First ―meets―
人には、気付けない方向、場所、感覚等が在る。俗に言われる死角だ。
それは意図的に作ることも出来るが、それは非常に難しい。
何故ならば、それは各個人によって違い、尚且つ無意識の状態から意識的に行動させるだの、化物のすることだ。
だが、自然とそうなってしまう場合は仕方がない。
在る一瞬、ふとした拍子に入ってしまうことが在る。
それは無作為であり、偶然である。
――そしてそれは、建築物にも適用される。
高層ビルが幾つか立ち並び、幾つかのデパートがあり――そして、そこはあった。
構造物の狭間、少し薄暗いそこは、路地裏とも呼べない、しかし表とも呼べない微妙な場所だ。
シャッターのしまった店ばかりの中、一つだけ開いている店が在る。
店先に下ろされた看板には一言。英語が書かれている。
―Holiday―
休日という意味を持つ言葉の通り、店内に客の数は少なかった――。
店内は意外と綺麗であった。
恐らくは幾つも年月を重ねたであろう木造の調度品は、微かな光を受けて鈍い輝きを放つ。
外装をコンクリートで固められたにもかかわらず、木造の店内は行き届いた手入れと調度品自らの美しさも合間って見事な艶を纏い、カウンターと四つのテーブルのみという手狭な印象を覆して居心地の良さを作り上げている。
また、扉と反対側――突き当たりは前面ガラス張りで、一応、と言う言葉が付く程狭かったが、それでも街の様子を窺うことが出来た。
今は朝。通勤帯を過ぎた辺りで、行き歩く人々に一貫性は無い。様々だ。
カウンターの奥には一人、黙々と手元のコップを磨き続ける人のよさそうな笑顔のマスターが一人。
カウンター眼前の席には、黒のジャケットと黒のジーンズに身を包んだ男が一人。
他に客は誰も居なかった。
「――いいのか。他に誰も客が居ないんだが」
先に口を開いたのは、黒の男であった。
手元にあったコーヒーカップをカウンターに置き、鋭い目付きは変らないままにじろりと店主を睨みつける。
否、本人的にはただ見上げているだけなのだろうが、それでも鋭い眼光が相手を貫くのだ。恐ろしいとしか言いようがない。
しかしマスターは柔和な笑顔を絶やさず、苦笑へと変えながら、
「別に構いやしないよ。大体今は九時三十八分で、まだ開店前だしね」
そう言った店主の苦笑に陰りは無く、それが真実なのだと告げる。
そも、男の方もそれを判っていた様で、鼻で笑うと同時に手元のカップを口元へと傾けて話を打ち切る。
そしてそんな鷹揚な態度を見ても顔色一つ変えないマスター。それを当たり前として受け止める男。それはどこか長い付き合いを感じさせた。
そもそも、開店前だというのに男がここにいることがおかしい。しかし、双方共にそれを当たり前として過ごしている辺り、やはり長い付き合いだけでなく、深く良好な関係が在るのだろう。
飽く事も無く、店主は透明なコップを拭き、男はコーヒーを啜る。
窓から微かに零れ落ちる街の音を、静かなクラシックのBGMが打ち消して、それから幾数分。
唐突に店主が顔をコップから上げた。
その顔は微妙に呆けており、まさに今思い出した案件を探している様子であった。
「――ああ、そうそう。双侍くん。昨日は結局どうなったんだい?」
男――双侍は、鬱陶しい犬にでも付き纏われたかのような、苦々しい表情になる。
それは面倒だ、鬱陶しい、聞くな、という明確な意思表現であったが、店主はそれを容赦なく笑顔で潰す。
それを真っ向から受け止め、睨み付ける視線で対抗する男、双侍。
余裕を持った者と、元からやる気の無い者との差は言うまでも無い。
数秒後、睨みあいに負けたかの如く盛大な溜息をついたのは双侍であった。
「ただの人狼だ。直ぐ様に片付けてやったさ。ランクはB-程度。食うことに夢中で空っぽの頭にたらふく銀の弾丸を詰め込んでやったさ。俺が梃子摺る様なモンでもないし、ましてや油断でするような相手でもない。俺が即座に殺して後始末もきちんとやったさ。万事解決で今日も平和なんだ。ああ、それだけだ」
滑るような流れで滑り出たのは皮肉のオンパレード。
昨晩の退魔の仕事が余程面倒だったのだろうか。その口数は勢いも激しく、店主が口を挟めない程であった。
一度鼻を鳴らしてコーヒーをまたもや啜り始める双侍。
しかしそんな男を見て、先程口を挟めなかった、――否、挟まなかった店主は、うんうんと頷きを併せて、
「そうだねぇ、B++が負ける筈も無いし、ましてや君だったらそんなモノに負けるはずが無いと僕は信頼してるよ? ――でもね? 双侍くん」
びくり、と。男の肩が跳ねた。
それを見た店主は維持の悪い笑みを浮かべつつ、
「僕が聞きたいのは、昨日助けた女子高生をどうしたかって話なんだよ? ああ、勿論君が未成年に手を出さないのは知ってるとも。だけどね、記憶操作の能力者にも連絡を取らず、ましてやそういったチカラも技術も無い君がどうやって彼女の記憶を弄ったのかが知りたくてね?」
にこやかな笑顔が眼前へと迫る。
それに斥力を受けたかのように、鈍い音が立ちそうなほど緩慢な動きでそっぽを向き始める男。
しかしそれを許すような店主ではない。その柔和な笑顔と温厚さが漂う外見からは想像もつかない程の万力を持った手を男の手へと差し向け――
「――さあ、言わないと痛い目を見るんじゃないかな――?」
「ああ、判った判った、言う、言うからその物騒な手を引っ込めろ。じゃなきゃ即座に圧し折ってやる」
おやおやとでも言いたげに手を引っ込め、ワザとらしく肩をすくめる店主。それに腹が立つのか冷ややかな視線を向ける男。
何時ものことであるらしく、この男は店主には勝てないらしい。
舌打ちを一つ。忌々しげにカップの中のコーヒーを一煽りする。
ガン!、と音がするまでに打ち付けられたカウンターは微かに凹んでいる。
「――もし又、『魔』にでも遭ったら面倒だからな、その日は家まで届けて、その後にまた何か在ったら此処へ来るように伝えておいた」
「……あのね、此処は保育所でもなければ警察署でもないんだよ? 普通なら一般人はお断りなんだけど?」
「店も繁盛して秘匿も出来る。一石二鳥だろうが」
盛大な溜息は店主のこれまでの気苦労を表しているようであった。
しかし気にせずにコーヒーを飲む男。気にはしているものの謝りの一つさえ出さないことからいつものことだと言うことが窺える。
尤も、店主にとっては頭の痛い限りらしいが。
「何の為に此処に店を作ったと……態々(わざわざ)人の無意識に入る物件を買ったって言うのに……元々此処は退魔士専用で……」
「諦めろ」
店主の愚痴を一刀両断する声が、妙に大きく聞こえたのは気の所為では在るまい。
それを切欠に大きく店主が肩を落とすが、男は全く気にせず、寧ろ何時もの事である、とでも言いたげに鷹揚な態度のままにコーヒーを啜る。
「大体、目覚めかけてる奴何ざこの時世、掃いて捨てる程居るんだ。静かな店を開きたいってんならこんな地方都市に開くんじゃなく、何処ぞの田舎にでも開けば良かったんだよ。それをお前はこんな不確定要素万藩で、何時何処で能力者が目覚めるとも限らない所で開いちまった。だから諦めろ、諦めるしかねぇんだ」
それは一応彼の良心から来る慰めであったか。
言葉の勢いは以前の如く捲し立てる勢いは無く、何処か労る雰囲気が在った。
-―が、実質的にそれが最後の一撃となった様で、店主がへなへなと崩れ落ちる。カウンターに落ちた禿頭がゴンと良い音を立てる。
男は軽い溜息を一つ。何時もの事だ。毎日こんな無意味な会話を繰り広げる。
相変わらずコーヒーは上手いし、この店主は仕事もこなす。今は現役を退いているとは言え、それ故に過去の経験を生かした後方支援は上々だ。今まで経験した中で一番やりやすかったと言ってやっても良い。
だが、どうにも性格が弱い。否、弱いのではなく、後悔をしやすい、と言えば良いのか。
何かと自分の行動を責められると愚痴が始まり、気力が抜け、しかし直ぐに復活すると言う良く判らん男では在る。
だが、いい加減に四十をとうに越えた男としてそれはどうなのかとも思う。特に情けない声とかその他諸々。言っても効果は無いが。
軽い溜息一つ。コーヒーを啜ろうと傾けても中身が来ない。何故だと思えば中身は既に空となっていた。
無言でコップを突き出す。禿頭にゴンとぶつかるが気にしない。これくらいで喚く様な浅い付き合いでもないのでそのまま放置しておく。
――ガランガラン、と、来客を告げるベルが、騒々しく店内に響いた。
ピタリと、動きを停止する男二人。
先に動いたのは――店主であった。
ギギギ、と鈍い擬音が聞こえて来そうな程凝り固まった動きではあったが、何とか姿勢を正し、引きつった笑みを浮かべながら、
「い、いらっしゃい」
言うのはそれだけか、と突っ込みを入れてはならない。入れれば即座に崩れるからだ。
眼だけを動かして入り口を見る。
そこに居たのは、セーターを着込み、しかし下はミニスカートという男からは良く分からん服装をしている女子であり、その顔には見覚えがあった。
――昨日助けた奴か。
それを確信した直後、カウンターの椅子から滑り落ちた。
完全に脱力している為、受身を取る事も、意識的に身体を動かすことも出来ない。
無意識に体が必要最低限のダメージにしようとして身体を捻り、
――ガゴン、と。
目の前に星が散った。
「ひぇっ? あ、あの、ちょ、だ、大丈夫ですか!?」
「……ッ、気にするな……」
頭を抑えて立つ。顔を顰める程度には効いた。
やせ我慢では在るが、少女の手を借りるとなると流石にちっぽけな矜持が許しはしない。
カウンター前の席に座り、顔を上げると――またもや滑り落ちそうになる。
「あ、あの、本当に大丈夫ですか……?」
目の前に少女が居た。
大きく開いた眼は心配そうに此方を見ていて、差し出そうと迷っている右手はおろおろと頼りなく中空を彷徨う。
少しだけ屈んだ背はそれ程大きくは無く、大きく見積もっても160cm強といったところ。
だが、それでも無駄に胴が短く、椅子に座っている自分とならば同じ程度の丈になる。
少し身を引いてから口を開く。
「気にするなと言っただろう。餓鬼に心配されるほど弱くはない」
そう言うと眉根を詰める少女。どうやら余り受けは良くなかったらしい。
はぁ、と言う溜息が聞こえた。ちろりと眼だけ動かして右上を見る。
禿げた頭に手を当てて大きな嘆息を出したのは店主だった。何か文句でも在るのかお前は。
苦笑するような笑顔と共に、店主は少女を隣の席へと進める。
「ごめんね、ソイツ会話をすれば必ず一つは皮肉が出るんだ。しかも無自覚に。馬鹿だから許してやってくれないかな? ほら、お店のメニュー好きに頼んでいいから」
「へっ? あ、いや、そ、それは別に気にして無いですっ! そ、そうじゃなくて、あの、あの……っ!」
まあまあ、と慌てて両手をわたわたさせる少女を強引に右隣の席に座らせる。
少女は何秒か慌てていたが、此方を見ると一瞬停止し、直後に赤面して俯いて黙り込んだ。
何か自分に在るのだろうか、とも思うが、大したことでは在るまいと思い無視。
直後に目の前にコップが置かれた。何時ものコーヒーである。
見れば、少女の前にも一つコップが置かれている。
それを飲んで良いのか迷っているのか、少女は笑顔の店主とコップを何度も見ている。相も変らず店主は微笑むばかりだが。
「飲んでも良いって事だ。そこのニヤケ面は人に施すのが大好きな世話焼きでな、無償の奉仕が楽しくて仕方が無いんだ。判ったら飲んでやれ、ソッチの方がそこのハゲも喜ぶだろうさ」
一瞬だけ呆けた少女だが、直後に噴出す。
肩を震わせて笑うその光景は実に微笑ましい。
ハゲと呼称された店主は、事実であるが故に否定できず、微妙な表情と共に此方を見ている。
鼻を鳴らして無視。そのままコーヒーを飲む。
肩を震わせて笑っていた少女だが、どうやら納まったらしい。そのままコップを持ち上げ、遠慮がちに少しずつ飲む。
その様子がどうにも子供っぽく、微笑ましい。
一時だけの静寂。それを破ったのは店主であった。
「いやあ、にしても珍しいね。キミ、一体どうやって此処に?」
「へ? あ、いや、あの、昨日貰った紙に此処が書いてあって……」
「……へぇ?」
「ほう、それは良かったな」
したり笑顔で見てやる。店主の顔は引きつっているが、知ったことではない。
それからしばし睨み合いが続いたが、店主が諦めたのか溜息をついた。よし。
そのままコーヒーを啜ろうとして――固まった。
少女は何故か此方を見ており、その大きな瞳は完全に此方を見ており、俯き加減な為やや見上げられている。
迷いが在るのか、少女は瞳を微かにぶれさせながら、
「あの……助けて、くれませんか……?」
「は?」
面倒事だと、しかし断れない力強さで、少女はそんな事を言ったのであった。