第16話:最後の楽園
第16話:最後の楽園
黄泉路での、逃避行が、始まった。
それは、二人が、夢想していた、甘美な、楽園の、日々とは、全く、かけ離れたものだった。
最初の、数日間は、まだ、よかった。
地上から、解放された、高揚感が、二人を、支えていた。彼らは、まるで、探検家気取りで、未知の、通路を、進んでいった。
だが、その、高揚感は、すぐに、現実的な、問題の前に、色褪せていく。
――食料。
あの、光る苔は、腹の足しには、なる。だが、それだけでは、人間の、体は、もたない。
日に日に、二人の、体力は、奪われていった。
瑠璃の、柔らかった、頬は、こけ、その、白い肌は、土と、泥で、汚れ、輝きを、失った。
景もまた、痩せ、その、死んだ魚のような、目が、さらに、窪んで、見える。
そして、何よりも、二人を、苦しめたのは、絶え間なく、聞こえてくる、追手の、気配だった。
陰陽寮の、役人たちは、執拗だった。
彼らは、この、黄泉路の、別の、入り口を、見つけ出し、じりじりと、二人を、追い詰めてきている。
遠くから、犬の、吠える声や、人の、怒声が、反響して、聞こえてくるたびに、二人は、息を殺し、岩陰に、身を潜めなければならなかった。
かつて、楽園だと思っていた、この場所は、いつの間にか、出口のない、ただの、迷宮へと、変わっていた。
その日、瑠璃は、ついに、限界に、達した。
探索の、途中、ぬかるんだ、地面に、足を取られ、彼女は、派手に、転んでしまったのだ。
高価だったはずの、着物は、泥まみれになり、膝からは、血が、滲んでいる。
「……っ」
痛みに、顔を歪める、彼女に、景は、無言で、手を、差し伸べた。
だが、瑠璃は、その手を、取らなかった。
彼女は、泥だらけの、地面に、座り込んだまま、俯いて、しまった。
その、小さな、肩が、微かに、震えている。
「……もう、嫌……」
か細い、声が、漏れた。
「……もう、歩けません……」
景は、何も、言わなかった。
ただ、黙って、彼女の、隣に、しゃがみこむ。
やがて、瑠璃の、瞳から、大粒の、涙が、ぽろぽろと、こぼれ落ちた。
「……わたくしの、せい、です……」
嗚咽が、漏れる。
「わたくしが、あなたを、そそのかしたから……。わたくしが、家の、ことなど、諦めきれなかったから……。こんな、ことに……」
後悔の、言葉だった。
だが、その、後悔は、どこか、的外れなものに、景には、聞こえた。
この女は、まだ、分かっていない。
自分たちが、ここにいるのは、家の、再興のためなどではない。
ただ、現実から、逃げたかった、だけなのだ。
その、どうしようもない、事実から、彼女は、まだ、目を、そらしている。
「……こんなはずでは、なかった……」
瑠璃は、泣きじゃくりながら、繰り返した。
「わたくしは、ただ、もう一度、昔のように、日の当たる場所で、胸を張って、生きていきたかった、だけなのに……。なぜ、こんな、暗くて、汚い、場所に……」
その、あまりにも、子供じみた、泣き言に、景は、もはや、苛立ちさえ、感じなかった。
ただ、深い、深い、諦念が、彼の、心を、満たしていく。
ああ、そうか。
こいつも、俺と、同じなのだ。
結局、自分に、都合のいい、夢を見て、そして、その夢が、破れたことに、ただ、駄々を、こねているだけ。
なんと、滑稽で、そして、どうしようもなく、憐れな、生き物だろうか。
人間、というものは。
景は、立ち上がると、近くの、壁から、光る苔を、一つ、ちぎってきた。
そして、泣きじゃくる、瑠璃の、前に、差し出す。
「……食え」
低い、声だった。
「……いりません! こんなもの、もう……!」
「食え、と言っている」
景は、有無を言わせぬ、力で、苔を、彼女の、唇に、押し付けた。
瑠璃は、抵抗したが、やがて、諦めたように、それを、口に、含んだ。
泥臭く、青臭い、あの、味。
その、不味さが、逆に、彼女の、意識を、現実に、引き戻す。
「……これを、食ってる間は」
景は、言った。
その、死んだ魚のような、目が、じっと、瑠璃を、見つめていた。
「……俺たちは、まだ、生きてる。それ以上でも、それ以下でも、ねえよ」
それは、慰めの、言葉ではなかった。
ただ、残酷な、事実の、提示。
だが、その、あまりにも、不器用な、言葉が、なぜか、瑠璃の、荒れ狂う、心を、静めていった。
彼女は、しゃくり上げながらも、ゆっくりと、苔を、咀嚼した。
そして、差し出された、景の、汚れた、手を、今度は、しっかりと、握り返した。
彼女は、まだ、理解していなかったのかもしれない。
この、手を、取ることが、もはや、再生ではなく、完全な、共犯者として、共に、堕ちていくことを、意味しているのだと。
だが、もう、どうでも、よかった。
一人で、光の中に、いるよりも、この、どうしようもない、男と、二人で、闇の中に、いる方が、ずっと、ましだと、思ったからだ。
二人は、手を取り合ったまま、再び、立ち上がった。
そして、さらに、深い、絶望の、闇の中へと、その、一歩を、踏み出した。




