第17話:最深部での選択
第17話:最深部での選択
追手の声が、すぐ、背後まで、迫っていた。
松明の、赤い光が、洞窟の、曲がり角の、向こう側で、ちらついている。
もう、終わりだ。
景と瑠璃は、互いに、顔を見合わせた。
その、どちらの、顔にも、もはや、恐怖の色は、なかった。
ただ、深い、深い、疲労と、そして、全てを、受け入れたかのような、奇妙な、静けさだけが、あった。
彼らは、何日、この、闇の中を、彷徨い続けたのだろうか。
時間も、方角も、感覚は、とうに、麻痺している。
ただ、手を取り合い、互いの、体温だけを、頼りに、歩き続けてきた。
そして、たどり着いたのが、この、行き止まりだった。
そこは、広大な、地底湖のような、場所だった。
天井からは、無数の、鍾乳石が、牙のように、垂れ下がり、その、先端から、滴り落ちる、雫が、湖面に、静かな、波紋を、広げている。
そして、その、湖の、中央に、小さな、島が、あった。
島には、巨大な、水晶のような、塊が、そびえ立っている。
月魄。
これまでに、見た、どんなものとも、比較にならない、圧倒的な、純度と、大きさ。
あれさえ、手に入れれば。
一生、遊んで暮らせるほどの、富が、手に入る。
そして、この、地底湖の、向こう岸には、別の、洞窟が、口を、開けていた。
おそらく、外の世界へ、通じる、出口。
富と、自由。
かつての、彼らであったなら、狂喜乱舞したであろう、光景。
だが、今の、二人の、心には、何の、感情も、湧き上がってこなかった。
なぜなら、その、月魄の、前に、一体の、主のような、穢れが、静かに、とぐろを、巻いていたからだ。
それは、これまでに、遭遇した、どんな、穢れとも、違っていた。
明確な、殺意も、怨念も、感じられない。
ただ、そこに「在る」だけで、空間そのものを、歪ませるような、圧倒的な、存在感。
あれと、戦って、勝てる、見込みは、万に一つも、ない。
景は、直感で、悟った。
追手の、声が、さらに、近づいてくる。
前門の、虎。後門の、狼。
まさに、絶体絶命。
景は、瑠璃の、手を、強く、握った。
そして、言った。
「……瑠璃」
彼は、初めて、彼女の、名前を、呼んだ。
「……お前だけ、逃げろ」
瑠璃が、驚いて、顔を上げる。
「俺が、囮になる。あいつらの、注意を、引きつけている間に、お前は、あの、出口から、外へ出ろ」
「……何を、言っているのですか」
「あの、月魄を、少し、削り取っていけ。それだけ、あれば、お前の、家の、再興とやらも、できるだろう」
それは、彼なりの、最後の、優しさだった。
そして、同時に、どこまでも、自己満足な、提案だった。
彼は、この、どうしようもない、共犯関係の、全ての、責任を、自分一人で、背負い込み、そして、格好をつけて、死のうとしていたのだ。
瑠璃は、そんな彼の、考えが、手に取るように、分かった。
彼女は、ゆっくりと、首を、横に振った。
「……嫌です」
「……なぜだ」
「家の、再興など、もう、どうでも、いいのです」
「じゃあ、なぜだ! 生きたいと、思わないのか!」
景が、思わず、声を、荒げた。
その、必死な、形相を見て、瑠璃は、ふわり、と、笑った。
それは、追いつめられた、人間の、笑みではなかった。
心の、底から、愛しいものを、見つめる、慈愛に、満ちた、聖母の、微笑みだった。
彼女は、泣きながら、そして、心の底から、笑って、言った。
「だって、あなたがいなければ、退屈じゃありませんか」
その、言葉は。
愛の、告白、というには、あまりにも、不謹慎で。
生の、渇望、というには、あまりにも、自分勝手で。
そして、どうしようもなく、二人の、魂の、真実を、突いた、言葉だった。
景は、言葉を、失った。
そうだ。
そうだった。
俺たちは、ただ、退屈だったのだ。
この、息の詰まる、世界が。
そして、お互いに、出会ってしまった。
自分と、同じ、空っぽの、瞳をした、どうしようもない、相手に。
二人でいれば、退屈だけは、しなかった。
それだけで、十分だったのだ。
家の再興も、富も、名誉も、自由も、もはや、どうでもいい。
ただ、この、瞬間の、隣にいる、こいつが、いなくならなければ、それで。
景の、全身から、力が、抜けていく。
彼は、瑠璃の、体を、そっと、抱きしめた。
そして、彼女の、耳元で、囁いた。
「……ああ。本当に、退屈しない、女だ、お前は」
二人は、追手の、声も、目の前の、主の、存在も、もはや、意識の外に、追いやり、ただ、互いの、存在を、確かめ合うように、抱きしめ合った。
それが、二人が、見つけた、唯一の、そして、究極の、答えだった。




