12 決意
夜明け前の空は、まだ色を決めかねているようだった。
ファスヴィント号の船腹に寄り添う雲は重く、遠くで雷鳴のような音が微かに響いている。
甲板に出ると、すでに親方がそこにいた。
オルの顔を見るなり、親方は一瞬だけ眉をひそめ、それから何も言わずに顎で示した。
「……無事みたいだな」
それだけだった。
だが、その短い言葉に、オルの胸に溜まっていた緊張が少しだけほどける。
「親方……」
「話は後だ。どうやら、俺たちも“ただの運び屋”じゃいられなくなった」
親方はそう言って、船倉の方へ視線を向けた。
そこには、息を殺すようにして身を寄せ合う仲間たちの姿があった。
誰もが、王都で何が起きたのかを完全には理解していない。ただ、もう戻れないことだけは分かっている。
ナージャは甲板の端に立っていた。
王女の衣装はすでになく、簡素な外套に身を包んでいる。それでも、その背筋は不思議なほどまっすぐだった。
「……親方さん」
彼女は静かに振り返る。
「あなたたちも、もう安全じゃないわ」
その言葉に、誰かが息を呑む音がした。
親方は腕を組み、しばらく黙ってから言った。
「指名手配、ってやつか」
ナージャは小さくうなずいた。
「正確には――“王女ナージャ、反逆および外患誘致の容疑”」
その場の空気が、目に見えて重くなる。
「外患……?」
オルが思わず口にすると、ナージャは彼を見た。
その目は、これまでオルが見たどんな表情とも違っていた。
「私は、殺されかけたの」
淡々とした声だった。
「戴冠の直後、撃たれたあの瞬間……あれは、ただの暗殺未遂じゃない。
同盟を崩すための合図。戦争を始めるための“理由”よ」
オルの喉が鳴る。
「……じゃあ、ぼくたちは……」
「巻き込まれた、じゃない」
ナージャはきっぱりと言った。
「巻き込んでしまった。私が」
その言葉は、逃げ道を一切残さなかった。
「私が生きている限り、王都は私を利用する。
死ねば死んだで、殉教者として使われる。
どちらに転んでも、戦争は始まる」
彼女は拳を握りしめた。
「だから私は、亡命者になった。
王女としての地位を捨てて、国から追われて、それでも――」
そこで一度、言葉を切る。
「それでも、“原因”であることからは逃げられない」
親方が低く息を吐いた。
「……随分と、でかい荷物を背負ったな」
ナージャは苦笑した。
だが、ナージャの声は、もう震えていなかった。
「なら、私はこの身一つで運ぶ。
この戦争の“理由”を、終わらせるために」
彼女は甲板の縁に手を置き、夜明け前の空を見据えた。
「王女として生まれたことは選べなかった。
でも、王女として“どう終わるか”は選べる」
そして、吐き捨てるように言った。
「私が戦争の火種なら――
私が、その火を踏み消す」
オルの胸に、熱いものが込み上げた。
「……ぼくは」
言葉を探し、そして続ける。
「ぼくは、そんな大それたことは考えられません。
でも……逃げて運ぶだけの人生は、もう嫌です」
ナージャは、少し驚いたように彼を見る。
「なら、一緒に来なさい」
彼女は微笑んだ。
「答えが出なくてもいい。
迷っても、怖くてもいい。
それでも前に進むなら――それは、もう“選んだ”ってことよ」
オルは、ゆっくりとうなずいた。
夜明けの光が、雲の切れ間から差し込む。
王都はもう見えない。
あそこには、俺の知らない世界があって、
俺はそこから、何かを盗むように逃げてきた。
——違う。
僕は、運んだんだ。
物を運んでいたつもりだった。
荷札のついた箱、契約書、燃料、食糧。
でも、気づけば僕は、
誰かの秘密を、
誰かの選択を、
そして、戦争の理由を運ばされていた。
そのとき、ようやく分かった。
僕は、物を運んでいたんじゃない。
ずっと、人の覚悟を運ばされていたんだ。
ファスヴィント号の影が、空に長く伸びる。
その先にあるのが破滅か、終わりか、それとも――
まだ誰にも分からない。
だが、少なくとも彼らは知っていた。
この瞬間から、自分たちは
運ばれる側ではなく、運ぶ側になったのだと。




