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5 日常

フィルノートを正午過ぎに発ったファスヴィント号は、王都への中継地となる交易拠点〈リオメル・デルタ〉に夕方近くに立ち寄った。


 この空中拠点は浮島群の合間に設けられた補給所であり、複数の商隊や私設空艇が入れ替わり立ち寄る場所でもあった。建物の外観は木と金属がむき出しで、天幕や吊り看板が至るところに揺れている。


 ファスヴィント号が接岸するやいなや、オルは親方の命で荷物の再点検と小さな資材の受け取りに向かった。


 「荷台下、通気弁! 閉めが甘ぇぞ!」


 「はい!」


 飛行甲板の鉄板の上にひざをつき、オルはスパナを手にひたすら作業に打ち込んだ。輸送用の小型缶の蓋が片方緩んでおり、潤滑剤がわずかに漏れていた。彼はため息をつきながら布で拭い、しっかりと固定し直す。


 「ったく、なんで暑い昼過ぎにまた点検なんだよ……」


 作業服の袖をまくり、額の汗を拭った頃には空が茜色に染まり始めていた。


 休憩時間になり、オルは船の横の資材コンテナの影に腰を下ろしていた。背中を壁に預けてパンと干し果実をかじりながら、ぼんやりと空を見上げていた。交易船が何隻も頭上を横切り、かすかに響く汽笛がどこか心地よい。


 「ずいぶん真面目に働くのね、あなた」


 ふいに、頭上から声がした。


 「うわっ!?」


 見上げると、ナージャが上段のコンテナに腰掛けていた。いつの間にそこにいたのか、足をぶらぶらと揺らしながら、にやにやと彼を見下ろしている。


 「ま、また上から……危ないですよ!」


 「だって、あなた、ぜんぜん気づかないんだもの。少し驚かせたくなったのよ」


 ナージャはそう言って、何かを投げた。オルの顔に柔らかく落ちてきたのは、折りたたまれたハンカチだった。


 「汗、拭いたら? もう整備士というより、パン屋の釜出しみたいな顔よ」


 「う、うるさいです……」


 顔を赤くしながらも、オルはそのハンカチを受け取って汗をぬぐった。少しだけ香草の匂いがした。


 「それ……高い布ですよね? こんなの汚しちゃ」


 「いらないから。古いやつ。――ねえ、私、あなたが整備してるところ、少しだけ見てたの」


 「……へ?」


 ナージャは小さく笑って肩をすくめた。


 「無駄な動きがなくて、でも必死にやってて、手が真っ黒になって……。ちょっと、いいなって思ったのよ。人が真剣なのって、好き」


 オルは何かを言いかけたが、喉がうまく動かず、結局何も言えなかった。


 「さ、出発の時間よ」


 ナージャはひょいと跳び下りると、風のように通路を歩き出した。夕焼けを背にしたその背中はどこか軽やかで、でも同時に、孤独な鳥のようにも見えた。


 ――オルはその場に少しだけ残り、立ち上がるタイミングを探していた。


 風は穏やかだった。


 夕暮れ、飛行船ファスヴィント号は高層気流をうまく捉え、深い紅に染まる空をゆっくりと滑っていた。高度は十分に取り、下界に見えるのはところどころに煙を上げる作業都市と、もはや機能していない浮島の防衛設備だった。空は広く、しかしどこか息苦しいような沈黙を抱えていた。


 オルは、後部甲板の隅に腰掛けていた。


 夕暮れの光が機体の鋲を静かに照らし、彼の横顔も黄金に染めていた。整備作業が一段落し、操縦は親方が担っている。手持ち無沙汰で、少し風にあたりながら考えていたのは――ナージャのことだった。


 なぜ、あんな貴族のような服装の女性が、空中物流の旅にわざわざついてきたのか。しかも、王都まで――。


 (「旅の予定が変わったの」って言ってたけど……本当にそうなのか?)


 彼女の言葉には嘘はなかった。だが、あの時の笑い方や、去り際の足音に、どこか――まるで用意されていたかのような、断ち切るような印象が残っていた。


 それに……彼女のペンダント。あれは――いや、考えすぎか。


 「オル?」


 突然、背後から声がした。


 反射的に振り返ると、そこにいたのはナージャだった。すでに外套を脱いでおり、シンプルな空の色に近い青灰色の旅装を着ていた。風を避けるためか、カップを手に持っている。


 「ぼんやりして、落っこちるわよ。ここ、高いんでしょう?」


 オルは驚いて立ち上がった。「い、いえ、ちょっと、整備後の振動とかを――」


 「嘘。考えごとしてた顔よ、それ」


 ナージャはふわりと笑った。彼女の目は、時折人を見透かすような色をしていた。


 「夕食、すぐ始まるわ。親方さんが言ってた」


 「……あ、はい」


 ナージャはオルの返事を待たず、踵を返してキャビンに戻っていく。オルは肩をすぼめ、小さくため息を吐いた。


 (まるで……心の中を見られたみたいだ)



 夕食は、質素ではあるが温かかった。保存食の干し肉と豆を煮込んだスープ、それに小麦の焼きパン。ナージャは親方の茶目っ気に少し笑いながら、礼儀正しくナプキンをひざに置いた。


 「こういう食事も嫌いじゃないわ。むしろ、自由で」


 「気取った街よりゃ、こっちのほうが落ち着くだろうよ」と親方が笑った。


 オルは黙ってパンをちぎりながら、ナージャの表情を盗み見た。


 ――彼女の仕草はどれも洗練されていて、それでいて型にはまっていない。王族の礼法とは違う、けれど、どこか「訓練された」気配があった。


 「要塞で、一度別れましたよね」


 食後のハーブ茶を飲みながら、オルは思い切って尋ねた。


 ナージャは一瞬だけ目を伏せたが、すぐにカップを持ち上げて笑った。


 「急用があったの。」


 「……女性1人で行くところじゃないですよ。労働者が集まってて、浮島の安定も悪くて」


 「だからまた乗ったの。私は……そういう場で目立つから」


 その言葉のあと、ナージャは静かに窓の外を見つめた。


 「――いろいろ探してたの。でも、見つからなかった。だから今は、王都へ行くことにしたのよ」


 それ以上、オルは訊けなかった。


 彼女が何を探していたのか、なぜそんな目で外を見つめているのか――わからなかった。ただ、その横顔がどこか寂しげで、触れてはいけないもののように感じられた。


夜明け前。


空はまだ群青の膜に包まれ、星々がかすかに光を残していた。

 ファスヴィント号の甲板では、オルがフードを被って眠気と格闘しながら周囲を監視していた。警備というよりも、荷の安全確認と露結対策のためだ。親方とは三時間交代で番をしている。

 ランタンの火がオレンジ色に揺れる中、足音が一つ、船室側から静かに響いてきた。

 

 「……あなた、やっぱり起きてたのね」

 

オルは驚いて振り向いた。

 

 「ナージャさん……?」

 

 ナージャは深い藍色のマントを羽織り、髪をゆるく結ったまま歩み寄ってくる。夜風にマントがひらりと舞い、彼女の影がランタンの明かりに重なった。

 

 「眠れなかったの」

 「……ぼくも、そんな感じです」

 

 オルは口元を緩めてみせるが、内心は落ち着かない。

 ナージャは何も言わず、彼の隣に腰を下ろした。木製の手すりに背を預け、風に視線を預ける。しばらく、二人の間に言葉のない時間が流れた。ナージャは短く息を吸い、少しだけオルの方に視線を向けた。

 

 「……ねえ、あなたは“王”って言葉、信じる?」

 

 「え……?」

 突拍子もない言葉に、オルは戸惑った。

 

 「ううん、ごめんなさい。変なこと言ったわね。忘れて」

  

 ナージャは視線を戻し、今度は夜空の遥か彼方を見るように静かに言葉を継いだ。

 

 「あの都市には、秘密が多いのよ。……私も、その一部」


 オルは息を飲んだ。その意味深な言葉によってそれが何なのかを知りたい衝動がこみ上げてきたが、ナージャの横顔に宿る静かな緊張が、それを言葉にするのを躊躇させた。

 ナージャは少しだけためらい、口を開いた。

 

 「実は……」

 

その瞬間、船室の扉が勢いよく開いた。

 「おーい、オル! そろそろ交代だぞー! 見てみろ、王都の灯りが溶けてきたぞ!」

 

 親方の明るい声が夜気を裂いて響く。ナージャはピクリと肩を揺らし、口を閉じた。

 

 「また今度にするわ」

 

 彼女は微笑んだが、その笑みは先ほどよりもわずかに影を落としていた。

 オルは頷くしかできなかった。そして、二人の間に流れていた静寂は、船の木材が鳴る音と親方の足音にかき消されていった。


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