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2221年

作者: 小城
掲載日:2021/09/12

 今から、200年後の世の中で、今いる時代は、どのように語られるのだろう。おそらく、200年後の世界でも、いろいろな人々がいて、忙しい人、暇な人で、それぞれ考えも違うだろうし、何より、個性と性格により、物事の捉え方は変わる。その前に、人類が滅んでいなければの話ではあるが。

 今から、200年前にも、同じことを考えた人がいたというと、おかしいであろうか。1821年といえば、文政四年で、伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』が幕府に提出された年である。物質文明というのは、段階的に発展していくものであり、段階的に、その軌跡を追うことは可能である。例えば、上記の例でいえば、地図を見ても、古代から現代までの地図を並べてみれば、その段階的発展の軌跡を見ることができるだろう。全体的に、科学学問というものはその色合いを持っている。

 しかし、人間の心はどうだろうか。ここでいう心とは、心そのものであって、その解明を試みる心理学や哲学、脳科学などのことではない。人間の心それ自体は、古代から現代にかけても、大きな変遷を遂げることはなく、段階的発展もない。心は心そのものであり、時代や個人の周囲の環境により、圧迫されたり、解放されたりを繰り返すだけである。古代から現代まで、そうならば、おそらく、現代から未来にかけてもそうなのであろう。

 私は、その心というものを、捉え、記録することが、小説のひとつの性質なのではないかと思うのである。


 江戸で、朝顔の栽培と寄席が人気を博している頃。その400年後の2221年の世界では、生物種の8割は絶滅し、生態系は、ヒトと、ヒトの生活環境に適応した、ヒトにとってはめずらしくもない身近な生物、数十種類の織り成すコロニーとなり、過去の絶滅種を含むめずらしい動物は、人工的施設において、絶対数が、保存的生育をされている。しかし、人工生体工学が復活、作成できる種は、過去200年の間に、驚くべき速度で絶滅していった見ず知らずの生物に比べれは、数える程でしかなかった。動物の一方で、植物も、また、種の偏りが進み、繁殖する植物は、世界中の至るところに生息し、繁殖しない植物は、絶対数程度が、世界に転々と、生息しているに過ぎない。かつては、人口の爆発的増加が懸念されていたヒトも、食糧不足と気候変化により、その数は、減少し、ヒトは、100年前の文明水準を継続できる最低数に、自らの人口を管理するようになった。かつてのヒトが異常気象と呼んだ気候の変化は、恒常化しながら、変化の係数を増し、ヒトの科学技術は、その現象の観測と解明に追いつかなくなり、海空による物理的移動は、そのリスクとコストの増加から、実際の自然現象の観測データに基づく地球科学と同じく、縮小した。その代わり、物理工学を始めとした理論実験研究は、21世紀以降も、発展を続け、21世紀が終わるまでには、量子コンピュータが、実用、一般化した。22世紀に入ると、余剰次元の観測と人工的にブラックホール相を作り出すことに成功し、量子コンピュータ技術と融合し、無限に近い情報を、多次元を介在した量子速度で、変換、伝達することを可能にした。情報の流通は、文字通り、今までとは次元を異にして、飛躍的に発展したが、実際的な物の生産と流通は、21世紀に比べると減少し、代わりに、新たな食糧資源の開発が進んだ。

 医学技術の発達は、ヒトの身体的現象の再生、補完を推し進めた結果、人々の思いとは裏腹に、どこかで、特異点を越えてしまったらしく、社会、倫理的には、全く意味のない技術が発展し、分化独立した。エンハンスメント医学(Enhancement medicine)と従来の医学(Traditional medicine)と呼ばれる分野は、それぞれが目的を異にして発達することになり、エンハンスメント医学は物理化学と融合し、従来の医学は、社会倫理学と融合した。しかし、それらハイテクノロジー理論と知識は、アリストクラシックな物となり、ほとんどのヒトは、それらの科学技術で生産された物を消費するだけの存在であり、理論や知識よりも、物と行動が、社会や倫理よりも、習慣と利益が重視される結合体であった。


『東日本生物園』

 東日本中央都市の一画にあるこの生物園は、毎日の来園者数が一定に保たれている。東日本生物園は、教育機関であり、娯楽施設ではなかった。初等教育の一単元として、生物というものが、実際に、生存している姿を観察するのである。といっても、初等生たちは、全てを歩いて観察するわけではなく、非常におかしな話ではあるが、自動化された仮想空間において、実際に、園に保存されている生物を観察するのである。もちろん、それらには、触れることもできるし、汚れることもない。実際に触っているのと、同じであるが、保存されている生物には、なんの影響もない。生物たちは、世界で限られた数が保存されているに過ぎないのである。中には、データに変換保存されて、仮想空間において、生存している生物もいる。初等生たちは、ハイミクロからハイマクロまで、変換されて、大小の生物を観察できる。今では、教育機関で行われる教育のほとんどが、こうした形をとっている。教育の価値というものは、転換し、初等教育では、既知の森羅万象の9割を学び、中等教育に向かうにつれて、実用的な社会技術を学ぶようになった。人々の4割は、社会がコンピュータ化された今日でも、人の手に頼らざるを得ない労働者、技術者になり、1割が、高等教育に進み、アリストクラシーとして、最先端の知識と理論を学ぶ。そして残りの5割は、繁殖に従事する。現代においての、重要課題は、労働ではなく、繁殖であり、彼らも、また、ヒトという種の保存を第一の使命とされている。この社会の常識では、働くことは、当然のことではなく、繁殖活動をしていれば、収入があるのは当然であった。そして、彼らの収入と時間は、繁殖と子育てだけに使われる。繁殖するかどうかは、自由選択であり、繁殖を選択しない者は、代わりに、高等教育か労働技術を選ぶ。しかし、それはそれで、繁殖を選択するのと同じく、大変なことではあった。繁殖には、自然繁殖だけではなく、人口繁殖も含まれた。しかし、実際に、どの程度のヒトがどの程度、繁殖をすれば良いかというのは、コンピュータが収集したデータを基に、政府機関が翌年の、暫定的な目標値を設定し、それに、応じて、来期の、労働者数や繁殖者数が設定される。そのおおよその枠組みの中で、様々なシステムを経て、人々の選択は行われる。それらに伴う計算など全ては、ハイコンピュータによって行われていた。

「来期の人口調整値の速報です。戸籍上の総人口6千5百万2人に対して、繁殖従事者数3千3百万人(±0.012%)。労働従事者数3千1百万人(±0.014%)。非生産従事者数1百万人(±0.001%未満)となります。なお、12時間毎に更新された数値は、NVRP(National virtual reality process)を通して、体感することができます。」

 今年度、中等教育機関に上がった、斯波よるねす(F、14歳)、は、家に置いてあるNVRPに触れた。それに触れると、知りたい情報が、直接頭の中に入ってくる。彼女は、将来、繁殖に従事したいと思っていた。それには、3年間ある中等機関で2年になるときに、提出する進路志望調査において、繁殖従事者希望の旨を届ければよかった。そして、大抵、希望は受理される。

「せろあ。」

せろあ、とは、よるねすの母にあたる。よるねすの母は、もちろん、繁殖従事者である。

「よるねす、そんなに、人口調整値を気にしなくても、繁殖従事者にはなれるよ。」

建前は、自由選択ではあるが、習慣上や、暗黙上、生まれた瞬間から、将来の選択は決まっているといえる。人々は、何故、そうなるのかは分からないが、おそらく、人智を超えた複雑なシステムの上に今の社会が成り立っているからだろう。ちなみに、現代社会では、男女や父母の区別は希薄である。せろあも、人工繁殖を選択したので、繁殖相手のことは知らないが、繁殖者の9割は、人工繁殖を選ぶ。現代社会では、それは習慣であり、その方が、親や生まれてくる子にとっても、利益があるからだろう。

「今日、生物園を体感したの。」

「あら。楽しかった?」

「生物って、いろいろいるんだね。」

「そうね。」

初等、中等教育のほぼすべては、NVRPで完結するので、学生がどこかに集まって、誰かに教えてもらうという教育の形は、もはや存在しない。人々は皆、対等であり、自由であるというのが、NVRP教育基本法の理念である。

「NWMO(National world meteorological organization)は、地球上の酸素濃度が1.6%減少したという観測データを発表しました。NWMOのat報道官は、おそらく南米から南太平洋にかけてのスーパープルームの影響ではないかと予測しています。」

「JEM(Japan institute of enhancement medicine)は、JIBR(Japan institute of biological research)と共同で、実存ヒトモザイク個体を使った研究の2例目の実験に入ったと発表しました。NVRP上ではなく、実存研究は、先例もなく、今後の研究が期待される一方、JITM(Japan institute of traditional medicine)などは、NVRP上の実験研究が進んだ現代、実存研究はもはや無意味であり、過去の方法であるとの見解を示しています。」

「よるねす。そろそろ、せろあは、眠るからね。」

NVRPで、報道を体感していたよるねすと、シャワーを終えたせろあは、それぞれ、別の部屋に向かった。

 翌朝、せろあはNVRPで、教育を受けていた。『過去の歴史』と題される単元では、人類史が主であり、国別の歴史は、それほど重要とはされていない。その中で、体感するのは、情報と記述である。国別の瑣末な情報と記述は、NVRP上の図書館に行けば、いくらでも体感できる。いちおう、そうした情報リファレンスの単元もあるが、それはあくまで、初等教育で行われるNVRPの使用方法の単元の一環であり、過去でいう日本史や世界史というものは、教育というよりも、現代社会においては、読書に近い。よるねすも、初等教育における情報リファレンスの単元は、既に修了していた。

 そういえば、今では過去のことになるが、よるねすが、初等教育で、図書館というデータベースを体感したとき、不思議な体感をした。ふつうならば、図書館データベースから、図書データを体感して、情報を得る。しかし、何故か、よるねすは、図書データから、更に、その奥にある不可思議なデータの破片にアクセスし、体感した。本来、そのようなデータはNVRP上には、存在しない。よるねすは、無事に、何事もなく、体感から戻ったが、余りにも、異質な体感であったことと、未だNVRPというものを知らなかったこともあり、不思議だとは思いながらも、忘れていた。

 そして、よるねすは、この度も、また、『過去の歴史』という体感の『人類史一般』から更に奥のデータに、体感が移行した。


『1821』

「あさがお。あさがお。」

 棒手振りの商人が、朝顔の苗を売り歩いていた。彼は早朝から、朝顔を売り歩いているが、買い手が付いたのは、正午が過ぎた今になっても、一鉢だけである。

「次郎吉つぁん。」

「なんでえ。おめえさんか。」

次郎吉は、町方の裏長屋に住んでいる。親は、江戸中村座の木戸番で次郎吉はその末っ子だったが、鳶人足をしていた25のときに、博打でやくざと喧嘩して家を勘当されて以来、江戸の裏長屋に流れ着いた。無宿人だった次郎吉は、勘当されてすぐ、喧嘩を起こし、捕まり、人足寄場に収容された。1年、寄場の飯を食い、手職を付けて出て来たが、出職先で、諍いを起こし、今は棒手振りをしている。

「大分、板に付いてきたみたい。」

「てやんでえ。馬鹿を言うない。」

厳密に言えば次郎吉は江戸っ子ではない。というのも、次郎吉の祖父は地方の人間だった。しかし、孫の次郎吉の代になると江戸言葉を使う。次郎吉に話しかけて来たのは、長屋の大家の娘であった。名はお菊と言う。お菊は、裁縫の師匠の所からの帰りであった。

「昨日。お父つぁんの田舎から、栗が届いたの。」

「栗かぁ。」

一度だけ訪れたことのある祖父の実家の信濃でも、秋になると、栗が沢山なっていた。

「後で次郎吉つぁんの所にも、届けてあげる。」

「へっ。そいつぁあいいや。」

「だから、朝顔売れるように、頑張ってね。」

「言われなくても、分かってらい。」

次郎吉は、棒を担ぎ、お菊は歩いて行った。

「結局、売れなかったの?」

夕方、次郎吉が長屋に戻ると、お菊は井戸で水を汲んでいた。次郎吉の朝顔は、今日は、二鉢売れたのみで、あとは、萎れていた。

「あんたぁ。いい加減、左官でも大工でも行けばいいのに。」

長屋に住む大工の女房が言った。

「おれは、人に指図されるのは、好かねえんだよ。」

「うちの宿六みたいなこと言ってるわ。」

「おめえんとこの、ろくでなしと一緒にするんじゃあねえよ。」

「ハハハ。萎れた朝顔がたいそうお言いでないよ。」

「へっ。」

次郎吉が、長屋の戸を開けて土間に入ると、笊に栗が置かれていた。

「先に、上がっちゃった。」

「そりゃあ、いいが、おめえ、これ生じゃあねえか?」

「そうよ?」

「おれぁ、てっきり、むき栗か焼き栗が来ると思ってたのによ。」

「それぐらいは自分で、やってよ。」

お菊は水を汲んだ桶を持って言ってしまった。いつのまにか、大工の女房もいなくなっていた。

「ちえっ。」

次郎吉は基本、料理はしない。雨の日は、竃に火を付けて料理をして、飯を設えるが、普段は、そんな、暇もないので、まだ暗くならないうちに、長屋の木戸を出て、屋台の蕎麦や鮨で済ませている。

「腐るもんでもねえし。いいか。」

栗のことは置いておいて、次郎吉は、木戸が開いているうちに、屋台へ向かった。

「まずい蕎麦だったぜ。」

「放っとけ。」

屋台の親父に悪態をつき、蕎麦を食べた次郎吉は、鐚銭を屋台に叩き付けて、行く。

「さてと…。」

しかし、次郎吉が向かった先は、長屋ではなかった。闇の中を進む次郎吉の姿は、闇と同化し、人々の前から消えた。

「へっ。」

翌朝は雨だった。いつのまに帰って来たのか、次郎吉は、長屋にいた。次郎吉が、帰ると、何故か、笊の上の生栗は、むき栗になっていた。


『1832』

「お菊、小石川でめずらしい鳥が捕れたらしいぜ。」

長屋の土間で、竃に火を付けているお菊に、次郎吉は、1枚の瓦版を渡した。瓦版には、『信天翁』の文字と、水鳥の絵が書いてあった。

「その鳥は、天から魚が降って来るのを待ってるらしいぜ。」

「おまえさん。そんなこと言ってないで、小太郎を頼みます。」

「おお。貸してみない。」

お菊の背中に負ぶわされていた赤子を紐から解くと、次郎吉は、両腕に抱いた。

「あぶぶぶ。」

「きゃ!きゃ!」

次郎吉がおどけてみせると、赤子は、喜び、手を叩いていた。

「おい。左官屋。いるかい。」

「なんでい。」

 次郎吉が赤子を抱いたまま、土間を出ると、大きな赤ら顔の白髪の老人が立っていた。

「おう。小太郎か。よしよし。貸してみな。」

老人は小太郎に腕を伸ばしてみた。

「馬鹿野郎。そんな急に持つと、びっくりするだろうが。」

「馬鹿親父はあんただろう。ところで、仕事はどうなんだい。」

そういいながら、老人は、赤子を抱くと、よしよしとあやしていた。

「お父つぁん。どうしたの?」

「おう。お菊か。」

赤子は老人の頬をぺたぺたと触っているが、それを老人は楽しんでいるようでもある。

「御役人がね。尋ねて来なかったかい?」

「いいえ。」

「それならいいんだよ。大家の俺の所だけでなくて、一軒一軒尋ねて回ってるんじゃないかと思ってな。」

「御役人って、あの盗人探しのこと?」

「ああ。怪しいやつは、長屋に住まわせず、御役所へ届け出ろと、毎回、同じことを言っていきやがる。」

老人がそう言うと、赤子は、頬を曲げて、泣いてしまった。

「うわああ。」

「あら。」

老人の手から、お菊は赤子を預かると、よしよしと上手にあやしていた。

「ところで、この馬鹿親父は、どうだ?」

老人の申し訳程度に、話題を振られたのは、次郎吉のことであった。

「ちゃんと稼いでくれてますよ。」

「へっ。あたりめえよ。」

次郎吉とお菊が祝言を上げて、もう5年経つ。お菊の父である大家の老人は、当然、反対した。

「駆け落ちしてでも、次郎吉さんと添い遂げますから。」

そう言うお菊を前にして、渋渋嫌嫌ながら、首を縦に振るしかなかった。数年前、次郎吉は、忽然と長屋から姿を消したことがあった。

「親父が死にそうだったんでな。ちょいと看病したら、あの世へ行っちまいやがった。」

1年程したら、次郎吉は、ひょっこりと戻ってきた。「親父への冥土の土産だ。」

そう言って、戻って来た次郎吉の体には、閻魔の彫り物が施されていた。お菊が、次郎吉との結婚のことを言い出したのは、それからまもなくのことだった。

「おめえみたいなのを、女房にもらったって、屁のつっぱりにもなるめえや。」

かくいう次郎吉も、お菊との結婚は乗り気ではなかったようだったが、彼もまた、お菊に押されたのだろう。

「あたしがいないと誰が次郎吉さんの面倒を見るんですか。」

「そんなに言うんなら、俺の世話をさせてやらあ。」

「それでいいなら、よかった。」

そうして、お菊と次郎吉は祝言を上げることになったが、次郎吉は、身寄りもいないという理由で、格式張った祝言は拒み、内輪だけの仮祝言を望んだ。

「それが嫌だってんならあ、この話はなしだ。」

「あたしは、かまいませんよ。」

翌年には、息子の小太郎が生まれた。

「へへへ。」

笑いながら赤子をあやす次郎吉の姿を見ると、案外、夫は子煩悩であるのだなと、お菊は思った。

「酒屋で酔いつぶれて、寝てたぜ。」

次郎吉は、そう言って、たまに、明け方に帰って来ることが、あった。

「まったくもう。仕事はいいのかい?」

「へっ。かまやしねえよ。ほらよ。」

一分金を2、3枚、床に置くと、そのまま、次郎吉は、長屋で寝てしまうが、このように稼いだ金はちゃんと持って来てくれるし、小太郎の面倒は、よく見てくれたので、咎め立てることはしなかった。

「ほかに女ができた。」

 次郎吉が、そう言って三行半を突き付けて来たとき、お菊は、初めて泣いた。そのあとのことは、よく覚えていないが、いつのまにか次郎吉はいなくなり、床には、手箱が置いてあった。中には、一両小判が二十枚と二分金が三十枚入っていた。

「お菊、あの男のことは忘れろ。」

 そう言って老人は、小太郎を背負って泣くお菊を慰めた。そのひと月後に、日本橋浜町、上野小幡藩の江戸屋敷で、鼠小僧という盗賊が捕まり、市中引き回しの上、獄門に晒されたという。偶然にも、その盗賊の本名も次郎吉といった。

「石川や浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽くまじ。」

「石川五右衛門かい?」

「ああ。俺は、この言葉が好きでなあ。」

子どもの頃、中村座で見た『楼門五山桐』や『増補双級巴』などの石川物の歌舞伎が、次郎吉は大好きだったといい、長屋で、よくひとり口ずさんでいた。

「石川五右衛門はなあ。太閤様が生きていた、えれえ昔の大泥棒よ。今からもう何百年も、昔の話でえ。」

「あんた。小太郎にへんなこと教えないでおくれよ。」

「へんなこととはなんでえ。その頃からよ。世の中の人の心ってえのは、これっぽっちも変わっちゃいねえんだよなあ。なあ、お菊。」

「何だい?」

「今からよお。例えば百年、二百年先の世の中は、どうなってると思う?」

「さあねえ。」

お菊は竃の火を吹いて、飯を炊いていた。先日、田舎から栗が届いたので、栗飯を作っているところだった。

「おれはなあ。石川五右衛門が言うとおりだと思うぜ。世の中が、どんなに変わったとしても、人の心なんて、変わるもんじゃねえし、相変わらず盗人は、どこの世にもいるもんだよ。なあ、小太郎。」

まだ、歩き始めたばかりの小太郎は、自分にそう語りかける父の顔を見て喜んでいた。

「できたよ。」

「早かったな。栗飯。」

「小太郎。食べられるかねえ?」

「俺に任せとけ。」

箸で細かくした栗を次郎吉は小太郎の口に入れた。

「へっ。食いやがったぜ。こうやって見ると、可愛いもんだなあ。」

「とと。」

そう言って、小太郎は手を伸ばしてくる。

「もっと欲しいか?」

次郎吉は、今度は、箸でつまんだ飯粒を、小太郎の口に入れていた。


『2021』

 パンデミックが猛威を振るう21世紀初頭。人類がどこに向かっているのか。果たして、幸せになっているのか。私には、分からない。かつて、人類の介入により、種が絶滅したドードーやステラーカイギュウのことを知ると、可哀想だと思うし、彼らが、生き残っていたり、バイオテクノロジーで復活させたりという話を聞くと、感心する。しかし、実際は、それほど簡単なことではないようである。絶滅生物の科学技術による復活が囁かれる一方で、現代、毎年、4万種もの生物が絶滅していると聞くと、もはや、取り返しのつかないところまで来ているのではないかと思う。

 私は自然というものは、記述することはできるが、支配することはできないと思っている。何故なら、人間も、また、自然の一部だからである。自然とは、文字通り、自然現象を含む自然界のことであるし、人間や生物のことでもある。科学技術というものは、万能薬でも、願いを叶える宝玉でもなく、単なる、自然界というルールの中でのみ適用されて、自然界からは逸脱することはできない技術でありテクノロジーである。よって、どんなに科学技術が発達しようとも、自然そのものを支配することは不可能である。何故なら、科学技術というものも、また、人間や生物と同じく、自然の一部だからである。人間の作ったシステムというものも、往々にして欠陥がつきものであり、完璧なシステムがないのと同じように、完璧な社会というものも存在しない。そのような中で、人類やこの国が、今後、どうなって行くのかということを問われると、こちらもまた、往々にして不安がつきものではある。

 それでも何故か、20世紀に人の手により絶滅したアホウドリが、その後、再発見されて、かつては、十匹程度しか、地球上に残っていなかった彼らが、再び、人の手により、その数を増やしてきたという話などを聞くと、感心するものである。アホウドリが数を増やした代わりに、駆除された外来生物もいると聞くと、不思議な思いを抱かざるをえない。私のように、アホウドリの復活に感心する人間の心の背景には、深く案じると、例えば、そこに無意識的な利害得失の計算とエゴイズムが潜んでいたとしても、そう思う心というのは、赤子を可愛いがる人間のように、実に、人間らしいといえる。


『2221』

 よるねすは、NVPRでの体感を終えた。『過去の歴史』の単元は、無事に修了した。

「せろあ。」

リビングに行くと、せろあが、NVPRで情報を得ていた。

「どうかしたの?」

NVPRによる体感をしていても、意識は現実世界とつながっている。

「せろあは、よるねすが生まれたとき、うれしいと思った?」

「そうね。それは、うれしかったよ。」

「ふうん。」

「どうしたの急に?」

「なんでもない。」

よるねすは、走って行った。

「もう、そんな時期か…。」

よるねすの行動に、せろあは、かつての自分を見る思いであった。

 システムにバグはつきものであり、NVRP上での、よるねすの体感も、類まれなるエラーのひとつだったのかもしれないし、もしかしたら、NVRP教育基本法に記載される『NVRPを使った教育システム下における、システムに由来しない新たな情操体感の一環』だったのかもしれない。そして、それを通して、よるねすが学んだことは、良くも悪くも、人間は変わらないということだったのかもしれない。

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