街の片隅の本屋さん。あるときに店番の仕事をさせて欲しいと老人がやってきた。 何故か給金はいらないと言う。
あその日も私は暇で、いつものように店の本を開いて読んでいた。
街外れにある私の店は、祖父の代から続く本屋である。一見して古本屋だと思われそうな店構えであるが、ちゃんと新刊も取り扱う本屋である。私が疎いため、流行りのものはあまり置いていないが……。
人気のある週刊誌などは、漫画のものも含めて店先に揃えてある。近所の人が学校や仕事の帰りに立ち寄っていつも買っていってくれるからだ。しかしコンビニエンスストアにも同じ雑誌は置いてあり、そちらで立ち読みで済ませる人も多いようだ。うちは立ち読みはお断りしている。
ベストセラーの単行本などは、皆さん大型書店などで購入してらっしゃるようだ。どうせ私の店には置いていないだろうと思われるのか、一般書籍コーナーに足を運ばれるお客さんはほとんどいらっしゃらない。いや、お客さんじだいがめっきり少なくなった。最近はインターネットも巨大な商売敵となっている。
このあたりは昔は古本屋が立ち並ぶ『古書の街』だった。今ではすっかり寂れ、残ったのは古書だけでなく新刊も取り扱う、うちの店ただ一軒だけ。シャッターを下ろした建物の中で唯一まだ灯りを点けている。
オレンジ色のテント屋根も古くなった。春の陽射しをぼんやりと透かしてまだらな光を店内に散りばめるテント屋根を眺めながら、思わず呟いてしまう。
「そろそろ……この店も終わりかな」
息子は店を継がずに都会へ出ていった。それでいいと私も思う。
私と一緒に、この店も世から消えていくのだろう。
仕方がない。これが世の流れだ。
新刊の書籍や雑誌は売れなかったら返品できるので、汚すわけにいかない。私はいつも古本コーナーから一冊選び、それを開いて暇な時間を埋める。
お客さんはやって来ない。その日はエマニュール・カント著『純粋理性批判』の翻訳本を開いて、意味のとれない活字を追っていたら、春の陽気のせいもあり、眠たくなった。
「ごめんください」
すぐ近くから声をかけられ、はっと顔をあげた。
いつの間にか店内に一人の老人が入って来ており、柔和な笑顔で私を見つめていた。うとうとしていたところを見られたことを照れ笑いでごまかしながら、「いらっしゃいませ」と私は口を開いた。「何か本をお探しでしょうか?」と聞くと、老人は人懐っこい笑顔とともに切り出したのだった。
「じつはね、ここで店番の仕事をさせてほしいんですよ」
何かの冗談だろうかと思った。あるいは失礼ながら恍惚とされてらっしゃるのだろうか、と。見た目85歳ぐらいの爺様だ。私の父も生きていれば同い年ぐらいだろう。「見ての通り、暇で猫の手も必要ないぐらいですよ。お給金を出す余裕もありません」と返すと、老人は笑顔に少し恥ずかしそうな色を浮かべた。
「いえ、お給金はいらないんです。あなた、『景山冬さんでしょ? 『本屋のひとりごと』の作者の』」
「な、なぜそれを……」
私は小説投稿サイト『小説家になりお』で連載小説をもっていた。本屋の主人公のおっさん『狗狗』が本屋としての知識を駆使して難事件を解決していく推理モノだ。とても有り難いことに多くの方々から人気を博し、そろそろ書籍化の打診が来る頃ではないかとの噂さえ出ていた。とはいえもちろん、今はまだ、ただの素人作家であるのだが……。
「ふふ……。わし、読み専をやってるんですけどね。あなた、N県に住んでいると、この前投稿されたエッセイに書いてらっしゃいましたよね?」
老人は、まるで私の小説に出てくる探偵のように、言った。
「じつはN県にはもう、個人経営の本屋はお宅しかないんですよ」
「なるほど素晴らしい推理力ですね」と私が褒めると、「だってわし、ファンじゃから」と老人は頬を赤くした。「わしが店を見てるから、先生には小説の続きを書いてほしいんです」という老人の話に、なるほどと私は納得した。正直、執筆に充てる時間がなくて困っているなんてことはなかったが、集中できるのは有り難く、どうやら暇を持て余してらっしゃるらしい彼の好意を受け入れることにした。
昼間も私は執筆に専念できるようになった。
私の人生はあと何年だろうか。長くてもおそらく40年はない。それまでに、うちの店に自分の本を仕入れ、平積みにして店頭に置き、自分の書いたものであることを宣伝するのが私の夢であった。その夢は着実に近づいて来ている。
ふと店番をしてくれている老人を見ると、じっと店先の通りを眺めていた。懐かしそうな目をして、人通りのない歩道を見ながら、賑やかな人の川がそこを流れるのを見るように、目を左右に動かしている。
「源さん。お茶にしましょう」
私は台所へ老人を招こうとした。しかし彼は首をゆっくりと横に振り、「ここがいいんですよ」とレジの前を動こうとしない。仕方なく私がカウンターの中へ緑茶と羊羹を持って入ると、懐かしそうに老人は話しはじめた。
「あなたのご両親とはね、同級生だったんですよ。同じ文芸部の仲間同士で、じつをいいますと……わし、あなたのお母さんの定子さんに惚れちょった。でもね、想いを伝えることも出来んまま、彼女はあなたのお父さんと結婚し、ここで毎日座って店番をするようになった」
老人はそこで言葉を切って、また懐かしそうな目をして表通りを眺めた。「そうだったんですか」という私の言葉も聞こえていないように、背筋を伸ばしてまっすぐ前を見ながら、ひとりごとのようにまた話を続けた。
「毎日毎日、定子さんはここに座っちょられました。内職の折り紙をしながら、毛糸の編み物をしながら、幼いあなたを抱いてあやしながら。わしはいつも会社の行き帰りにこの前を通って、それを見ていました。自分に家族が出来、自営業を始めるまでのあいだ、ずっとこの前を通って、ここに座っちょられる定子さんのことを見ていました。あの頃はここを通る人間も多く、本屋にも活気があって、定子さんも幸せそうでした」
源さんの話を聞きながら、私も母のことを思い出していた。
優しくもあり、またとても厳しくもあった母のことを。私が友達との遊びに夢中になり、帰るのが遅くなっただけでこっぴどく叱られた。昔から自由な気質であった私はそれに反抗し、言い返して泣かせてしまったこともある。愛されていたと気づいたのは失ってからだった。10年前、心臓病で天国に逝ってしまった母に、会えるものなら会いたいと、今は心から思っている。無償の愛など母の他にはくれる人はいなかったのだ。
「自分がこの世から消える前に、ここに座ってみたかったんです」
老人は懐かしそうな目をして、言った。
「定子さんが見ておられた景色を、この店の前を毎日通っちょったあの頃の自分自身を、ここに座って見てみたかった。それで何がどうなるわけではなくても、ね」
「なるほど。それで……」
老人が店番の仕事をしたいと申し出てきたほんとうの理由がわかった気がした。
「いや、もちろん、先生の執筆の助けになりたいという気持ちもほんとうなんですけどね」
言い訳をするように、源さんは笑った。
「どうか、このお店に、先生の本を並べてください。新しいもので、歴史あるこのお店を彩ってくださいよ、お願いします」
老人の笑顔には無数の皺が寄っていた。過去を物語る深いそれは春の空気の中であかるかった。彼の目は懐かしい昔を見ながら、同時に未来への期待にも溢れていた。
自分がくたばるのが先か、店が潰れるのが先か──などと思っていた私は、源さんに勇気をもらった気がしていた。時は動いている。私の人生は残り少なく、店の未来も暗い。しかし未来に期待を寄せている、この老人に負けてはいけないではないか。
「きっと叶えます」
源さんと並んで緑茶を啜りながら、青年のように私は心にけっして小さくない火を灯した。
私の本が店に並んでも、それを喜ばせたい母はもう、この世にいない。しかしこの老人が母の代わりに喜んでくれるだろう。この店がもし潰れたら一緒に悲しんでくれるだろう。何よりもし店がなくなったとしても、私と源さんにはあの場所があった。
「しかし……楽しいですよね、『小説家になりお』」
源さんが、緑茶を啜りながら、私の思うことと同じことを言った。
「まるで定子さんたちと一緒の文芸部で、書いた作品を見せ合っていた、あの頃を思い出すようです」
時代とともに、私たちは生きている。
世の何が変わろうとも、自分にそれを変えることは出来ない。ならば、行くのだ。自分が、新しい場所へ。