幕間 フィーリアの呟き
その日の夜は、久しぶりに一人だった。
部屋で、という話ではない。宿の部屋はいつも別だし、そもそも一緒に寝たことなんてあるわけもないし……。
そう。つまり幼馴染みであるレイがいなくなり、久しぶりにフィーリアは一人の夜を過ごそうとしていた。
だからといって、何が変わるということもない。
夜は遅く、食事も軽く済ませた。酒場などにも行かないフィーリアにとって、宿屋に戻ってやることと言えば、朝まで寝ることだけだ。
たまに、寝る前までレイと会話することもあったが、最近ではそれも少なくなっていたし、そのレイも今はいない。
必然、フィーリアは寝る以外にやることがなくなっていた。
「…………」
そんなフィーリアは、今はベッドの上で膝を抱えて座っていた。
表情は悲しんでいるような、怒っているような……何とも言えない複雑な感情が浮かんでいた。
レイが扉の向こうに消えていってから、もうずっとこうだ。
一言も発せず、後を追うわけでもなく、寝るわけでもない。ただただ、ぼうっと目の前の虚空を見つめているだけ。
そこに何の意味があるというのか。
それは当の本人にしか分からず──そして不意に。
「……ばか」
ぽつりと。フィーリアの口から言葉が漏れた。
「ばか。ばか。ばか、ばか、ばかバカ馬鹿ばか……!」
それは次から次に溢れ出した、苛立ちに塗れた罵倒だった。
「うぅ~……もぉー、バカアァッ──!」
そして、手元にあった枕を全力で投げる。
Sランク冒険者であるフィーリアの腕力で投げられた枕は、凄まじい勢いで壁に激突し、ボトッと床に転がった。
次いで、ドン、という音が壁から発せられた。おそらくは隣の宿泊客による壁ドンだろうが、フィーリアは気にする様子もなく。
「……ほんと、ばか」
再び、弱々しく呟いた。
その罵倒が誰に向けられているのかは、語るまでもなくレイだろう。
バカだアホだと思っていたが、まさかこれほどのものとは思わなかった。
いったい何がそんなに気にいらなかったというのか。依頼の報酬はちゃんと与えていたし、こうした宿代も食事代も払ってやってるではないか。
たかだかDランク冒険者がSランク冒険者の付き人をできている。その栄誉に感謝こそされ、不満をぶつけられるとは。
というか、不満や怒りはそもそもこっちだってそうだ、とフィーリアは思う。
何故なら──
「先に約束を破ったの、アンタでしょうに……」
遠い過去に交わした、幼馴染みだからこその馬鹿げた約束。
何故そんな約束を交わしたのか、今となっては覚えていないけれど。
けれど、確かに──三つの約束したのだ。
それを最初に破ったのはレイの方で、そしてまた彼は二つ目の約束を破ったのだ。
怒る、不満を抱くというのなら正当性があるのはこちらの方で、お前は何を被害者ぶっているのかとフィーリアは言いたかった。
そう、だから私は悪くない。悪いのは全部あのバカで、どうせすぐに生活できなくなって半ベソかきながら戻ってくるに違いない。
そう判断して、うん、きっと間違いないとフィーリアは笑みを浮かべた。
「そうよ。私は悪くない。レイの馬鹿、後悔しなさい。私に守られていたって事実に──!」
大声を上げて立ち上がる。Sランク冒険者は精神力までSランクなのだ。小さいことで心が折れるような、半端な修羅場は越えていない。
だから見ておけと裏切り者め──とフィーリアが宣言したと同時、またもや隣から壁ドンされた。
しかも先程よりも強い音だ。隣の客もかなり頭に来ている模様。
まぁ、こんな夜にギャーギャー騒ぐ女の方に非があるのは当然なのだが。
「ひぇ……うるっさいわね。とんだ迷惑な客だわ、まったく」
しかしこのフィーリア、己の非を認めず、あろうことか責任転嫁までする始末。
どちらが迷惑な客なのかは一目瞭然だったが、そんなことに気付かないフィーリアはベッドに寝転んだ。
「さて、明日からは一人か……ま、別にいいけど」
ぽつりと呟く。
そうだ、明日からフィーリアは一人なのだ。
別にそれが嫌だというわけではない。
報酬だって分ける必要はないし、食事や宿にかかる費用も一人分でいい。
戦闘だって邪魔者がいないから、いつも以上に大暴れできる。いいことだらけではないか。
そう考えれば、一人だって問題ない。むしろ願ったりだ。
一人だからお金もかからない。自分のペースで時間を使える。
戦いも一人で十分だ。ゆえにこれからも、何も問題にはならない。
そう、一人だ。
食事も買い物も戦闘も、ぜんぶ全部、たった一人っきりの、孤独な──
「──ふ、バカね。何言ってるんだろ、私」
何か、くだらないことが頭に浮かんで、フィーリアは自嘲する。
疲れているのだろう。明日も早いし、依頼をこなさないといけない。早々に寝るべきだと決め、静かに目をつむり。
「……枕ないと眠れないわね」
かと思えば立ち上がり、トコトコと歩いて自分が投げた枕を拾いにいくのだった。