その100 魔王帰還
◆邪神軍・虚無の牢獄
「ふふふ……どうやら貴様には、どんな拷問も通用しないようね」
「ならば、最後の選択をさせてやるわ」
邪神姫アザトース=アポフィス=ド・ティラミス=ラグナロク=ペルセポネ=あんみつ九世(もはやただの概念)は、初めて誘うような目でけんたろうを見た。
「あの女の元にいても、おまえは恐怖に怯えるだけ」
「私を選びなさい。私ならば、おまえに真の安らぎと、世界のすべてを与えてやれる」
その言葉に、けんたろうは静かに首を横に振った。
「……確かに、あの人は無茶苦茶だし、怖い時もあります」
「でも……」
けんたろうの脳裏に、魔王が時折見せる、子供のような笑顔が浮かぶ。
「……でも、あの人なりに、俺のことを大事にしてくれてるんだと思います」
「だから……俺は、あの人のところに帰ります」
その真っ直ぐな瞳を見て、邪神姫は初めて、自分が決して手に入れられないものがあることを知った。
◆邪神軍本拠地:神殿最奥・玉座の間
パズスが放った禁断の呪文「ティノレトウェイト」の余波が、玉座の間に満ちていた。
「パズスの本気が、これほどのものとはな……」
アーリマンが呻く。
「ええ、あいつは私達の中でも別格よ」
エキドナが同意する。
「そして、ここで終わり」
エキドナが、追撃の、そしてとどめの一撃を放とうとする。
絶体絶命の魔王軍。
ヴェリタスが、傷だらけの仲間たちの前に立った。
「私が時間を稼ぎます。皆さんは、体制の立て直しを!」
しかし、ハドうーがその肩を掴んだ。
「いや、我々には時間がない!」
「けんたろう様が、待っておられるのだ!」
その一言に、ファイアイスが、デュランダルが、ボロボロの体で再び立ち上がる。
目的はただ一つ。愛すべき魔王様の婿を、救い出すために。
魔王軍の結束が、死の風を前に、再び燃え上がった。
◆勇者一行:船上にて
手に入れた船に乗り、一行は次の大陸を目指していた。
広大な海原を眺めながら、仲間たちは次の目的を話し合う。
「やっぱり、もっと強力な武器が必要よ。
魔王軍のボス級と戦うのなら、心もとないな」
カティアが剣の手入れをしながら言う。
「それなら!
東の大陸に眠るという『伝説の聖剣』を探しに行きませんか?」
ミレルカが古い書物を開いて提案する。
「伝説なんて、どうせ眉唾よ」
エルがそっぽを向く。
しかし、リリィだけはゲスい笑みを浮かべていた。
「いいわね、伝説の武器! それを手に入れれば……」
(((今度こそ、勇者らしいことを考えてる……!)))
仲間たちの目に、一瞬だけ期待の色が浮かぶ。
「……それを担保に、大陸中の銀行から金を借り放題よ!
レバレッジを効かせて、私たちの資産を何倍にも膨らませられるわ!」
その言葉に、仲間たちの魂が叫んだ。
「「「伝説の武器を担保に入れるなーーーっ!!!」」」
リリィは高らかに叫んだ。
「覚えておきなさい! 伝説には信用がある!
その信用をお金に換えるのが、賢い勇者のやり方よ!」
◆魔王様、ご帰還
魔界王宮《メフィス・ヘレニア・ダークネス・クレプスキュール宮殿》、玉座の間。
「……けんたろうは、どこだ?」
帰還した魔王ディアボル=ネーメシア=アークトリウス=イレイザ=ヴァルハラ=トラジディア十三世がの静かな問いかけに、玉座の間の空気が氷点下まで下がる。
緊急対策本部でパニックに陥っていたザイオス、ネフェリウス、アスタロトの三人は、意を決して魔王の前に進み出て、深く膝をついた。
「魔王様。まことに、申し上げにくいのですが……」
ザイオスが、震える声で口を開く。
「けんたろう様が……邪神軍に、拉致されました」
その言葉を聞いた瞬間。
ピタッ、と。 魔王の動きが、完全に止まった。
今まで鳴り響いていた雷鳴が、消えた。
煮えたぎっていたマグマの泡が、固まった。
壁から聞こえていた魂の叫びが、沈黙した。
魔界そのものが、主のショックに同調して、息を止めた。
魔王の顔から、笑顔も、威厳も、すべての感情が抜け落ちていた。
ただ、ぽかんと口を半開きにしたまま、虚空を見つめている。
まるで、愛する我が子を目の前で攫われ、何が起きたのか理解できずにいる母親のように。
幹部たちが、その異常事態に焦り始める。
「ま、魔王様……?」
ザイオスが恐る恐る声をかけるが、返事はない。
アスタロトが、青ざめた顔で呟いた。
「……これは、まずい。
あまりの衝撃に、魂が肉体から乖離しかけている……?」
ネフェリウスが、絶望的な声を上げた。
「怒り狂ってくださった方が、まだマシだったのである!
このままでは……!」
魔王はただ、何も言わず、何もせず、美しい石像のように固まったまま。
その静寂が、何よりも不気味な、世界の終わりを告げる嵐の前の静けさとなっていた。




