第18話:ただ、そこにいる
第18話:ただ、そこにいる
「だって、あなたがいなければ、退屈じゃありませんか」
その、あまりにも、無邪気で、そして、残酷な、真実の言葉が、地底湖の、静寂の中に、溶けていく。
景は、瑠璃を、抱きしめたまま、動けなかった。
そうだ。
そうだったのだ。
俺が、この女に、手を差し伸べた、最初の、理由。
それは、正義感でも、憐れみでも、ましてや、下心でもなかった。
ただ、この、死んだように、退屈な、二度目の、人生が、この女と、関われば、少しは、マシになるかもしれない、という、ごく、身勝手な、好奇心。
そして、その、予感は、正しかった。
彼女といる、時間は、常に、面倒で、腹立たしく、そして、どうしようもなく、退屈しなかった。
それだけで、よかったのだ。
それだけで、この、空っぽの、人生に、意味が、できてしまったのだ。
追手の、声が、すぐ、そこまで、迫っている。
松明の、光が、通路の、向こうで、揺らめいているのが、見える。
目の前には、全てを、無に、帰すであろう、圧倒的な、主。
もう、逃げ場は、ない。
戦う、気力も、ない。
景は、ふっと、息を、漏らした。
そして、まるで、長年、背負ってきた、重い、荷物を、下ろすかのように、瑠璃の、手を引き、その場に、ゆっくりと、座り込んだ。
主の、目の前で。
追手の、目の前で。
瑠璃も、何の、抵抗もなく、彼の隣に、ちょこんと、座る。
そして、二人は、顔を見合わせて、小さく、笑った。
それは、全てを、諦めた、笑みであり、そして、全てから、解放された、笑みでもあった。
景は、懐から、最後の一握りの、光る苔を、取り出した。
彼は、その半分を、自分の、口に、運び、そして、残りの、半分を、瑠璃の、唇へと、そっと、運んだ。
瑠璃は、それを、雛鳥のように、受け入れる。
泥臭く、青臭い、あの、味。
二人を、繋いだ、共犯の、味。
もう、どうなっても、よかった。
この、息苦しい、世界から、解放されるなら、それも、いい。
二人で、一緒に、いられるのなら、たとえ、それが、地の底であろうと、あるいは、無、そのものであろうと、構わなかった。
その時だった。
黄泉路の主が、ゆっくりと、動いた。
その、巨大な、体が、二人を、押し潰すのか。
あるいは、その、得体の知れない、力で、二人を、消し去るのか。
景は、瑠璃の、体を、強く、抱きしめ、固く、目を、閉じた。
だが、衝撃は、いつまで経っても、やってこない。
おそるおそる、目を開けると、主は、二人を、襲うでもなく、ただ、じっと、その、幾億年も、変わらないであろう、瞳で、見つめているだけだった。
その、瞳には、何の、感情も、読み取れない。
ただ、そこには、人の、営みなど、超越した、圧倒的な、自然の、理だけが、存在しているようだった。
やがて、追手たちが、その場所に、たどり着いた。
先頭にいたのは、賀茂泉だった。
彼女は、目の前の、光景を、見て、息をのんだ。
絶体絶命の、はずの、二人が。
まるで、縁側で、日向ぼっこでも、するかのように、寄り添い、穏やかな、顔で、座っている。
その、姿は、あまりにも、異様で、そして、どこか、神々しくさえ、あった。
彼女の、信じる、「正しさ」や、「常識」が、全く、通用しない、別の、世界の、理が、そこには、あった。
「……何、を……しているの……?」
泉の、口から、絞り出すような、声が、漏れた。
景と瑠璃は、ゆっくりと、彼女の方を、向いた。
そして、二人は、同じ、表情で、静かに、微笑んだ。
それは、勝利者の、笑みでも、敗北者の、笑みでもない。
ただ、全てを、受け入れ、そして、全てを、超越した、者の、笑みだった。
泉は、その、笑顔を、見て、理解した。
――負けた。
自分は、この、どうしようもない、二人には、決して、勝てないのだ、と。
彼女は、その場に、立ち尽くした。
追手の、役人たちも、目の前の、常軌を逸した、光景に、戸惑い、動けないでいる。
黄泉路の、主は、相変わらず、ただ、静かに、二人を、見守っている。
誰かが、声を、かける、その、直前の、一瞬。
時間だけが、止まったかのような、永遠にも、思える、静寂。
寄り添う、二人の、どこか、安らかで、そして、完全に、壊れてしまったかのような、静かな、表情だけが、そこに、あった。
物語は、救いも、破滅も、明確に、描かないまま、その、幕を、閉じようとしていた。




