第3話:退屈しのぎの火遊び
第3話:退屈しのぎの火遊び
地獄。
景が、新婚生活、という名の、新たな監獄での日々を、一言で表すなら、その言葉が、最も、しっくりきた。
だが、その地獄は、前世で味わった、灼熱の、それとは、少し、質が違っていた。
それは、もっと、冷たくて、静かで、そして、耐えがたいほど、退屈な、地獄だった。
朝、目を覚ます。
瑠璃は、すでに、起きていた。いや、眠っているのか、起きているのかさえ、分からない。彼女は、ただ、部屋の隅で、置物のように、座っているだけだ。
景は、役所へ行く。
そこでも、彼は、置物のように、一日を過ごす。与えられた、誰にでもできる、簡単な仕事を、ただ、無心で、こなすだけ。
家に、帰る。
瑠璃は、朝と、全く同じ場所で、同じ姿勢で、座っている。
食事は、年老いた乳母が、運んでくる、粗末なものだった。二人は、一言も、交わさない。ただ、食器の、かち合う音だけが、虚しく、響く。
そして、夜が来て、眠る。
その、繰り返し。
何の、変化も、刺激も、ない。
まるで、時間が、止まってしまったかのようだった。
いや、時間だけではない。この屋敷そのものが、そして、ここにいる、人間そのものが、緩やかに、死んでいるのだ。
景は、その、生ぬるい、死の気配に、安堵している、自分がいることに、気づいていた。
もう、頑張らなくていい。
もう、誰にも、期待されない。
それは、彼が、心の底から、望んでいた、平穏、のはずだった。
だが、人間というものは、厄介な、生き物だ。
あまりにも、完璧な、退屈は、時として、人を、狂わせる。
その、狂気の、最初の、兆候は、瑠璃の方に、現れた。
ある夜、彼女は、突然、ヒステリックに、泣き喚き始めたのだ。
「いや……いやっ……! なぜ、わたくしが、こんな、目に……!」
彼女は、部屋を飛び出すと、屋敷の、埃っぽい、書庫へと、駆け込んでいった。
そして、そこに、山と積まれた、古文書を、八つ当たりするように、床に、叩きつけ始めた。
「桜小路の、名が、なんだというのです……! こんなもの、こんなものがあるから、わたくしは……!」
その姿は、家の再興を、嘆いている、というよりは、ただ、自分の、不運な、境遇に、癇癪を、起こしている、子供、そのものだった。
景は、その、騒々しい、鳴き声に、眉をひそめた。
前世でも、いた。こういう、自分の、無能さを、棚に上げて、ただ、環境や、他人のせいにして、喚き散らすだけの、人間が。
――面倒だ。
関わりたくない。
放っておけば、そのうち、泣き疲れて、静かになるだろう。
景は、そう、割り切ろうとした。
だが、その、甲高い、泣き声が、彼の、閉ざしたはずの、心の、最も、柔らかい場所を、針のように、チクチクと、刺すのだ。
うるさい。
うるさい。
うるさい。
その声は、やがて、前世で、心を病んでいった、後輩の、すすり泣く声と、重なって、聞こえ始めた。
ああ、もう、本当に、面倒だ。
景は、立ち上がると、書庫へと、向かった。
そして、床に、散らばった、古文書の、一つを、拾い上げた。
「……そんなに、これが、憎いのか」
低い声に、瑠璃の、肩が、びくりと、震えた。
彼女は、涙で、ぐしゃぐしゃになった、顔で、景を、睨みつける。
「あなたに、何が、分かると、いうのです……!」
「何も、分からん」
景は、即答した。
「だが、一つだけ、分かることがある。お前は、この、紙切れに、書いてある、文字すら、まともに、読めんだろう、ということだ」
「なっ……!」
瑠璃の顔が、怒りと、屈辱に、染まる。
図星だった。
彼女は、姫として、蝶よ花よと、育てられ、学問など、まともに、修めてはいなかったのだ。
景は、古文書に、目を落とした。
そこに、書かれていたのは、この国とは、少し、違う、古い、文字の体系。前世の、歴史の知識が、頭の片隅に、残っていた。
彼は、退屈しのぎに、口を開いた。
それは、彼女を、助けるためではない。
ただ、この、ヒステリックな女を、黙らせるための、そして、この、死ぬほど、退屈な、夜を、紛らわせるための、ほんの、気まぐれ。
退屈しのぎの、火遊び、だった。
「……これは、黄泉路の、古い、地図、だな」
景は、古文書の、一節を、すらすらと、読んでみせた。
「この、屋敷の、地下にも、一つ、あるらしい。まあ、もう、とうの昔に、廃れた、小さな、通路のようだが」
瑠璃は、泣くのも、忘れて、呆然と、していた。
そして、初めて、目の前の、男の、顔を、まじまじと、見た。
その、死んだ魚のような、瞳の奥に、自分には、到底、理解できない、底知れない、知識の、闇が、広がっているのを。
彼女は、ゴクリと、唾を、飲み込んだ。
目の前の男が、もはや、ただの、無気力な、下賤の者ではないことを、本能的に、悟ったからだ。
それは、恐怖であり、そして、同時に、彼女が、生まれて初めて、抱いた、他者への、強烈な、「興味」の、始まりだった。