第2話:死んだ魚の目
第2話:死んだ魚の目
桜小路家の屋敷は、まるで、過去の栄光の、巨大な亡霊のようだった。
立派な門構え、広大な庭。だが、そのどれもが、手入れを放棄されて久しく、見る影もなく、荒れ果てていた。門の漆は剥げ落ち、庭には、人の背丈ほどもある、雑草が生い茂っている。かつては、この都で、その権勢を誇った名家の、成れの果て。
景は、その光景を、何の感慨もなく、ただ、眺めていた。
滅びゆくもの。
それは、自分と同じだ、と、ぼんやりと思った。
屋敷の、最も、奥まった一室。
そこで、彼は、桜小路瑠璃と、初めて、対面した。
彼女は、十二単こそまとってはいなかったが、その代わりに、プライドという、何よりも、分厚い鎧を、その身に、まとっていた。
痩せて、血の気の失せた、白い顔。大きく、しかし、何の光も宿していない、黒い瞳。そして、きつく、一文字に、結ばれた唇。
「――あなたが、藤原景、ですわね」
第一声は、まるで、氷のようだった。
「わたくしと、結婚できることを、あなたの、家の、誉れと、思いなさい」
その言葉は、あまりにも、空虚に響いた。
誉れ?
この、没落寸前の、泥船のような家に、嫁ぐことがか。
景は、何も言わなかった。ただ、無表情に、彼女を見返す。
その、景の、無反応な態度に、瑠璃の、眉が、ぴくりと、動いた。彼女は、彼が、平伏し、感謝の言葉でも、述べると、思っていたのだろう。
「……何とか、言ったら、どうなのですか、この、下賤の者が」
苛立ちの滲む、声。
景は、その時、初めて、口を開いた。
「……はあ」
それは、肯定でも、否定でもない、ただの、気の抜けた、息の音だった。
瑠璃の顔が、屈辱に、さっと、赤く染まる。
彼女は、何か、罵詈雑言を、浴びせようとして、しかし、言葉に、詰まった。
なぜなら、彼女は、その時、見てしまったからだ。
目の前の、男の、瞳の奥にあるものを。
それは、自分と、全く同じ、光を失った、深い、絶望の色。
まるで、鏡を見ているかのようだった。
希望も、未来も、何もかもを、諦めきった、人間の、目。
――死んだ魚の、目。
祝言の儀は、二人きりで、行われた。
いや、二人きり、というのは、正確ではない。瑠璃の、年老いた、乳母だけが、涙を浮かべながら、その儀式を、見守っていた。
瑠璃の、両親の姿は、なかった。彼らは、もう、とうの昔に、この家の、そして、自分の娘の、運命を、見限っていたのだ。
三々九度の盃事も、ただ、形式的に、行われただけ。
景も、瑠璃も、一言も、発しない。
ただ、互いに、視線を合わせることもなく、無機質な、人形のように、儀式を、こなしていく。
その夜、二人に与えられた、寝室で。
瑠璃は、部屋の、最も、遠い隅で、壁の方を向いて、うずくまっていた。
景もまた、その、対角線上の、最も、遠い場所で、彼女に、背を向けて、横になった。
二人の間には、憎しみも、憐れみも、何もない。
あるのは、ただ、息の詰まるような、沈黙と、そして、互いの、魂が、発する、かすかな、「死」の匂いだけだった。
景は、目を閉じた。
前世で、過労死する、直前の、あの、感覚が、蘇ってくる。
ああ、結局、俺は、どこへ行っても、逃げられないのか。
この、息苦しい、檻の中から。
彼は、自嘲の、笑みを、浮かべた。
だが、その笑みは、誰にも、見られることなく、夜の、深い闇の中へと、静かに、溶けて消えていった。
こうして、二人の、地獄のような、偽りの結婚生活が、始まった。
それは、希望も、救いも、何もない、ただ、緩やかに、共に、死んでいくだけの、日々の、始まりのはずだった。