第19話:友としての選択
第19話:友としての選択
時間というものが、どれほどの価値を持つのか、賀茂泉は、初めて、分からなくなった。
目の前の、光景。
それは、一瞬のようでもあり、永遠のようでもあった。
藤原景と、桜小路瑠璃。
二人は、ただ、寄り添い、座っている。
その後ろには、この世の理を超越した、黄泉路の主が、静かに、佇んでいる。
まるで、一枚の、古い、絵画のようだった。
描かれているのは、聖人か、あるいは、狂人か。
泉には、もう、その、区別さえも、つかなかった。
彼女は、この、二人を、断罪するために、ここへ来たのだ。
社会の、秩序を、乱し、自らの、欲望のままに、堕ちていった、愚かな、二人を。
自分の、信じる、「正しさ」の、前に、ひれ伏させる、ために。
だが、目の前の、二人は、どうだ。
その、顔には、罪の意識も、恐怖も、後悔さえも、浮かんでいない。
ただ、どこまでも、穏やかで、そして、満ち足りた、表情。
まるで、この、地の底こそが、彼らの、本当の、玉座であるとでも、言うかのように。
泉は、理解した。
――負けた。
自分の、掲げてきた、正義も、常識も、合理性も、その、全てが、この、二人を、縛ることは、できなかった。
彼らは、とうの昔に、そんな、ちっぽけな、世界の、外側へと、行ってしまったのだ。
自分には、到底、たどり着くことのできない、遥か、彼方へ。
悔しい、という、感情さえ、湧いてこなかった。
ただ、圧倒的な、何かを、前にした時の、畏怖と、そして、自分の、信じてきた、世界の、脆さに、打ちのめされる、深い、絶望だけが、あった。
「……何をしている! 捕らえろ!」
背後で、部下の、役人が、叫んだ。
そうだ、これは、任務なのだ。
彼らを、捕らえ、裁きに、かけなければならない。
それが、陰陽寮の、役人としての、自分の、役目だ。
泉は、一歩、前に、踏み出そうとした。
だが、足が、動かなかった。
金縛りに、あったように、その場から、一歩も、動けない。
彼女の、脳裏に、蘇る。
あの、男の、声。
『俺はもう、頑張りたくないんで』
あの時、自分は、彼を、侮辱されたと、思った。
だが、違ったのかもしれない。
あれは、彼の、魂からの、悲鳴だったのではないか。
助けを、求める、声だったのではないか。
自分は、その声に、気づくこともできず、ただ、自分の、正義を、押し付けただけだったのではないか。
――つまらない男のために、死ぬなんて、馬鹿げてる。
ふと、瑠璃が、自らの命を、絶とうとした、あの時の、自分の、言葉が、思い出された。
そうだ、馬鹿げている。
だが、もしかしたら。
その、馬鹿げた、選択こそが、彼らにとっては、唯一の、救いだったのかもしれない。
自分には、到底、理解できない、二人だけの、真実が、そこには、あったのかもしれない。
「賀茂様! ご命令を!」
部下の、声が、泉を、現実に、引き戻す。
彼女は、一度、固く、目を閉じた。
そして、次に、目を開けた時、その、瞳には、もう、何の、迷いも、なかった。
彼女は、言った。
その声は、静かで、そして、どこまでも、澄んでいた。
「――撤退する」
「……はっ? し、しかし!」
「聞こえなかったか、と言っている。全隊、ただちに、ここから、撤退する。これは、命令だ」
彼女は、部下たちに、背を向けた。
そして、最後に、もう一度だけ、景と瑠璃の、方を見た。
二人は、相変わらず、ただ、静かに、座っている。
泉は、誰にも、聞こえないほどの、小さな、声で、呟いた。
「……友人の、個人的な、痴話喧嘩に、付き合わされただけだったわ。全く、迷惑な話」
それは、言い訳であり、そして、彼女なりの、最後の、けじめだった。
ビジネスパートナーでも、ライバルでもなく。
ただ、一人の、どうしようもない、友人が、選んだ、結末。
それを、見届ける、義務が、自分には、ある。
いや、そうではない。
ただ、もう、彼らの、邪魔を、したくない。
それだけだった。
泉は、踵を返すと、迷いのない、足取りで、闇の中へと、去っていった。
彼女は、幕府に、こう、報告するだろう。
――対象二名は、黄泉路の最深部にて、穢れの、奔流に、飲み込まれ、消滅。遺体は、発見できず、と。
それが、彼女が、彼らに、手向けることのできる、唯一の、餞だった。
彼女は、二度と、この場所に、戻ってくることは、ないだろう。
そして、二度と、あの、二人の、名を、口にすることも、ないだろう。
ただ、時折、思い出すのかもしれない。
あの、どうしようもなく、愚かで、そして、誰よりも、自由だった、二人の、魂のことを。




