全ての始まり2
黒竜は巨大な首をもたげ、エリアーナのすぐ側まで近付き、
『力には、等価の代償が要る。お前が信仰しているあの女の力ならともかく、お前自身の生命力など、我の傷を癒すのに何の価値にもならぬ』
「……では、何を。何を捧げれば、助けていただけるのですか」
エリアーナは覚悟を決めていた。考えうる限りの代償を想定してきたが、そもそも自分が与える事ができる物など、この身一つしかない。だが、竜が告げた言葉は、残酷で単純なものだった。
『お前の人生の全てだ、人間の娘よ』
竜は続ける。その声には、嘲りも憐れみもなかった。ただ、絶対的な事実を告げるかのように、淡々としていた。
『その体には、長年の祈りと修行によって、清浄な力が満ちている。民草千人の命を以てしても、お主一人の魂が持つ力には及ぶまい。我の転生する魂をその胎に宿すには適している。』
「……わたくしの、人生」
『そうだ。お前がその身をこの場で我に捧げるならば、我は約束しよう。魔界の尖兵如き、この傷があっても1日で蹴散らしてくれよう。その代わり、お前は我の魂を育てるのだ。人間には長い時間となるだろう、もちろん死ぬ事も許されぬ。そして竜の時間で生きる事となるだろう。』
沈黙が落ちる。理解できぬ代償の恐怖と、脳裏に浮かぶ民の苦しむ顔が、エリアーナの中で激しくせめぎ合った。震える唇を、彼女は強く噛みしめる。やがて、その白い顔に、まるで夜明けの光が差したかのような、穏やかでさえある微笑が浮かんだ。
彼女は、そっと立ち上がり両手を広げた。
「……わかりました。黒き竜よ。わたくしの身で、民が救われるのであれば」
震えは、もうない。澄み切った声が、洞窟に響く。
「このエリアーナの人生、喜んであなたに捧げましょう」
その言葉を聞き、黒竜は初めて、その黄金の瞳をわずかに細めた。それは驚きか、あるいは悠久の時を生きる者が見せた、ほんの一瞬の敬意だったのかもしれない。
『…契約は、成立だ』
地響きと共に告げられたその言葉を最後に黒竜は洞窟から姿を消したのだった。