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第11話:世界への拒絶

第11話:世界への拒絶

 泉の言葉は、悪魔の、囁きのようだった。

 それは、ひどく、甘く、そして、抗いがたいほど、魅力的だった。

 正当な、評価。

 輝かしい、未来。

 かつての、景が、喉から、手が出るほど、欲しかった、全てが、そこには、あった。

 彼女の、言う通りだ。

 桜小路の姫は、過去の、亡霊だ。彼女と、共にいても、得られるものなど、何もない。あるのは、ただ、緩やかな、堕落と、退廃だけ。

 だが、泉と、手を組めば。

 この、死んだような、日々から、抜け出せる。

 もう一度、自分の、能力を、存分に、試すことができる。

 景の、心の、天秤は、一瞬、大きく、泉の、方へと、傾きかけた。

 そうだ、それが、正しい、選択だ。

 それが、合理的で、賢明な、生き方だ。

 彼が、そう、思いかけた、その時だった。


 ――ぷつり。


 彼の、頭の中で、何かが、焼き切れる、音がした。

 脳裏に、前世の、光景が、鮮やかに、蘇る。

 深夜の、オフィス。鳴り止まない、電話。上司の、怒声。PCの、モニターが、放つ、無機質な、光。

 眠れない、夜。

 味のしない、コンビニの、弁当。

 動悸、めまい、そして、吐き気。

 すり減っていく、魂の、音。

 『頑張れ』

 『お前なら、できる』

 『期待しているぞ』

 その、善意の、形を、した、呪いの、言葉たち。

 そして、病院の、白い、天井。

 過労死、という、あまりにも、滑稽な、死に様。

 ――ああ、そうだ。

 思い出した。

 俺は、あれから、逃げてきたんだった。

 死に物狂いで、この、何もない、空っぽの、場所に、たどり着いたんだった。

 それを、今さら。

 もう一度、あの、地獄へ、戻れと、言うのか。


 景の、顔から、すうっと、表情が、消えた。

 その、瞳は、再び、あの、光の、一切ない、死んだ魚の、目に、戻っていた。

 いや、それ以上だった。

 それは、もはや、虚無、そのものだった。

 泉は、彼の、その、急激な、変化に、気づき、戸惑った。

「……景、殿?」

 景は、ゆっくりと、口を、開いた。

 その声は、ひどく、穏やかで、そして、底なしに、冷たかった。

「……賀茂様。あなたのおっしゃることは、全て、正しい。そして、魅力的だ。もし、私が、まともな、人間であったなら、喜んで、その手を、取ったでしょう」

 彼は、一度、言葉を、切った。

 そして、泉の、目を、真っ直ぐに、見て、言った。

「ですが、あいにく」


 「俺はもう、頑張りたくないんで」


 その、一言は、あまりにも、静かで、そして、絶対的な、拒絶の、響きを、持っていた。

 泉は、言葉を、失った。

 彼女は、これまで、数多の、男たちを、その、知性と、魅力で、手玉に、取ってきた。

 彼女の、誘いを、断った、男など、一人も、いなかった。

 なのに、目の前の、男は。

 彼女が、差し出した、最高の、未来を、ただ、一言、「頑張りたくない」という、あまりにも、子供じみた、理由で、蹴り飛ばしたのだ。

 泉は、初めて、理解した。

 この男は、違うのだ、と。

 自分や、この、世界の、他の、誰とも、全く、違う、場所に、立っている。

 彼の、心は、とうの昔に、壊れている。

 彼の、魂は、すでに、死んでいる。

 彼の、目の前にある、虚無は、あまりにも、深く、そして、暗い。

 その、底なしの、闇を、覗き込んでしまった、泉の、背筋を、初めて、恐怖に近い、何かが、走り抜けた。

 それは、理解できない、ものへの、畏怖。

 そして、自分の、信じる、「正しさ」が、全く、通用しない、相手と、対峙したことへの、戦慄だった。

 彼女は、気づいていない。

 その、戦慄が、やがて、景に対する、より、屈折した、そして、危険な、執着へと、変わっていくことを。

 ただ、今は、目の前の、男の、放つ、圧倒的な、虚無の、オーラに、立ち尽くすことしか、できなかった。


 景は、そんな、泉に、一瞥もくれることなく、彼女の、広げた、地図を、静かに、畳んだ。

 そして、それを、彼女の、胸へと、押し返す。

「……失礼します」

 彼は、それだけを、言うと、泉の、横を、すり抜け、部屋を、出ていった。

 彼の、足は、迷いなく、あの、薄暗い、土御門方の、部屋へと、向かっていた。

 いや、違う。

 彼が、本当に、帰りたかったのは。

 あの、桜小路の、姫が待つ、もっと、暗くて、どうしようもない、あの、檻の中だったのかもしれない。

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