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秋の冷たい風が森の葉を揺らす中、エリックは身を屈め、もう少し大きい苔むした古い岩陰の方に移動し息を潜めた。風下に回ったせいか、先程よりも濃密な獣の匂いがする、しかも微かに血の香りが追加されたようだ。
嫌な予感がエリックの背筋を駆け上る。彼は身を屈め、慎重に岩陰から風上の茂みの方へ移動する。そして茂みの隙間から前方を見やった彼の目は、信じられない光景に釘付けになった。
開けた谷間に、十数頭はいるだろうか、狼の群れがいた。だが、それはただの狼ではなかった。一頭一頭が、まるで子牛ほどもある巨体を持ち、その銀色の毛皮は木漏れ日を浴びて不気味に輝いている。そのうちの一頭、ひときわ巨大な狼が岩の上に立ち、琥珀色の瞳で周囲を睥睨していた。その瞳には、単なる獣性を超えた、狡猾な知性の光が宿っているように見えた。彼らが放つ威圧感は、森の空気を重く淀ませ、まるで死そのものが形を成したかのようだった。
エリックは心臓が凍りつくのを感じた。あれは森の狼などという生易しいものではない。母さんの昔話で聞いた魔獣「魔狼」の群れだ。一頭でも村一つを滅ぼしかねない存在が、これほどの数で集まっている。
その時、風向きが変わり、エリックの匂いが風下へと流れた。群れの一頭が鼻をひくつかせ、訝しげにこちらの方角へ顔を向けた。まずい、とエリックは思った。全身から血の気が引いていく。彼は呼吸さえも止め、岩肌に身を押し付け、ただの石になることを念じた。
幸いにも、魔狼の注意は別のものへと移った。リーダー格の巨狼が低く唸ると、群れは一斉に立ち上がり、森のさらに奥深くへと統率の取れた動きで消えていく。獲物を見つけたのかもしれない。
エリックは、魔狼たちの姿が完全に見えなくなるまで、一ミリたりとも動かなかった。全身を濡らす冷や汗が、秋の冷気と相まって体温を奪っていく。やがて、森に再び静寂が戻ると、彼はゆっくりと、しかし確実に行動を開始した。
一頭こちらに顔を向けた事を考えると、来た道を引き返すのは危険すぎる。遭遇する可能性が高い。エリックは頭の中で必死に地図を描き、別のルートを探った。急斜面を避け、ぬかるみを迂回し、そして何より、音を立てないように。
枯れ葉が敷き詰められた森の地面は、一歩誤れば命取りの裏切り者になる。彼はつま先でそっと体重を乗せ、足元の感触を確かめながら、亀のようにゆっくりと後退した。
背後で小枝の折れる音がするたびに、彼の心臓は大きく跳ね上がった。それはただの小動物の立てた音だと頭では分かっていても、あの琥珀色の瞳が脳裏に焼き付いて離れない。
どれほどの時間が経っただろうか。日は中天から西に傾きつつある頃、エリックはようやく見慣れた森の入り口を示す歪な形のイチイの木を見つけた。彼はもつれる足で森から転がり出ると、大きく、深く、震える息を吐き出した。よし、生きている。
振り返った森の闇は、全てを飲み込むように深く口を開けている。あの光景は、決して忘れられない。彼は一刻も早くこのことを知らせなければと、震える足に鞭打ち、家への道を駆け出した。