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内海久美子の物語

毎年、ゴールデンウィークになると、私は彩島に行く。都内で旅仲間と合流し、そこから一緒に移動する。移動中の雑談が、もう旅の醍醐味のひとつになっていた。


この島に行くようになったのは、数年前。最初はひとりで行ったけれど、今では佐々木さん、節子さん、亜紀さんといった常連仲間ができ、年に一度の再会を楽しみにしている。宿もずっと同じ、沢田さん夫婦の営む素朴なゲストハウス『IRODORI』だ。手作りのごはんと、綺麗な建物、ゆるい雰囲気。私はこの場所が好きだった。


今年も、同じように船に乗り、同じように島に降り立った。潮のにおい、港のざわめき、民宿までの道のり。全部が「毎年のこと」で、心が落ち着く。


夕食の時間には、恒例の自己紹介がある。もうみんな知ってる人たちだし、必要ないんじゃないかと思ったが、私の知らない顔があることに気が付いた。奥永由里子さんという人だった。


私より年上だろうか。ぱっと見は地味な服装で、でも目が合うと柔らかく微笑んでくれた。


「奥永由里子です。東京で、システムエンジニアをしています」


それだけの紹介だった。詳しいことは誰も聞かなかったし、本人も語らなかった。ただその穏やかな声と、空気を乱さないように振る舞う姿勢が、私には心地よく感じた。


その後、彼女と関わることはなかったが、お風呂場で場所を譲ってくれたり、私に対して親切にしてくれていた。話してみると、思ったより気さくで、質問には丁寧に答えてくれる人だった。悪い印象はなかった。むしろ、自然に馴染んでいるようにさえ見えた。


最終日、私たちは喜多見浜に行くことになっていた。


体調があまりよくないという亜紀さんは浜に残り、私と節子さん、そして由里子さんの三人で、まずは静江海岸へ向かった。歩いて30分ほど。そこは観光客も少なく、海が透明で、砂も細かくてきれい。私はその海が好きだった。


シュノーケリングを始めたが、正直、私はあまり周りの様子を気にしていなかった。魚を見つけたり、水面に顔を上げて一人で泳いだりしているうちに、どこかにいるはずの節子さんと由里子さんが見えなくなった。けれど、不安にはならなかった。毎年ここに来ているし、どうせあとで合流できる。


「じゃあ、喜多見浜へ行こう」と節子さんが言い、三人は移動を始めた。


私は先に泳ぎ始めた。他の人がどこにいるか、ちゃんと見ていなかった。由里子さんが出遅れているとも気づいていなかったし、節子さんが後ろを気にしていたことも覚えていない。ただ私は、目的地が喜多見浜と決まっていたから、そちらへ向かっただけだ。


喜多見浜に着くと、亜紀さんが驚いた様子で声をかけてきた。


「由里子さんは?」


そういえば、いなかった。


「そのうち上がってくるんじゃない?」


私は軽く答えた。そう、きっと大丈夫。何も問題は起きていない。


東屋に、蛍光オレンジのタオルがくくりつけてあった。


「これ、由里子さんのかな?」


私はそれを外し、彼女のバッグの中にしまった。


15時。宿の沢田さんが、送迎のために車でやって来た。


「もう一人、いたよね?」


確かに遅いかなとは思っていたが、沢田さんの顔色が変わった。「捜索願を出します」


警察が来た。節子さんも、私も、事情聴取を受けた。


「最後に見たのはいつですか?」


「3時間くらい前、静江海岸です」


言ったとたん、警察官の顔が引き攣るのが分かった。


まずい、と思った。


何がまずいのか、正確には分からなかったけれど、何かとても大変なことをしてしまったのだと理解した。私は誰かを、置き去りにしたらしい。シュノーケリングで、海で、一人きりにしてしまった。


——人が、死ぬかもしれない。


そんな考えが、頭の中で膨らんでいく。


宿に戻ると、安田くんが私に聞いてきた。


「なんで置いてきちゃったの?」


「楽しんでるみたいだったから……」


そう答えるしかなかった。


夕方になって、連絡があった。


「由里子さん、見つかったって!」


私は安堵した。


ああ、良かった。もうこの話は終わる。


その夜、由里子さんが戻ってきた。


夕食の時間だった。足を少し引きずっていたが、自力で歩いていた。


私は、心からホッとした。


でも、食堂での席順はどこかおかしかった。由里子さんの前だけ、不自然に空いている。他に座る場所がなかった私たちは、気まずい思いのまま、そこに無言で座った。


亜紀さんが話しかけると、由里子さんは穏やかに答えていた。でも、矢野さんが話しかけると、冷たく突き放す様に見えた。


食事が終わり、私はいつも通り旅仲間たちとのおしゃべりを楽しんでいた。


そんな中、安田くんが由里子さんに聞いた。


「溺れたんですか?」

「いいえ。溺れていません。……でも、お話します」


由里子さんは静かに、事故のことを語り出した。


「私が波に巻き込まれ、動けなくなっていた。やっと振り切ったと思ったら、誰もいなかった」


別の宿泊客が私たちを怒鳴りつけた。


「遅れた人がいたら待つ。何でその程度の事が分からないんだ。」


私は何も言えなかった。


翌日は移動日で、私は佐々木さんたちと一緒に行動していた。

途中で由里子さんを見かけたが、私の知らない人と楽しそうにしゃべっていた。


「事故の事を他の人に知られたくない。」

バレないように由里子さんに近づき、会話を聞いていたが、私の事を話している訳ではなさそうだった。


このまま、誰にも知られなければ良いんだ。


東京に着いた時、私は由里子さんに連絡先を尋ねた。

アドレス帳に、彼女は黙って書いてくれた。


その数日後、事件が起きた。

安田さんが事故についてブログに書いたのだ。

私は焦って、メールで「間違いありません」と返してしまった。


ちょうど同じ頃、彩島メンバーとの打ち上げがあった。安田くんが書いたブログは、由里子さんとの合作で間違いない。あの書き方では彩島の印象も悪くなる。

他のみんなも怒っていた。私も

「書くなら書くで、まずは飲みでしょ!」

と息巻いた。

終電をなくした私は、安田くんの家に泊めてもらうことになった。

「もう、事情聴取でも何でもしなさいよ。」

私は覚悟を決めていた。

でも、安田くんはまるでその話に触れられたくないかのような態度だった。


数日後、由里子さんからメールが届いた。

安田くんのブログの記事は、由里子さんに無断で掲載されたものだという。


信じられない思いで、何度かメールをやり取りした。由里子さんの話が、嘘だとは思えない。

思い切って、彼女をお茶に誘った。


約束の日、待ち合わせた私たちは、ごく普通の世間話をしながらカフェに入った。

和やかな雰囲気だったが?これは聞かなければいけない。

「安田くんとはどうなった?」

由里子さんは、スマホのメールを見せてくれた。

「謝罪文を掲載したって。」


由里子さんの言っていたことは、嘘じゃなかった。

私も、打ち上げの時に由里子さんを悪く言ったことなど、正直に話した。


その後も由里子さんにはトラブルが続いた。

メールで相談されて、私も電話で答えたりして。

関係者への挨拶のために連休でもないのに彩島に行った話とか聞かされて。

でも、そのやり取りは次第に、私にとって重荷になっていった。


ある日、由里子さんから「彩島の関係者の方々に、あなたのことは話しました」とメールが届いた。


私は、ついにこう返した。


「ここ最近の由里子さんのメールは、私にとってとても迷惑です。今後、電話やメールを含めたすべての連絡をお断りします」


翌年のゴールデンウィーク、私は彩島には行かなかった。

佐々木さんが、今年の旅行に由里子さんを誘っていたのが怖かった。

皆は私が行かない事に驚いていたので、いつもの集合場所にだけ行き、皆を見送った。

由里子さんはいなかった。

気にする必要なんてなかったんだ。


そのあと、同じように今回は彩島に行かないという安田くんや岡田さんとカフェに入った。


「今ね、妊活中でさ。もう、めちゃくちゃ大変なよね。」


あの日のことを触れられたくない一心で、必死でしゃべり続け、そして笑った


終わったこと。

誰にも触れられたくない。

誰にも知られたくない。


あの日の事をなかったことにしてしまえば、私の生活は平穏だ。

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