夕べの鳥葬
同人誌に掲載した小説。テーマを料理しきれず。
いつか再挑戦したい作品です。
夕べの鳥葬
駒田 窮
「周りが騒がしいと無性に寂しくなるんです。だから私、ずっと東京が嫌いで」
寝そべったまま、シーツで胸元の汗を拭う。
埃のこびりついた天井。黄ばんだ壁紙。すえた部屋のにおい。ブラインドのルーバーからこぼれた陽射しが、おなかの上に横縞を作る。いつの間にか朝になっていたのだ、とうつらうつらした意識の中で私は思った。遠くでばたばたと騒がしく床の上を走る音が聞こえる。店子の誰かが出勤か通学で焦っているのだろう――。
「それで京都?」
ジッポーライターの金属音が頭上で幾度か繰り返される。私は頭上を見上げて「はい」と短く応えた。
ベッドに腰掛けた律子さんの姿は疲れ切ったように見える。
皺の刻まれた目元。深爪気味の右手。肉を少しずつナイフでこそげ落としたような、枯れ木のような指。はげた赤いマニキュア。たばこに同じ色の火がともる。
「妙な選択やな。独りになるには騒がしいで、この辺は。観光客もわんさか」
「本当の独りは嫌だったんです」
ふぅん、と考え込んだ様子で律子さんは呟いた。やがてふさわしい言葉を見つけたようにこう言った。
「ほんまに独りぼっちは嫌やけど、好きでもない相手に囲まれていると余計に息苦しゅうて寂しいな。そういう感じやな」
わがままな悩み、と律子さんは私の髪の毛を手で梳く。私は律子さんの痩せた太股に頭をすりつけた。
「それに、それまで行ったことのある外の世界って、ここしかなかったんです」
「修学旅行?」
「はい」
煙と一緒に呟いた「かわいい」という言葉に嫌みは感じなかった。されるがまま、頬を撫でられた。頬骨のあたりから輪郭をなぞって、顎に滑り、鎖骨へと落ちていく。
「あんた、あたしが男やなくてよかったで。寂しい子を見つけるのが得意な男なんて、ろくなもんやなし」
律子さんの口から紡がれた言葉は、クラクラするほどメンソールの臭いがする。
「たばこ、だめでしょう」
彼女の手元を包むようにして奪う。真似をして吸ってみる。すぐに咳き込む。
「だめなのはお互い様や。あんたの方は法律ひっかかるで」
それもそうですねと苦笑しながら、そうだ、確かに律子さんでよかったのだと胸の中で繰り返す。母親が赤ん坊の頬にする口づけと、男が恋人の首元にするキスの、そのちょうど中間の愛撫を乳房に受ける。ちょっと息苦しくなって小さく息をもらす。
※※※
夕暮れの清水五条駅前で、捨て猫のように律子さんに拾われたのは、二週間前のことだ。ぼろぼろのスニーカーにすりきれたパーカー、丈の短くなったデニム、新しく作った通帳と印鑑を放り込んだだけのリュックサック。右手に持ったビニール袋の中には、近くのドラッグストアで買った生理用ナプキン。
それが私の持っていた物の全てだった。
私はその日行くあてもなく、エスカレーターからまばらに吐き出される人々を眺めていた。ずいぶん長い時間佇んでいたと思う。みすぼらしい身なりの私に、話しかけてくる人はいなかった。学生らしい若い男の子たちがふと興味深そうにこちら一瞥して、こっちにその気がないと察したか、何もなかったように雑談に戻り、去っていってしまう。ガードレールに腰掛けていたお尻が痛くなってくる。そして、お腹も。
「あんた、朝もここにいた子?」
ふり仰ぐと、頬のこけた中年の女の人が私をのぞき込んでいた。初夏の夕方に不釣り合いな黒のニット帽。すぐに脱ぎ着できるような、ゆったりしたワンピース。佇んだ姿は、汗の一滴もなく仄かに青白く見える。肌の色が悪いせいだとすぐに気づく。落ちくぼんだ眼の周りを、薄く隈が縁取っている。
「もうすぐ会社勤めの人らがわっとこの辺埋め尽くすで。ありんこみたいに」
屈託のない笑顔で指をせわしなく動かす姿に、自分の中の警戒心がじわりと溶けていくのを感じた。とにかくお腹が空いていて、前日歩き通しだったせいで足 が重くてたまらなかった。見上げた私のまなざしにも、疲労が滲んでいたに違いない。
律子さんは――まだその名前も知らなかったけれど――しばらく私の様子を伺うように見つめた後、私が座っていたガードレールに同じく腰掛けた。
「行くとこないんか。家出やろあんた」
「......」
「おばちゃんとこ来る? アパート。大家やってんの」
ああ、警察に突き出したりなんかせえへん からね、と急いで付け加えて取り繕う姿を見て、この人にすがってみようと思った。私は幼い子どもがそうするように、ただ黙って頷いた。何かを説明しなくては、せめて名前を名乗ろうと考えたが、言葉が喉で詰まった。つんと鼻先が痛み、視界が涙でゆがんだ。彼女のすり切れたワンピースの裾を引っ張って、たぐり寄せて、私は人目もはばからず大声で泣きじゃくった。
「律子って呼んでな、堅苦しいのはなしな」
彼女は私の肩に手を回して、何度もなだめるように軽く叩いた。その袋、ナプキン?と聞かれて素直にうなずく。じゃあなおさら大事にせな。家に着いたらおばちゃんの分、あげるよ。
「あたしは薬で止まってるから。いくらでも持ってき」
さっぱりした口調の中に、すとんと重荷を降ろしたような諦念を感じたのは、たぶん気のせいじゃないと思う。
手を引かれるがまま、清水山方面へと歩いていった。古びた家屋が建ち並ぶ茶わん坂を、私たちは息が切れないようにゆっくりとのぼっていった。バックパックを背負った若い外国人のカップルが、ぎょっとした顔をして私たちを避けたが、律子さんには気にするそぶりすらなかった。
彼女のアパートにつく頃には、私の気持ちもだいぶ落ち着いていた。飲み込んだ鼻水で少し気分が悪くなったのと、お腹が痛い。それくらい。
そのアパートは木造の二階建てで、そのあたりの景色にすっかり馴染んでいた。階段だけは金属製で、ささくれだった白い塗料がちくちく手のひらに刺さる。自宅は二階の一番奥まった場所にある、日当たりの悪そうな部屋だった。
「隣にでっかいマンションできてな、ここだけ入居者がなかなか決まらんの。せやから自分でつこうとんの」
鍵を開けたドアを、半ば蹴るようにして開いた。むっとした空気の淀みと一緒に、どこかで嗅いだことのある刺激臭が漂ってくる。律子さんの肩越しに部屋をのぞくと、その原因がすぐにわかった。部屋の中央に、油絵の描かれた大きなキャンバス。薄暗いワンルームの部屋には、わずかな調度品がおいてあるだけで、床面積の大半を占めているのは洗濯物やゴミ袋の類だった。
「うわ、ごめんな。換気してなかったわ」
ちょっと待ってな、と窓を全開にしてから、散らばっていたものを洗濯かごの中に無造作に放る。その間、家の中に上がらせてもらった私は、絵の前に立ち尽していた。
美術には詳しくない。だから、律子さんの描いた絵が技術的にどう評価されるのか、私にはまるでわからない。
玄関から部屋の中に向けて広角レンズで写真を撮ったような、歪な遠近感の構図だった。部屋の中には裸の女性が、腹のあたりで腕を組み、自分自身を抱くようにして仰向けに横たわっている。彼女は若くはない。骨ばった体型に、頬骨の目立つ輪郭。胸は垂れている。窓辺には一羽カラスが止まっていて、部屋の中にいる彼女をじっと見つめている。色調は全体的に暗めだ。日没前後だろうか。
部屋も人物も、モデルが何であるかはすぐにわかった。
「どう思う?」
律子さんはいつの間にか私の背後に立っていた。少し息切れをしていた。
「なんだか、寂しそうだと思いました」
「まぁ、楽しくはないやろな」
「画家をされているんですか?」
「んー、アマやけどね」
照れくさそうに言ってから、「時々知り合いの個展とかにちょっかい出してるくらいよ。それもお金はこっちが払うてんの。参加料で」と矢継ぎ早に続けた。タオルやシャツを手で伸ばして、雑に畳み、タンスに押し込む。私も手伝おうとひざをついてあたりの洗濯物を拾い始める。
「すごく素敵だと思います。タイトルとか決めているんですか?」
「まぁな。――な、そんな手伝いせえへんでいい 。休み。お茶入れるから。喉かわいたやろ?」
律子さんは私の手から洗濯物を引ったくると、そのままかごの中に放り込んでしまう。私の視線を避けるようにキッチンスペースに移動し、やかんに水道水を入れながら、
「『夕べの鳥葬』いうねん」
と唐突に言った。それが絵のタイトルであることに気づくまで、いくらか時間を要した。律子さんは黙ったまま、コンロの火をつけた。私の質問を待っているようだった。
「ちょうそう、ですか?」
「そう。昔この辺は埋葬の習慣がなくてな、死んだ人らはみーんな、鳥の餌にしてたんやって。だからな、鳥辺野っていうんやでこの清水のあたりは」
私はその光景を思い浮かべる。大小の折り重なる骸。黒い羽があたりに舞い散っている。飛んできた大きなカラスが遺体の腹の上に降りて――
ひゅーっとやかんが甲高く口笛を吹いた。
「あたしもそうなりたいんよ」
急須にお湯を注ぎながら、律子さんは続けた。
「死んだら、誰かに食われたい。そんで、その人の一部になりたい」
お茶うけを適当に見繕いながら、彼女は静かにそう言う。そして、小さく乾いた咳をする。
私は本棚に並んでいる難しそうな美術書の中に、いくつか違和感のあるタイトルが混じっていることに気づく。家庭の医学、終末医療、末期ガンを宣告された患者たちの体験録。
「なあ、あんた。食ってくれる、あたしのこと」
※※※
ウチは普通じゃない。
そうはっきり自覚したのは、高校を卒業してすぐ。地元の行政書士事務所に就職した4月 のことだった。
初任給がほとんど口座から抜き取られていた。小さい頃から使っている口座。暗証番号を設定したのは母だった。
夕食後に静かに問いただすと、母は悪びれもせずに言った。確かに少しもらったけど、それが何?
「ここまで育てたんだから、後は楽させてよ」
しばらくすると、毎日知らない男が居間にいつくようになった。風采の上がらない中年の男。彼は私を見ると決まってこう聞いてきた。
「若いねぇ。いくつ? こっちきて話そう」
目の底に白く濁った欲望が漂っていた。絡まってくる視線がいやで、私は夜になると家を出て、駅前をぶらぶらするようになった。帰りたくない。商業施設の中でウィンドウショッピングするふりをして、時間をつぶした。それもやり尽くすと、改札口に行って路線図を眺めた。
ここから一番遠い駅。どこかにある私の居場所。どこにあるのだろう?
その日、退職届も出さず、着の身着のまま私は家出をした。路線図に乗っている一番端の駅を目指して。それを何度も繰り返しているうちに、自分がどこに行こうとしているのか、だんだんわかってきた。唯一知っている「外の世界」。修学旅行で行った京都だった。いい思い出なんて何にもないのに。
新幹線で行けばよかったが、なんだか気乗りしなくて在来線を乗り継いでいった。そしてぎりぎり引き出せたわずかばかりのお金も尽きた。携帯を解約して端末を売った。五千円ほどにしかならなかった。カプセルホテルに二泊して消えた。
どうしようか。職歴もない。住所もない。一八 の女ができることはそう多くない。でも、たぶん駅前で立っていれば、どうにかなる。そうだ、どうにでもなってしまえばいい――。
「泣いてんの」
まなじりをそっとなぞられた。
目を開けると、律子さんの肩越しにぼやけた車窓。何度か瞬きすると、焦点があってくる。個人商店、低い街路樹。外国人と学生。ゆったりと町並みが流れていく。平日の午後、市バスの中の客は少ない。
私たちは後方の二人乗り座席に並んで座っていた。いつの間にか眠ってしまったようで、私は律子さんの肩にもたれかかっていた。
「いや なこと思い出した? 色々聞かれたもんな」
くすぐるような声で耳打ちされる。
「これで縁が切れて、せいせいしました」
パーカーの袖で残った涙をごしごし拭って、そう言った。
午前中、私は律子さんの付き添いで市役所に行っていた。
DV 等支援措置という行政制度を使い、住民基本台帳に閲覧制限をかけた。名目上は「親戚」である律子さんのアパートに入居し、運営の手伝いをしていることになっている。それで身元がはっきりしたため、対応もスムーズだった。もう親に居場所を突き止められることはない。
私は自由だった。誰にも縛られることはない。どこにでも行っていい。渡り鳥みたいに。
「強気やね」
血色の悪い顔に笑みを浮かべて、律子さんが言った。答える代わりにもう一度肩によりかかった。バスのかすかな揺れと、安物のボディソープの香りが心地よかった。このままいつまでも止まらなければいいのに。ずっと走ってくれればいいのに......。
だけど市バスはビーッと不愉快なブザー音を響かせながら、停止してしまう。乗客のいくらかが吐き出され、足の悪いおばあちゃんが一人、杖をついて乗ってくる。髪を紫に染めた上品そうな人。上手に歳を重ねた人。
「あら、りっちゃんやないの」
彼女は律子さんに向かって大きく手を振った。律子さんは蜜蝋に浸したような笑顔をべったり貼り付けて、私の見知らぬ人になる。
「あっ、サチエさん。お久しぶりね。この間の病院以来ねぇ」
「この間ってあんた、あれ三年も前よ」
おばあちゃんは私たちの一つ前の席に腰掛けた。そちらはお孫さん ? と無邪気に聞いてくる皺深い顔に、私は冷ややかな感情を覚える。会釈をして俯く。姪っ子よ、と律子さんが何でもないことのように答える。
「姪っ子さんか。とにかく若いのはええことや。歳取ると病気ばかりでかなわんわ。残りの寿命あげたいよ」
「まったくよー 」
律子さんが軽い調子で合の手を入れる。あたしなんかは死ぬのを待ってるだけやしな、と耳障りに笑う。
「あの人誰だっけ 、最近名前がねぇ」とときどき言葉に詰まりながら、おばあちゃんは近所の人の噂話をする。宮内さんの家の息子さんね、東大に受かったんだってね。大橋さんちの旦那さんがね......。うんうん、と律子さんが相槌を打つ。
「ああ、そうそう。最近、絵は描いとんの。ほら、上手やったやない、りっちゃん」
「さぁねぇ。最近は描いて残しておきたいものなんてないから」
「まぁお互いこの歳じゃあねえ 。それにゲイジュツなんて、情熱がないとねぇ、できんでしょう」
「そうそう。もう色々枯れちゃって ねぇ」
イヤだわ 、と二人とも笑いあう。
嘘だ、と思う。律子さんの「枯れた」体の中に、どれだけ熱が渦巻いているか私は知っている。律子さんは「サチエさん」に話をあわせるために、嘘ばかりをつく。「姪っ子」の成長だけが楽しみなのよ 。この子東京の大学行きたいんですって 。
大嘘だ。
「いいわねぇ 。若い子は未来があるわね 」
私は俯いたまま、律子さんの膝に手を置く。
未来なんてどうでもいい。私は私の意思で、律子さんを止まり木に選んだ。律子さんの果肉を全て自分のものにしたいと心底願った。
太股の間に手を滑らせる。一瞬律子さんの体がこわばる。隣の彼女はちらりとこちらを見た気がしたけど、何事もなかったかのように、「サチエさん」と話を続ける。
私は愛撫を続ける。律子さんの熱がじんわり指先を通じて伝わってくる。律子さんは湿った咳をして少しみじろぎをする 。
ほら見てよ。この人は枯れてなんかいないんだよ、「サチエさん」。こんなに熱くて瑞々しい。あなたにはわからないだろうけれど。
自分は一体なにをしているんだろうという困惑と、優越感が交互にやってくる。私だけが知っている。絵のことも。この熱気のことも。やめる気はしない。
「ああ、次だわ。降りんと」
「サチエさん」が焦ったようにブザーを押すと、律子さんは安心したようにふっと息をついた。
「手伝うわ。足悪いでしょう」
律子さんは、席を立って「サチエ」さん を甲斐甲斐しく介助する。肩を貸し、腰に手を回す。タラップを降りる姿を見届ける。ブーッと出発のブザーが鳴る。「サチエさん」が律子さんに向き直ってありがとう 、と会釈した。
そのときだった。
「ね、サチエさん。あたし、嘘ついちゃった。あの子、姪っ子ちゃうねん」
律子さんがいきなり、そう切り出したのだ。ドアが閉まる。その直前。
律子さんは、ワンピースの裾をすっとたくしあげた。見えるか見えないか、ぎりぎりのタイミングだったはずだ。ぎょっと「サチエさん」の表情が固まったのがわかった。そのまま老婆は風景の一部として流れていってしまう。バスは走り出す。
「あたしもせいせいしたわ」
席に戻ってきた律子さんがにっと笑みを浮かべて言った。頬が少し紅潮していた。
「びっくりしました」
「どっちが。でもま、もうサチエさんとは会わんほうがええなぁ」
くすくす私たちは笑いあう。律子さんの骨ばった手が、私の手を包み込んだ。指先の感触を確かめるように、爪の一つ一つを撫でられる。
「なんだか疲れたわ。終点まで乗ってこ」
「終点、どこでしたっけ?」
「さあ。ええやない。どうせそう遠くないわ 」
律子さんが甘えるように私の肩に頭を乗せる。ちょうどさっきの私みたいに。
そうですね、と応じながら私は彼女の形のいい耳にそっと口づけした。
時刻は午後四時 。雨跡で白く濁った車窓 の向こう側には、橙に染まった鮮やかな空。夜の気配に浸食される直前、烏たちが一日の終わりを呼び掛けて回り、巣へと帰っていく。