第12話:歪んだ執着
第12話:歪んだ執着
賀茂泉は、一人、自室で、唇を、強く、噛みしめていた。
指先が、悔しさに、微かに、震えている。
あの男の、目が、忘れられない。
藤原景。
あの、全てを、諦めきった、底なしの、虚無の瞳。
『俺はもう、頑張りたくないんで』
その言葉が、耳の奥で、何度も、何度も、繰り返される。
屈辱だった。
彼女は、賀茂家の、人間として、生まれ、幼い頃から、常に、一番、であった。才覚、美貌、そして、野心。その、全てにおいて、誰にも、負けたことはなかった。
彼女が、手を伸ばせば、手に入らないものなど、なかった。
男たちも、そうだ。誰もが、彼女の、知性と、魅力の前に、ひれ伏した。
なのに、あの男は。
あの、死んだ魚のような、目をした、男だけは、違った。
彼は、彼女が、差し出した、最高の、未来を、まるで、道端の、石ころでも、蹴飛ばすかのように、一蹴したのだ。
泉は、初めて、味わう、完全な、敗北感に、打ち震えていた。
だが、それは、やがて、別の、もっと、どす黒い、感情へと、変わっていった。
――許せない。
あの男が、自分ではなく、あの、没落した、桜小路の、姫を選ぶ、ということが。
あの、過去の、亡霊のような、女と、共に、泥の中に、沈んでいくことを、あの男が、望んでいる、ということが。
自分が、差し伸べた、救いの手を、振り払った、あの男が、許せない。
そして、何よりも。
自分の、信じる、「正しさ」が、あの男に、全く、通用しなかった、という、事実が、彼女の、プライドを、ズタズタに、引き裂いていた。
「……彼が、自ら、堕ちていくと、いうのなら」
泉は、鏡に映る、自分の、顔を、見つめながら、呟いた。
その、美しい、顔は、嫉妬の、炎で、醜く、歪んでいる。
「……私が、その、背中を、押して、差し上げるまで」
彼女の、心は、決まった。
自分が、手に入れられないのなら、いっそ、壊してしまえ。
あの男が、選んだ、ささやかな、安息の場所を、この手で、徹底的に、破壊してやる。
そうすれば、彼は、きっと、後悔するだろう。
そして、泣きながら、自分の、足元に、縋り付いてくるに、違いない。
そうだ、そうでなければ、ならない。
私の、正しさが、証明されなければ、ならないのだ。
その、歪んだ、思考は、もはや、恋情ではなかった。
ただの、子供じみた、独占欲と、そして、傷つけられた、自尊心を、満たすための、醜い、執着だった。
翌日、泉は、大臣の、屋敷を、訪れていた。
彼女は、大臣に、深く、頭を下げると、さも、憂いを、帯びた、声で、切り出した。
「……大臣様。申し上げにくい、ことなのですが……藤原景殿の、ことで、少々、看過できぬ、噂を、耳にいたしました」
「ほう。あの、腑抜けた男が、何か、したのか」
「はい。どうやら、桜小路の、姫君に、唆され、家の、再興を、企んでいる、よしにございます」
それは、真っ赤な、嘘だった。
景が、そんなものに、微塵も、興味がないことは、彼女が、一番、よく、知っていた。
だが、大臣には、そうは、見えない。
「なに? あの、落ちぶれた、家の、再興だと? 馬鹿なことを」
「それだけでは、ございません」
泉は、畳みかけた。
「二人は、桜小路家の、敷地にある、禁じられた、古の、黄泉路に、夜な夜な、侵入し、そこを、根城に、何か、不穏な、企てを、している、と……」
泉は、自分が、調べ上げた、断片的な、事実に、巧みに、悪意に、満ちた、脚色を、加えていく。
その、物語は、ひどく、説得力が、あった。
没落した、名家の、姫が、家の、再興を、夢見て、無気力な、夫を、手玉に取り、禁じられた、力に、手を、染める。
いかにも、ありそうな、話だった。
大臣の顔が、みるみる、険しくなっていく。
「……ふん。あの、死んだ魚のような、目をした男も、所詮は、女の色香に、迷う、俗物だったか。そして、桜小路の、姫も、まだ、懲りておらなんだとは。見過ごせぬ、話だな」
泉は、心の中で、ほくそ笑んだ。
罠は、仕掛けられた。
あとは、獲物が、かかり、そして、社会的に、抹殺されるのを、待つだけだ。
彼女は、さも、心を、痛めているかのような、演技を、続けながら、言った。
「……景殿の、才能は、惜しいものと、存じます。どうか、大臣様の、お力で、彼が、道を踏み外さぬよう、お導き、いただけますまいか」
「うむ。善処しよう」
大臣は、頷いた。
泉は、深く、一礼すると、大臣の、部屋を、後にした。
廊下を、歩きながら、彼女の、口元には、冷たい、勝利の、笑みが、浮かんでいた。
――これで、いいのよ、景殿。
――あなたは、自分の、選んだ、道の、愚かさを、思い知ればいい。
――そして、全てを失った時、あなたは、きっと、私の、正しさを、理解するでしょう。
彼女は、まだ、気づいていなかった。
その、歪んだ、執着が、やがて、自分自身をも、滅ぼす、刃となることに。
ただ、今は、目の前の、小さな、復讐劇の、成功を、確信しているだけだった。




