第1話:檻の中の二人
第1話:檻の中の二人
魂が、すり減っていく、音がした。
それは、比喩ではない。藤原景には、確かに、聞こえていた。蛍光灯が明滅する、埃っぽいオフィスで、終わりのない書類の山に埋もれながら、自分の魂が、やすりで削られるように、少しずつ、粉になって消えていく、あの、耳障りな音を。
過労死。
そう、診断される直前、彼の意識は、ぷつりと、途絶えた。
そして、次に目を開けた時、彼は、藤原景という、全く別の、見知らぬ男になっていた。
雅な、平安朝風の都。貴族たちが、牛車でのろのろと道を行き、女たちは、十二単の袖の色を競い合う、そんな、異世界。
彼は、この世界で、二度目の生を受けた。
だが、その心は、死んだままだった。
もう、頑張りたくない。
もう、誰かの期待に、応えたくない。
もう、誰とも、深く、関わりたくない。
前世で、彼を殺したもの全てから、逃げ出したかった。
彼は、陰陽寮の、最も、閑職とされる部署「土御門方」で、下級役人として、息を潜めるように、生きていた。死んだ魚のような目で、ただ、与えられた、最低限の仕事を、最低限の労力で、こなすだけの日々。
彼の、唯一の願いは、ただ、心の平穏。誰にも、注目されず、誰の記憶にも残らず、ただ、空気のように、この世界に、存在していたかった。
だが、運命は、そんな、彼の、ささやかな願いさえも、許さなかった。
「――藤原景、であるな」
その日、景は、大臣の屋敷に、呼び出されていた。
目の前に座る、恰幅のいい、しかし、目の奥に、一切の笑みを浮かべていない男。この国の、権力の中枢にいる、老人だ。
「貴様の、噂は、聞いている。やる気のない、天才。死人のような、目をした、切れ者、とな」
最悪の、評価だった。目立ちたくない、と思っていたのに、その、無気力な態度そのものが、逆に、悪目立ちしてしまっていたらしい。
「……恐れ入ります」
景は、感情を殺し、ただ、頭を下げた。
大臣は、そんな景の様子を、値踏みするように、じろりと眺めると、本題を切り出した。
「貴様に、一つ、命じる。桜小路家の、姫君と、祝言を挙げよ」
桜小路家。
その名を、景も、知っていた。
かつては、最大の「黄泉路」を所有し、絶大な権力を誇った、名家中の、名家。だが、数年前の政争に敗れ、今や、見る影もなく、没落している。
その家の、姫。
「……何故、私なのでしょうか」
景は、感情を押し殺したまま、尋ねた。
「桜小路の姫は、いまだ、家の再興などという、叶わぬ夢に、固執している。その、ヒステリックな言動は、幕府にとっても、目障りでな。そこで、貴様だ」
大臣の、冷たい目が、景を、射抜いた。
「お前のような、死んだ目の男が、お目付け役には、丁度いい。情に流されることも、余計な、野心を抱くことも、あるまい。ただ、あの姫が、これ以上、馬鹿な騒ぎを起こさぬよう、その、そばで、監視しておれば、それでよい」
それは、あまりにも、屈辱的な、命令だった。
自分は、ただ、檻の中にいる、狂った姫を、見張るための、番犬になれと、言われているのだ。
景の、心の奥底で、前世の、上司に、罵倒され続けた、記憶が、蘇る。
――嫌だ。
――面倒だ。
――関わりたくない。
魂が、拒絶の、悲鳴を、上げていた。
「……お断り、いたします。私には、その任は、重すぎます」
景は、絞り出すように、言った。
だが、大臣は、鼻で笑った。
「断る、という選択肢は、ない。この命を、受け入れぬのなら、お前の、その、しがない藤原の家も、明日には、取り潰されると思え。分かったな」
それは、脅迫だった。
景は、唇を、強く、噛みしめた。
結局、この世界も、同じなのだ。
逃げ場など、どこにもない。
弱い者は、強い者に、ただ、搾取され、利用されるだけ。
彼の、死んだ魚のような瞳から、最後の、光が、消えた。
「……拝命、いたします」
その声は、彼自身のものとは、思えないほど、乾いて、ひび割れていた。
こうして、景は、もう一つの、檻へと、足を踏み入れることになった。
没落した家の、再興という、重すぎる鎖に繋がれた、姫君、桜小路瑠璃。
彼に、課せられたのは、彼女との、偽りの結婚という、新たな、地獄の始まりだった。




