1. 垂直の街
空がまだ藍色の影を残している時間、オル・サレンは薄い毛布をはねて、硬い寝台から起き上がった。
目をこすりながら、船室の隅にある小さな真鍮のストーブに火を入れる。昨夜から仕込んでおいた紅茶の葉に、蒸気が触れてふわりと香りが立ち上った。棚からカップを一つ、金属のカチャリという音とともに取り出し、少しだけ冷ましたお茶を注ぐ。
その間、彼の視線は壁にかけられた一枚の写真に向かう。色褪せた焼き絵板――そこには笑顔の父と母、それにまだ幼い彼自身が写っていた。誰の顔も曇りがなく、浮島の初夏の光が背景に溢れていた。
「……行ってきます」
オルは短く言った。誰に聞かせるでもなく、小さく。だが、その声には癖のような敬意と、わずかな祈りが込められていた。
ストーブの火を落とし、オルは革の作業服を羽織って外へ出た。浮島の上層住宅地から空挺桟橋までは、金属の足場と回廊が網の目のように続いている。早朝の空気は大気の密度を濃く感じさせ、歩を進めるたびに肺が押し返されるようだった。
今日の配達先は第六鉱区を過ぎた軍接収区域――旧空中要塞跡の一部だ。最近になってそこへの物資の輸送量が増えており、浮島の労働者たちの間では「再稼働か」「軍が動くか」と憶測が飛び交っていた。
貨物飛行船《ファスヴィント号》の桟橋に着くと、親方のドゥン・ベローが既に到着していた。
「遅いぞ、オル。今日の風は下から巻き上げてる。積み荷が暴れたらひとたまりもねぇ」
「すみません、親方。紅茶を入れてました」
「茶か。貴族ぶった舌しやがって。……だが悪くない。覚悟の味ってやつだな。なにせ、こかっから王都を通って外縁国まで行くからなぁ。半年は帰ってこれねぇぞぉ。」
親方は肩を竦めながらも笑みを浮かべた。オルは微笑を返し、二人並んで揚昇索の足場に乗った。
重厚なエンジンが鳴り響き、船が上昇を始めようとしていた。朝霧に包まれた街並みが少しずつ遠のき、下層の露天街、広場、そして毒苔の繁る地表がほんの一瞬だけ垣間見えた。そこは、もう人の住む場所ではなかった。
「オル、お前もいずれ知ることになる。正しさってのは、状況によって変わる。だが、美徳ってのはな……」
親方の言葉はそこで止まり、代わりに一筋の煙草の煙が空に流れた。
船尾の方で慌ただしい足音が響いた。
「急報! 上層より高貴な乗客がお乗り込みです!」
船員が走る。乗客なんて珍しい。しかも「高貴な」ときた。
オルは荷台から顔を上げ、霧の中を静かに歩いてくるその人影を見た。
金糸の縫い取りが施された外套、半ば顔を隠すフード。だが、彼女の歩みには恐れもためらいもなかった。あれほど空に馴染んでいない格好でいながら。
――あんな服装で、どうしてこの空に。
飛行船の側舷に据えられた桟橋がギィと音を立てて下がり、制服姿の案内兵が乗客の到着を知らせに来た。
「おい、オル。上層からのお客様だ。俺が荷を見とくから、お前、船首へ出て乗船手伝ってこい。お辞儀は深めにな。口は開くな。なにせ“貴族様”だ」
「は、はいっ!」
オルは返事をしてから、すぐに首をすくめた。返事が大きすぎた気がする。親方の苦笑が背中に刺さる。
桟橋の方へ駆けていくと、視線の先に現れたのは一人の少女だった。重ねた外套の裾を手に持ち、フードで顔の半分を隠している。その歩みは揺らぎなく優雅で、しかし先ほどまでの恐れ知らずかのような雰囲気は飛んでゆき、どこか空気に不慣れな印象を漂わせていた。
オルは立ち止まり、敬意を込めて頭を下げた。
「ようこそ……乗船口はこちらです、お足元にお気をつけてください!」
声が裏返った。しまった、と心の中で叫びつつ、船体と桟橋の間にかけられた簡易の吊り橋に目をやる。風が吹けばきしむ不安定な通路に、彼女は一瞬だけ足を止めた。
そして、風が吹いた。
少女のフードがふわりと煽られ、視界に滑り込んだその横顔。
――え?
その瞬間、彼女の足がわずかに外れた。革靴の踵が鉄板の端を滑り、身体が傾ぐ。
「危ないっ!」
反射的に、オルの身体が動いた。風に逆らうように前へ飛び出し、細い手首を掴んだ。少女の身体がふらりと浮きかけ、手すりにぶつかった音が響いた。
「……っ、だ、大丈夫ですか!」
少女は短く息を呑んだが、やがて落ち着いたように小さく頷いた。だが、オルの視線はそのまま彼女の小さく整った顔に釘付けになっていた。
「……ありがとう。助かりました」
少女はそう言って、そっと手を引いた。微かな香油の香りがオルの鼻腔をかすめ、彼は我に返ったように身を引いた。
「い、いえ! あの……す、すぐご案内します! 船内へ!」
オルは慌てて姿勢を正し、半歩先を歩きながら船内の通路を指し示した。少女は無言でついてきたが、その背筋は崩れなかった。
親方が遠巻きにその様子を見ており、すれ違いざま、にやりと笑った。
「いい掴みだったな、オル」
「え? な、何がですか?」
「……いや、なんでもねぇさ。せいぜい、目を離すなよ」
オルは、親方の意図を測りかねたまま振り返った。少女はもうフードを被り直し、その表情を隠していた。
けれど――その目に宿る何かが、心に引っかかって離れなかった。
飛行船《ファスヴィント号》は、出航の合図とともに、空に向かって静かに浮かび上がった。
機関室でくぐもった蒸気音が鳴り、船体に張りめぐらされたケーブルが微かに震える。濃密な大気を掴むように、大きなガス袋と浮揚翼が開いていく。
「第一揚力、正常。高度、四百……五十、五十五……」
甲板員の声が飛ぶなか、オルは後方甲板の積荷の確認を終えたあと、思わず振り返った。
空が広い。浮島の外縁を離れたことで、どこまでも続く雲の絨毯と、空中に漂うほかの小島のシルエットが見渡せた。陽光が斜めに差し、帆布が金に輝いている。
その静寂の中、名乗りすらしなかった少女が、ひとり船首の欄干近くに立っていた。
彼女の外套の裾が風に揺れ、背筋はまっすぐだった。けれども、どこか置き場のない不安を押し込めているように見えた。
……話しかけるべきか。いや、でも、貴族ってやつだし。下手なことを言ったら怒られるかもしれない。親方に釘も刺されたし――
逡巡の末、オルは一歩だけ彼女に近づいた。
「……あの、風、強いので、手すりからあまり身を乗り出さないほうが……」
少女は少しだけ驚いたように振り向いた。その瞳は、空の色を映したように静かだった。
「……ありがとう。もう落ちるつもりはないわ」
冗談のように言った声はやわらかく、だがどこか影があった。
オルは慌てて頭を下げた。
「す、すみません。余計なことを……」
「そんなことないわ。……さっきは助けてくれて、本当にありがとう。あなた、乗組員なの?」
「え、あ、はい、いや……雑用というか、荷扱いとか、甲板の整理とか……」
「名前は?」
「オル・サレンです!」
言ったあと、声が大きすぎたと気づいて顔を赤くした。少女はくすりと笑った。
「オルさん。じゃあ、オル」
名前を呼ばれるのは久しぶりだった気がして、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「あなたは……? あ、いや、その、失礼でしたら……」
少女は一瞬、迷ったように視線を逸らし、雲のかなたを見つめた。
「……ナージャ、と名乗っておくわ。少なくとも、今はね」
今は――というその一言が、言葉以上の重みを持っていた。オルは、それ以上深く聞くのをためらった。
そのとき、船の前方にかすかな影が現れた。
「旧要塞跡、視界に入りました!」
船員の叫びに、甲板にいる者たちが一斉に目を向ける。
雲海の向こう、廃墟のような金属構造体が、空中に浮かんでいた。錆びた砲塔、むき出しの通気口、そしてその隙間を縫うように働く労働者たち。かつて大戦時代に築かれた浮島の防衛拠点。その無骨なシルエットが、朝の光の中で鋼の亡霊のように立ちはだかっていた。
オルの心のどこかで、言葉にならないざわめきが生まれはじめていた。
飛行船はゆっくりと下降を始めた。要塞跡の外縁に浮かぶ補給台地には、いくつもの係留用の浮杭が突き出ており、その一つにファスヴィント号が慎重に接続される。
着艦の合図とともに、甲板がきしむ。停船装置の金属音が止むと、すぐさま荷降ろしの準備が始まった。
「よし、オル。後部ハッチ開けろ! コンテナは4番、6番、それと人員輸送用の小箱が一つ。気ぃつけて運べ」
「了解です!」
オルは声を張って答え、甲板を駆けた。船倉の隅に置かれていた木箱には封蝋の印――連合防衛局のものが押されていた。
(これ、軍用か……でも、どうしてこんな旧施設に?)
軍事物資と思しき荷の中に、わずかに書類や生活資材が混ざっている。誰かがここで生活を始めるつもりだ――そう考えたとき、背後にふわりと人の気配が近づいた。
「あなたのおかげで、こうして無事に来られたわ。オル」
ナージャだった。
朝よりも少し落ち着いた表情で、それでもその瞳はまだ何かを遠ざけていた。
「い、いえ……あの、それほどのことじゃ……」
「謙虚ね。立派なことよ」
彼女は微かに笑みを浮かべた。けれど次の瞬間、真剣な面持ちでオルの目を見た。
「私のこと、誰にも話さないで。ここに来た理由も、名前も」
「……え?」
「お願い。これはあなたにしか頼めないことなの」
言葉が、風に溶けるように静かだった。
オルは戸惑いながらも、真剣に頷いた。
「わ、わかりました。言いません。絶対に」
その返事に、ナージャは一瞬だけほっとしたように目を細めた。
「ありがとう。……あなたって、嘘がつけない顔をしてるのね」
そのまま彼女は、兵士たちの待つ係留施設の方へと向かっていった。彼らに何かの証書を提示し、無言で頷かれると、そのまま要塞内部へと姿を消す。
(あの子……ほんとうに何者なんだ?)
気づけばオルは、その背中が見えなくなるまで目を離せずにいた。
それから約一時間、飛行船は荷を下ろし、点検を終えた。要塞の周囲には作業員や技師の姿が増えていた。補給台には鋼鉄の支柱や未組立の装甲板が積まれており、半分崩れた塔のような構造物の一部では、煙が立ち昇っていた。
親方が煙草をふかしながら言った。
「どう見ても、なんかきな臭せぇなぁ。廃墟の再生ってのは、いつもきな臭ぇ」
「でも、要塞って……もう使わないんじゃ……?」
「そうだといいな。だがなオル、軍ってのは、火を消すときにも火薬を持ってくるんだ」
オルはその言葉の意味をすぐには理解できなかった。ただ、空気がどこか張りつめていること、そしてその中心にナージャがいるということだけは、肌で感じ取っていた。
飛行船は静かに再び浮かび、次の目的地――浮島群の交易拠点フィルノート街へと針路を変えた。
空は青く、しかしその奥で、何かが静かに動き始めていた。
仮に地球のような惑星で猿の時代から歩んできた生き物が、大気密度の高い環境で文明を築いたら。そんな少しSFじみた話で紡がれる人の性というものを描いてみたいと思い執筆しました。是非感想やご意見ください