第5話:初めての共犯
第5話:初めての共犯
書庫に、黴臭い、紙の匂いと、そして、二人の、ひそやかな、息遣いだけが、満ちていた。
あれから、何日、経っただろうか。
景と瑠璃は、毎夜、こうして、書庫に、閉じこもっていた。
景が、古文書の、一節を、読み解く。
瑠璃が、それを、震える手で、新しい、紙に、書き写していく。
その、共同作業は、まるで、世界の、終末を前にした、二人の、生存者のようでもあり、あるいは、ただ、退屈な、監獄の中で、時間をつぶす、囚人のようでもあった。
その日、景の指が、一枚の、ひときわ、古びた、羊皮紙の上で、止まった。
それは、地図だった。
この、桜小路家の、広大な、敷地の、古い、見取り図。
「……あったぞ」
景が、ぽつり、と呟いた。
瑠璃が、顔を上げる。
景の指が、示していたのは、敷地の、最も、北の外れ。今は、もう、誰も、近づかない、鬱蒼とした、森の中だった。
そこには、小さな、×印が、記されている。
そして、その横に、かすれた、文字で、こう、書かれていた。
――『天岩戸』。
「……これは」
「古い、黄泉路の、入り口だ」
景は、淡々と、言った。
「地図の、注釈によれば、昔は、ここから、少量の、月魄が、採れたらしい。だが、あまりにも、規模が小さく、穢れの、危険度も、高かったため、数百年前に、入り口は、固く、封印された、とある」
打ち捨てられた、黄泉路。
忘れ去られた、通路。
その言葉の響きが、なぜか、二人の、心を、強く、惹きつけた。
瑠璃の、瞳が、微かに、輝いたのを、景は、見逃さなかった。
その輝きは、「家の再興」という、大義名分のものではなかった。
もっと、個人的で、そして、不純な、光。
子供が、禁じられた、遊びを、見つけた時のような、背徳的な、好奇心の、光だった。
「……行って、みたく、ありませんか」
瑠璃が、ほとんど、吐息のような、声で、言った。
景は、答えなかった。
だが、その、沈黙は、肯定と、同じ意味を持っていた。
外の世界に、何の、興味も、持てなかった、はずの、二人。
社会から、ドロップアウトし、ただ、死んだように、生きていた、はずの、二人。
その、空っぽだったはずの、心に、一つの、黒い、炎が、灯った瞬間だった。
行きたい。
行ってみたい。
この、息の詰まる、現実から、抜け出して、誰も、知らない、場所へ。
その、衝動は、もはや、誰にも、止められなかった。
その夜、月が、雲に隠れ、屋敷が、深い、眠りに、落ちた、頃。
二つの、人影が、音もなく、屋敷を、抜け出した。
景と、瑠璃だった。
二人は、互いに、視線を合わせることもなく、ただ、地図が示す、北の森へと、足を、速める。
背後で、年老いた、乳母が、心配そうに、こちらを、見ている気配がしたが、二人は、振り返らなかった。
森の中は、暗く、湿っていた。
木の根が、まるで、蛇のように、地面を這い、梟の、不気味な、鳴き声が、響き渡る。
瑠璃は、普段であれば、怯えて、一歩も、進めなかっただろう。
だが、今の、彼女の、心には、恐怖よりも、強い、高揚感が、満ちていた。
やがて、二人は、苔むした、巨大な、岩の前に、たどり着いた。
そこには、注連縄が、張られ、人の手で、塞がれた、小さな、洞穴が、あった。
「……ここだ」
景は、持ってきた、つるはしを、使い、入り口を塞ぐ、岩を、一つ、また、一つと、取り除いていく。
その、無骨な、背中を、瑠璃は、息を殺して、見つめていた。
やがて、人が、一人、ようやく、通れるほどの、隙間が、できた。
隙間の、向こう側からは、ひやりとした、そして、どこか、甘いような、腐敗臭が、漂ってくる。
黄泉路の、匂い。
景は、松明に、火を灯すと、瑠璃の方を、振り返った。
「……行くぞ」
瑠璃は、黙って、頷いた。
月明かりの下、顔を見合わせた、二人の目には、ほんの、わずか、悪戯っ子のような、そして、破滅へと、向かう、共犯者のような、暗い、光が、宿っていた。
二人は、躊躇なく、その、地の底へと、続く、暗闇の中へと、その身を、滑り込ませた。
それは、二人にとって、初めての、現実からの、逃避。
そして、もう、二度と、引き返すことのできない、奈落への、第一歩、だった。