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矢野節子の物語

今年のゴールデンウィークも、私は例年どおり彩島を訪れた。沢田さんの宿には、もう何年も通っている。特別なサービスがあるわけではない。むしろ、どこか素朴で癖のある場所だ。だがそれが好きだった。決まりきった挨拶、控えめな夕食、海の音。そして何より、同じ時期に顔を合わせる人々との再会。


チェックインの前に、私は島の港近くの店先で、島民の女性に声をかけられた。島の行事や気候のことを話していると、隣にいた女性も会話に加わった。白い肌に、長袖の羽織を重ねたその人は、旅行慣れしていそうな落ち着いた話し方をしていた。


「どちらに泊まるんですか?」とその人が島民に尋ねられた時、「沢田さんの宿です」と答えた。偶然にも、私と同じ宿だった。私たちは自然と顔を見合わせ、会釈を交わした。その人の名前は奥永由里子さん。私より少し年下に見えた。


その後、宿に到着してチェックインを済ませると、名簿に目をやった。そこには「内海久美子」の名前もあった。私は思わず声をあげそうになった。内海? ああ、うのちゃん――宇野久美子だ。旧姓がそうだった。何年も前から一緒に泊まっている常連で、どこか天然でマイペースな女性だ。


チェックインを終え、うのちゃんの姿を見つけて声をかけた。「うのちゃん、結婚したんだね」


「うん。」と、うのちゃんは照れくさそうに笑った。

夕食の時間、宿では恒例の簡単な自己紹介タイムがあった。名前、居住地、職業――それだけ。由里子さんもその順番で淡々と話した。余計なことは言わず、それが却って彼女の人柄を感じさせた。優しそうで、でも少し周囲から浮いている。そんな印象だった。


旅の最終日、私はうのちゃんと亜紀さんと一緒に、喜多見浜に行きたかった。沢田さんの車での送迎を頼みたかったが、人数が足りなければ断られてしまう。由里子さんがレンタルバイクで喜多見浜に行くと聞き、私は思い切って声をかけた。


「お願い。一緒に沢田さんの車に乗らない? 人数が足りなくて……」


最初、彼女は遠慮していた。「もう予約してしまったので……」


私は食い下がった。「どうしても行きたくて。お願い、キャンセルしてくれませんか?」


結局、由里子さんは快く了承してくれた。「わかりました」と小さく笑って。


当日、沢田さんの車で喜多見浜に向かい、シュノーケリングを楽しんだ後、浜辺で昼食を取った。私は「静江海岸ら喜多見浜まで泳いで移動すると綺麗」と聞いていたので、海を通って移動するコースを提案した。


亜紀さんは体調が優れないとのことで、喜多見浜の東屋で待機することに。


うのちゃん、由里子さん、そして私の三人で静江海岸へ向かった。シュノーケリングの準備をし、海へ入る。私はスキューバのライセンスを持っている。だからこそ、海では安全確認とチーム行動が鉄則だということも理解していた。


だが、うのちゃんは最初から一人で自由に泳いでいってしまった。声をかけられない水中では、私と由里子さんとでアイコンタクトを交わしながら、久美子を見失わないように気を配った。


シュノーケリング後、私は「じゃあ、喜多見浜へ行こう」と言った。


そのとき、私は由里子さんと並んで泳いでいた。でも、波の影響か、ふと気づくと由里子さんが遅れていた。私は海中に留まり、由里子さんが追いつくのを待った。苦戦しながらも、彼女は明らかに私の方へ向かってきていた。


その時――うのちゃんが一人、喜多見浜へ向かって泳いでいく姿が見えた。


「待って」と声に出せない私は、焦りながらも由里子さんを振り切り、うのちゃんを追いかけてしまった。心の中では「由里子さん、ごめん」と叫んでいた。


北港に着くと、亜紀さんが怪訝な様子で私たちに尋ねた。「由里子さんは?」


私は答えられなかった。久美子が「あのうち、上がってくるんじゃない?」と軽く返した。


東屋に、由里子さんのものらしき蛍光オレンジのタオルが結びつけてあった。それをうのちゃんが「これ、たぶん由里子さんの」と言って片付けてしまった。


午後3時、沢田さんが迎えに来た。彼周囲を見回し、「あと一人は?」と聞いた。


「遅いですね」とうのちゃんが言う。その瞬間、沢田さんの表情が変わった。


「捜索願を出します」


そう言って、彼はすぐに行動を開始した。


私は震えていた。水の中で置いてきたのは私だ。あの時、もう少し待っていれば、彼女は無事に泳ぎ切れたかもしれない。


その後、警察が到着し、私たちは事情聴取を受けた。「どこで最後に見ましたか」「何時頃ですか」


私はすべてを答えた。由里子さんが危ないと知っていたのに、うのちゃんを追った自分を責めながら。


その後、宿に戻った私たちに、由里子さんは無事に救助されたという連絡が入った。


安堵した。けれど、由里子さんは宿に戻ったとき、私たちに一言も話しかけなかった。表情がなかった。


夕食の時、由里子さんの前の席しか空いておらず、私たちはそこに無言で座った。うのちゃんも亜紀さんも、何も言わない。


亜紀さんは由里子さんを気遣い話しかけている。

由里子さんは、淡々と応じている。


私は、彼女のスイムウェアが破けていなかったか心配で、思わず「水着、大丈夫だった?」と尋ねた。


由里子は無言で、私を睨んだ。


その視線は、深い、深い拒絶の意思だった。


翌日、東京に戻った私たちは、駅で最後の別れを交わした。


私は由里子に歩み寄り、「怖い思いをさせしまってごめんなさい」と言って手を差し出した。由里子は一瞬だけ躊躇い、でもその手を取ってくれた。


それが、私と由里子の最後の接点だった。


それ以来、私はスキューバを辞めた。彩島にも行っていない。


海は好きだ。でも、取り返しのつかない失敗をしてしまった場所でもあるから。


人を置いてきてしまった。たとえ生きて戻ったとしても、心の中に残るのは、置いてきたという記憶だけだ。


もう、海に潜る資格なんて、私にはない。


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