第7話:忘れられない味
第7話:忘れられない味
新しい通路は、前の通路よりも、さらに、空気が、澄んでいた。
穢れの、気配は、完全に、消え失せている。どうやら、瑠璃の言う通り、ここは、清浄な「魄脈」の、通り道になっているらしかった。
二人は、しばらく、無言で、歩き続けた。
先ほどまでの、死の、恐怖は、嘘のように、遠のいている。だが、その代わりに、別の、もっと、現実的な、問題が、彼らを、苛み始めていた。
――空腹。
ぐう、と、情けない音が、鳴った。
音の、主は、瑠璃だった。彼女は、顔を、真っ赤にして、俯いている。
景も、腹が、減っていた。
屋敷を、抜け出すことに、気を取られ、食料など、何も、持ってきてはいなかった。
このまま、探索を、続けるのか。
それとも、一度、地上に、戻るのか。
景が、思案していると、瑠璃が、ふと、足を止めた。
「……あれは、なんでしょう」
彼女が、指差す、先。
洞窟の、壁の、一面に、まるで、星空のように、青白い、光が、群生していた。
それは、この、黄泉路の、あちこちに、生えている、光る苔だった。
だが、ここの苔は、これまで、見てきたものとは、明らかに、違っていた。
一つ一つの、光が、強く、そして、瑞々しい。まるで、月の、雫を、吸って、育ったかのようだった。
景は、壁に、近づくと、その苔を、一つ、指で、つまみ上げた。
ひんやりとした、柔らかな、感触。
鼻を、近づけると、雨上がりの、土のような、青臭い、匂いがした。
――食える、のか?
景の、脳裏に、そんな、馬鹿げた、考えが、浮かんだ。
前世の、知識が、警鐘を鳴らす。
得体の知れない、きのこや、植物を、口にするのは、自殺行為だ、と。
だが、今の、景は、そんな、常識的な、思考から、どこか、外れた場所にいた。
この、黄泉路という、非日常的な、空間が、彼の、理性の、タガを、少しずつ、外していたのだ。
それに、と、彼は思う。
もし、これが、毒で、ここで、あっけなく、死んでしまうのも、それもまた、一興、かもしれない。
この、どうしようもなく、退屈な、人生の、終わり方としては、悪くない。
景は、振り返り、瑠璃を、見た。
彼女もまた、同じことを、考えていたらしい。
その、大きな、黒い瞳が、じっと、景の、手の中にある、光る苔を、見つめている。その瞳には、恐怖と、そして、それを、上回る、強い、好奇心が、浮かんでいた。
景は、にやり、と、口の端を、吊り上げた。
それは、彼が、この世界に、来てから、初めて、見せた、感情の、発露だった。
彼は、何も言わずに、手の中の、苔を、半分に、ちぎった。
そして、その、半分を、瑠璃に、差し出す。
瑠璃は、一瞬、ためらった。
だが、やがて、意を決したように、その、小さな、白い手で、苔を、受け取った。
二人は、顔を、見合わせる。
そして、まるで、毒杯を、あおる、共犯者のように、同時に、その、光る苔を、口の中へと、放り込んだ。
――まずい。
それが、最初の、感想だった。
ひどく、泥臭く、青臭い。砂を、噛んでいるかのような、じゃりじゃりとした、食感。
瑠璃は、思わず、顔をしかめ、それを、吐き出そうとした。
だが、次の瞬間、彼女は、目を見開いた。
まずい、はずなのに。
その、泥臭さの、奥から、じわり、と、今まで、味わったことのない、濃厚な、生命の、味が、広がってくるのだ。
それは、甘い、とか、しょっぱい、とか、そういう、単純な、味覚ではなかった。
もっと、根源的な、魂に、直接、訴えかけてくるような、力強い、味。
「生きている」という、味。
空っぽだった、腹の、中に、そして、心の、中に、温かい、何かが、満たされていく、感覚。
瑠璃は、ゆっくりと、苔を、咀嚼し、飲み込んだ。
そして、隣にいる、景の、顔を、見る。
彼もまた、驚いたような、そして、どこか、呆然としたような、顔で、こちらを、見ていた。
その、互いの、間抜けな、顔が、なぜか、ひどく、おかしくて。
ぷっ、と、どちらからともなく、笑いが、こぼれた。
そして、その、小さな、笑いは、やがて、抑えきれない、大きな、笑いの、波へと、変わっていった。
「あはははは!」
「くくっ……ははははは!」
二人は、腹を抱え、涙を流しながら、笑い続けた。
生まれて初めて、こんなふうに、笑った、かもしれない。
何の、しがらみも、計算も、ない。ただ、おかしいから、笑う。
その、当たり前の、行為が、こんなにも、幸福な、ものだなんて、知らなかった。
いや、これは、幸福、とは、違う。
もっと、刹那的で、破滅的で、そして、どうしようもなく、満ち足りた、感情。
二人は、笑い疲れて、その場に、へたり込んだ。
そして、また、光る苔を、一つ、ちぎっては、分け合って、食べた。
その、奇妙な、食事は、二人だけの、秘密の、儀式のように、続けられた。
この、暗い、地の底で、二人は、確かに、生きていた。