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第9話:現実への帰還と、深まる逃避

第9話:現実への帰還と、深まる逃避

 黄泉路の、冷たく、清浄な、空気。

 それに、慣れてしまった、肺にとって、地上の、空気は、あまりにも、澱んでいた。

 人の、汗の匂い、家畜の、糞尿の匂い、そして、誰もが、浮かべている、生活に、疲弊した、表情。

 その、全てが、景と瑠璃の、心を、重く、蝕んだ。

 ――帰りたい。

 あの、静かな、場所へ。

 二人の、口には出さない、願いは、いつも、同じだった。


 その日、年老いた乳母が、困り果てた顔で、言った。

「姫様、景様。申し訳、ございません。とうとう、家の、蓄えが、底を、尽いてしまいました……」

 現実、という名の、冷水を、頭から、浴びせられた、気分だった。

 そうだ、ここは、黄泉路ではない。

 人は、光る苔だけを、食べて、生きてはいけないのだ。

 景は、深く、ため息をつくと、懐から、小さな、革袋を、取り出した。中には、黄泉路で、見つけた、月魄の、小さな、欠片が、数個、入っている。

 これを、換金すれば、当面の、食費には、なるだろう。

「……行くぞ」

 景が、言うと、瑠璃は、嫌そうな、顔を、隠そうともせずに、立ち上がった。

 二人にとって、都の、市場へ、出かけることは、もはや、苦痛でしかなかった。


 市場は、人の、熱気で、むせ返っていた。

 あちこちで、怒声や、呼び込みの声が、飛び交っている。

 景は、人混みを、かき分けるように、進んだ。

 その時、彼の、目の前で、小さな、子供が、屋台から、一つ、饅頭を、盗み、駆け出していくのが、見えた。

 店の、主人が、血相を変えて、叫ぶ。

「こら、待て! この、ガキ!」

 子供は、すぐに、捕まり、店の主人に、何度も、頭を、殴られていた。

 周りの、人々は、それを、ただ、遠巻きに、眺めているだけ。誰も、助けようとはしない。日常茶飯事、なのだろう。

 瑠璃は、その光景を見て、眉をひそめ、吐き捨てるように、言った。

「……はしたない。飢えているからといって、盗みを働くなど、獣と、同じですわ」

 その、冷たい、一言に、景の、足が、止まった。

 彼は、ゆっくりと、瑠璃の方を、振り返る。

 その、死んだ魚のような、目に、初めて、明確な、感情の色が、浮かんでいた。

 ――怒り、だった。

「……お前」

 低い、声が、漏れた。

「……お前に、何が、分かる」

「え……?」

「腹を、空かせた、ことがあるのか。明日、食うものも、ない、という、恐怖を、味わったことが、あるのか。ないだろうな。お前は、今まで、ただ、守られた、檻の中で、与えられるだけの、餌を、食ってきただけだ」

 景の、言葉は、刃のように、鋭かった。

 彼の、脳裏には、前世の、記憶が、蘇っていた。

 貧しい、母子家庭。いつも、腹を空かせて、泣いていた、幼い、自分。そして、自分の、身を、削るようにして、なけなしの、食事を、与えてくれた、母の、姿。

「生きるのに、必死な、人間を、獣と、同じだと、言うな……!」

 それは、ほとんど、叫びに、近かった。

 瑠璃は、初めて見る、彼の、激情に、怯え、言葉を、失った。

 彼女は、何も、言い返せなかった。

 なぜなら、彼の、言う通りだったからだ。

 自分は、何も、知らない。

 本当の、飢えも、渇きも、痛みも。

 自分は、ただ、自分の、小さな、不幸だけを、嘆いていた、愚かな、子供だったのだ。

 その事実に、彼女は、初めて、気づいた。

 そして、自分の、無知と、傲慢さが、どうしようもなく、恥ずかしくなった。


 二人は、それ以上、何も、話さなかった。

 景は、黙って、月魄を、換金し、最低限の、食料だけを、買うと、さっさと、屋敷への、道を、歩き出した。

 瑠璃は、その後ろを、人形のように、ついていく。

 その、帰り道。

 道端で、物乞いを、している、痩せた、母親と、その腕に、抱かれた、赤ん坊が、いた。

 瑠璃は、ふと、足を、止めた。

 そして、彼女は、自分の、懐から、何かを、取り出した。

 それは、彼女が、唯一、持っていた、私物。母親の、形見だという、小さな、銀の、髪飾りだった。

 彼女は、その、髪飾りを、物乞いの、母親の、手に、そっと、握らせた。

 母親が、驚いて、顔を上げる。

 瑠璃は、何も言わずに、踵を返した。

 その、ぎこちない、不器用な、一歩を、少し、離れた場所で、景は、何も言わずに、ただ、見つめていた。

 彼の、瞳に、宿っていた、怒りの炎は、いつの間にか、消えていた。

 その代わりに、そこには、もっと、複雑で、そして、どこか、寂しげな、色が、浮かんでいた。

 この日、二人は、互いの、世界の、決定的な、違いを、思い知った。

 そして、同時に、理解した。

 自分たちが、共に、いられる場所は、もはや、あの、暗い、地の底しかないのだ、と。

 彼らの、現実からの、逃避は、もはや、誰にも、止められないほど、加速していく。

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