プロローグ
鍵を差し込む手が、わずかに震えていた。
開いたドアの向こうには、姉・由里子が最後まで暮らしていた部屋が、静かに佇んでいた。
一人暮らしには少し広い2LDKの空間に、沈黙だけが満ちている。
部屋は整っていた。
リビングの押し入れには、来客用の布団がきちんと収められている。
姉は誰かをもてなすのが得意だったわけではない。むしろ、必要以上に人と関わらない性格だった。
それでも、誰かが突然泊まることになっても困らないようにと、予備を用意していた。
実際、俺が泊まったこともある。
あの布団にくるまって眠った夜の、あのわずかな安心感を、今になって思い出している。
ガラステーブルの上には、ノートパソコンと数冊の通帳、そして一枚の保険証書が、まるで誰かを待っていたかのように整然と並んでいた。
俺は息を呑んだ。
保険証書には、自分――奥永聡の名前が、受取人として印字されていた。
姉が19歳のときに加入した個人年金保険。
死亡保障はわずか100万円程度。
だが、10年以上の積立で、受取額はかなりの額に膨らんでいた。
姉は、その金を俺に遺すつもりだったのか。
試しにパソコンを開くと、驚いたことに、パスワードの入力を求められなかった。
セキュリティにはうるさかった姉が、わざわざパスワードを外していた。
まるで、誰か――おそらく俺に――見られることを想定していたかのように。
中には、仕事のデータらしきものは見当たらなかった。
代わりに、メモやメールの下書き、旅行の記録、そして断片的な日記が並んでいた。
離島、事故、疎外、混乱、怒り、絶望、孤独――
打ち捨てられた文字の断片から、言葉にならない叫びが、静かに喉元へせり上がってくる。
姉は、いつも俺にだけは優しかった。
両親は長男である俺を甘やかし、姉には冷たかった。
「死にたいなら、せめて葬式代を準備してからにしなさい」
母がいつも吐いていたその言葉は、冗談ではなく、本気だった。
それでも姉は、俺にごはんを作ってくれた。
「お腹すいた」と言えば、おにぎりやホットケーキを。
唐揚げが得意で、つまみ食いを楽しんでいた子ども時代の記憶が、突然、鮮やかに蘇る。
俺は大学に進んだが、姉は進学を許されなかった。
それでも、高卒で働きながら必死に勉強して、システムエンジニアになった。
「結婚するなら、ご祝儀弾むよ」
恋人を紹介したとき、姉はそう言って微笑んだ。
その言葉の奥に、どれほどの思いがあったのか。
今になって、ようやく想像が及ぶようになった。
パソコンの電源を落とせない。
姉の残した言葉を、一つずつ拾い上げなければならない気がしていた。
これは、残された者に向けられた、最後の声かもしれない。
失われた声の代わりに残された記録。
母に言われた通り、葬式代を作り終えた姉が、それでもなお遺そうとした何か。
俺は、その“何か”を、どうしても見逃したくなかった。
――姉に、何があったのか。
その答えは、まだどこかに、静かに眠っている。