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安田悠の物語

連休の始まりは、例年通りのリズムだった。

毎年ゴールデンウィークになると僕は、あの小さな島――彩島へ向かう。特別な観光地というわけではないけれど、静かで、何より「常連」という言葉が通じる場所だ。宿の人も、他の客も、何となく顔なじみ。言葉は交わさずとも、どこか落ち着ける。


ゲストハウスIRODORIは、沢田さん夫婦が営んでいて、派手さはないが自分のような旅人にはちょうどいい。


僕が到着したのは、他の常連たちより少し遅れてだった。港には沢田さんが迎えに来ていた。特別な歓迎もないが、それでいい。

宿についてチェックインを済ませた時、ふとロビーの一角に見慣れない女性がいた。


「こんにちは、奥永由里子です。よろしくお願いします」

誰に向けた挨拶だったのかは分からなかったが、それが僕に向けられたものである可能性は高かった。僕は軽く会釈だけして、自分の部屋に向かった。


彩島での滞在は、基本的に変化がない。シーカヤックを楽しみ、あとは宿で食事をし、夜は軽くお酒を飲んで眠る。

だけど、その年は違った。


最終日――夕方、宿に戻ると、なぜか皆の空気が張り詰めていた。


「奥永さんの捜索願、出したんだって……」

誰かが言った。


その場にはいなかったが、静江海岸付近で同行していた二人とはぐれたらしい。今は島の警察や漁協が捜索を始めているという。

宿の中では、ただ待つことしかできなかった。


ほどなくして、「見つかった」との報が届く。

僕はカメラを持って港へ向かった。カメラがあると、何か落ち着く。周囲の島民が集まってざわついていたので、数枚だけ撮影した。

奥永さんの姿はそこには写っていない。僕は誰を撮っていたんだろう。


彼女が桟橋に降り立った時、「ありがとうございました」と頭を下げた。声ははっきりしていて、歩きもしっかりしていた。命に別状がないことは分かった。


その日の夜、夕食の頃から、他のメンバーは奥永さんを迷惑そうに見ていた。

僕は彼女に話しかけてみた。


「溺れたんですか?」


「違います」

そう返されて、そこから事故の経緯をぽつぽつと話してくれた。

シュノーケリング中に他の二人に置き去りにされ、ゴール地点の目印を見つけられなかったのだという。


彼女は自分の言葉で語った。混乱した様子もなく、筋道が通っていて、むしろ僕には心地よかった。


旅が終わってすぐ、僕は彼女の話をまとめて、確認のためにメールで送った。

「間違いがあれば修正してほしい」と書いた。数日後、由里子さんから修正の返信があった。


その文面を見た瞬間、胸がざわついた。

これをそのまま使っても良いのだろうか。

でも、本人が言っているんだから、このまま書いていいと判断し、ブログにそのまま転載した。


> 彩島旅行中、ある宿泊者の遭難があった。本人から詳細なメールを受け取ったので、そのまま掲載する。


ブログが急にアクセスを集め始めた。

いつもは魚の煮つけとか、釣果と味噌汁の写真を淡々と貼っているだけだったのに、今回は違った。


コメント欄はないので反応はわからないが、何度もページが読まれているのを確認して、僕は高揚した。誰かが、自分の記録を“必要としている”と感じた。


だが、由里子さんからメールが届いた。


> あの記事は、私が承諾した内容ではありません。

> 削除をお願いします。


それは確かにそうだった。彼女は6「修正した文面」を送っただけで、「これを公開していい」とは一言も言っていなかった。

でも、これを見て『気をつけよう』と思った人はいるはずだし、もし奥永さんがもう思い出したくないのなら、この記事は修正せずそのままにしておく方法もある。

それに、僕はあの日のみんなの冷ややかな態度が嫌だった。

事故を起こした奥永さんを『迷惑だ』と排除するより、悪かったところは反省して、またみんなで旅行ができたら良いと思ったんだ。


その直後、彼女のメールの文調が変わった。

穏やかなようで、でも説得力のある文だった。トマトがしゃべったみたいな違和感があった。

僕は怖くなった。

何か“常識の外”にいる存在と対峙している気がした。

彼女に言われるがまま、記事を削除し、謝罪文を掲載し、PCに保管している彼女に関する全てのデータを消去した。

僕は奥永さんのことを知りたいと思ったし、みんなにも知ってほしいと思っていただけなのに。


数ヶ月後、佐々木さんたちと、別の場所への旅行に出かけた。

宿の談話室で、佐々木さんが言った。


「そういえば、こないだ奥永さんと会ったよ」


聞きたくなかった。だけど、耳は勝手に聞いていた。


「奥永さん、あの記事のことで、結構ボロボロだったみたい。だから僕、言ったんだよ。『来年の彩島旅行で仕返しでもしてやれ』って」


僕は笑えなかった。

悪気があったわけじゃない。でも、どこかで「誰も責めてないだろう」と思い込んでいたのだろう。


それからしばらくして、彩島の宿で働いていた松野剛が東京でライブをするという話を聞いた。

彼は自称シンガーソングライターで、音楽の才能があるとは思えなかったが、事故をテーマにしたという曲があると聞いて、僕は興味を持った。


演奏はひどかった。歌詞も支離滅裂だった。

けれど、僕は笑っていた。この場にいることが、自分を少し救ってくれる気がしたからだ。


ブログにはこう書いた。


> 松野剛のライブに行ってきました。特にあの曲には失笑失笑、失笑が止まらない。


翌年のゴールデンウィーク、僕は彩島に行かなかった。

宿の集合場所だけ訪れて、みんなを見送った。

帰り道、うのちゃんたちとお茶をしてから帰った。


風の噂で、ゲストハウスIRODORIに対するバッシング記事が出ていると聞いた。

お気に入りの宿を悪く書かれるのは決していい気はしない。

でも、それによってお気に入りの宿の予約が取り易くなるのなら、それはそれで良い気もしてきた。


その後僕は結婚した。子供も生まれた。

奥永さんの事を思い出すことはない。

もしかしたら、忘れたふりをして、書かなかっただけかもしれない。

だけど、ブログは今も続いている。


これは僕のブログなんだ。

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