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第21話 近衛文麿

 華子さんから、中島憲兵司令官殿との首尾を聞き、陛下への拝謁をお願いする。既に西園寺家とは話がついており、陛下にお伝えした後は近衛殿と会うことになる……まさか、この歳で首相に引導を渡す役目をすることになるとは思わなかったが。


 今上天皇陛下は私より十歳ほど年上で、すでに御政務にも就かれている。私から見れば遥かに高い立場におられるのだが、拝謁の席では少し浮かぬ顔をされていた。

「そなたが久永か。久しゅう会わなかったので記憶も朧だが、確か太上皇様の……」

「はい。大喪の礼の時、お会い致しました」


「此度は、国家の危機を救ってくれたと聞いている。大儀であった」

「もったいないお言葉です。それでは……」

「うむ。進めてくれ……代わりの首相に立つものは、公望に奏上をしてもらうか」

「ははっ」

今回の目的は、これで果たすことができた。しかし陛下は、どこか遠くを見ているようにお声をかけて下さった。


「久永は、太上皇様にずいぶん愛されていると聞くが……」

「それは……」

私が雲の上のお祖父様を見た話のことだろうか、それとも婚約を決めた時の話だろうか……

「太上皇様は陛下をこそ愛されております。それゆえ、この久永に『陛下の役に立つように』と使命をお与え下さいました」


「……そうか。そちの妻となる華子殿も御神に愛されていると聞く。夫婦共々、どうか御國の行末を正しく導けるよう働いてくれることを願う」

「もったいないお言葉です」


◇          ◇          ◇


陛下への拝謁を済ませ、その足で荻窪の近衛邸を訪ねる。すでに連絡は行っていたようで到着するとすぐに客間に通された。

「まさか、尾崎がソビエトと通じていようとは……」

そう言って悔恨の情を表している様子を示すが私には、彼の心情の奥底にある存外冷静な姿が透けて見える。

「しかし、貴方は彼らに共感していた部分もあったから、ではないですか?」

少し強めに問うてみる。残念ながら彼の背景に見えるのはスッキリとしたものではなかった。

「何を言い出すんだ。いや、仰るのですか殿下」

「失礼ですが近衛殿には、芯になる考えがお見受けできません。今の有り様を厭い泡沫(うたかた)に飛びつくようなやり方の繰り返しでは、行くべき道を示せるとは思えませんが」

ふっと顔を逸らす近衛殿の姿には、分かりもしない者がなにをと考えているのがよくわかる……

「年若のような振る舞いで人気を求めるのは扇動政治家のようでは在りますまいか」

近衛殿の頭の後ろから赤黒い光が広がり、こちらを振り向いて見下してきた。

「……そう言う殿下には、まったく若さが感じられませんな」

しかし彼の背景の光はすぐに消え去り、ゆらゆらと別のものが浮かび、また消えた。


「まあいいさ。どうせ、これが世間に知れれば総辞職だ。また潮目の変わるまでは、しばらくゆっくりさせてもらうよ……殿下は政治家になるんですか?」

何なのだろう、この取り付く瀬のない茫洋とした様子は……これがこの人のスタイルなのだろうか。たとえ潮目が変わったとしても、こんな人を二度と首相につけてはいけないと私は強く感じた。


「それも、よいかもしれません……少なくとも貴方のような方を立たせておくよりは」


 翌日、内閣総辞職とリヒャルト・ゾルゲ、尾崎秀実、西園寺公一らの逮捕が報じられた。そして私は次の首相に立つ、宇垣大将に呼び出されていた。すでにスパイ事件に関しては大審院にまわされ、近衛首相は退陣したので私に用事があるとは思えないのだが。


「閣下、何か御用があると伺いました」

「久永殿下。この度は大変なお役目を務められましたな」

「閣下こそ、大命を受けたと伺いました。申し訳ありませんが後片付けをお願い致します」

型通りの挨拶をした後、やおら宇垣大将から思いもよらぬ一言を聞いた。

「いや、他でもない。その事なのですが、殿下は政治家になるおつもりは有りませんか?」

先日も近衛前首相にそんなことを言われたが、なぜ私に政治をさせようとするのだろうか?

「私にはそのつもりはありませんが?」

「もちろん、最終的には殿下のお考え次第です……しかし、軍以外の世界も知ることが、殿下の今後にとって役に立つのではと考えるのですよ。もちろん日本のためにも、ですが」

「日本のため、ですか?」

宇垣大将の言葉が、一瞬お祖父様の言葉と重なって聞こえた。

「今、軍にはそれなりの人材が集まり、お国のために懸命に働いておりますが、振り返って政治の世界を見てみると次代を担う政治家が見当たりません……近衛殿は賛否の声がありますが、それでも政治家として嘱望されていた存在だったのです」

「なるほど……」

つまりはお前が潰してしまった、近衛の代わりを務めろということか。しかし私がまったく経験のない世界だ。近衛殿には買い言葉であんなことを言ってしまったが、まさか現実になるとは。

「いえ、いきなり矢面に立てとはいいません。まずは首相秘書官として様子見をして頂くのが良いかと」

「せっかくのお言葉、有り難く存じますが、私には今の職責を放り出すわけにもいかず……」

申し訳ないが、お祖父様から『陛下のお役にたつように』と言われているのだ。それに私がいなくなっては華子も神様から頂いた使命を果たすのが難しくなるだろう。そんなことを考えて辞退しようとしたのだが……宇垣大将の方が一枚上手だった。


「今の職責は兼務としておきましょう。なに、実務はご婚約者の華子殿が問題なく行うことが出来るとおっしゃっています。『これも殿下のお祖父様が望まれた道であるかもしれません』と、お伝え下さいと承っております」


こうして年の功に上手く丸め込まれた感があるが、私は情報士官を務めながら首相秘書官の職も兼務することになった。



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