10 夜道
広間を出た瞬間、空気が変わる。
灯火は一気に間引かれ、壁に反射していた光は役目を終えたかのように消え、石造りの回廊には靴音だけが残る。
背後で扉が閉じる音は重く、しかしそれを引き留める者はいない。
オルは深く息を吐き、初めて自分が晩餐会のあいだ、呼吸の深さを無意識に調整していたことに気づく。
胸の内に残るのは満腹感ではなく、言葉にされなかった視線と、触れられなかった距離の記憶だった。
外に出ると、夜風は冷たく、港の方角から潮の匂いが運ばれてくる。
空は高く、浮島の影が雲に溶け込み、昼間には見えなかった構造物の輪郭が、闇の中でかえってはっきりと浮かび上がっていた。
称賛の声は、もう聞こえない。
名を呼ばれることもない。
英雄という役割は、あの建物の内側に置いてきた。
歩きながら、オルは晩餐会の会話を反芻する。
誰も嘘はついていなかった。
誰も怒鳴りもしなかった。
それでも、自分が「使われた」ことだけは、はっきりと理解できてしまう。
街灯の縁に立つナージャを見た瞬間、オルはなぜか晩餐会の最後に供された甘味のことを思い出した。
味は覚えていない。
ただ、あれが「締め」として用意されていたことだけが、妙に印象に残っている。
「……無事に帰れそうか?」
オルがそう言うと、自分でも少し可笑しかった。
あの広間での称賛と、この夜道の冷え方を比べれば、その問いがいかに場違いかは明らかだったからだ。
ナージャは小さく息を吐き、わずかに口元を緩める。
「さっきまでなら、そう答えたと思うわ」
声は低く、しかし柔らかい。
晩餐会の中で使われていた声とは、まるで別の温度を持っている。
「英雄扱いは、慣れないでしょう?」
「慣れる気もない」
オルはそう返し、すぐに続ける。
「……正直、息が詰まった」
ナージャは一瞬、驚いたように眉を上げ、それからほんの短く笑う。
「皆、あなたを見ていたのに、誰もあなたを見ていなかった」
その言葉は批評というより、感想に近い。
オルは肩をすくめる。
「見られるのは、慣れてると思ってた。空の上じゃ、荷も船も、いつも誰かの視線の中にある」
「でも、今夜は違った?」
「ああ。視線が……値段を測ってる感じだった」
その言い方に、ナージャは思わず小さく笑い声を漏らす。
夜の静けさの中で、その音はひどく無防備に響いた。
「あなた、案外辛辣ね」
「そっちが、あまりに冷静だからだ」
一瞬、風が吹き抜ける。
外套の裾が触れ合いそうで、触れない距離で揺れる。
その間合いが、かえって意識を引き寄せる。
「でも」
ナージャは空を見上げる。
浮島の影が星を遮り、完全な夜にはならない空を。
「今日、あなたがそこにいたこと自体は、無意味じゃなかった」
オルは言葉を選びかけて、やめる。
代わりに、少し照れたように笑う。
「それなら、晩餐会の料理よりは、救いがある」
「料理はどうだった?」
「豪華だった。……味は、覚えてない」
「でしょうね」
二人の間に、ほんの一拍の沈黙が落ちる。
不思議と、居心地は悪くない。
今なら、世界がこのまま静かに続く気さえしてしまう。
だからこそ。
その静けさが、ふと「作られたもの」に変わった瞬間、二人は同時に気づく。
遠くで犬が吠えた。
街灯の光が不自然に遮られる。
風とは違う音。
砂利の踏まれる音。
人の気配。
笑いが、夜の底へ沈む。
ナージャの表情から、先ほどの柔らかさが消える。
オルもまた、体の重心をわずかに落とす。




