全ての始まり
静寂が支配する洞窟の奥深く、その場所はまるで神殿のように広大だった。天井からは鍾乳石が巨大な牙のように垂れ下がり、奥には地底湖の冷たい水面が、どこからか差し込むかすかな光を揺らめかせている。その広間の中心に、夜の闇そのものを切り取って形作ったかのような黒竜が横たわっていた。
竜の体躯は、小さな丘ほどもあった。一枚一枚が黒曜石のように硬質な光を放つ鱗は、所々が剥がれ落ち、その下からはおぞましい傷口が覗いている。かつては空の支配者として君臨したであろうその翼も、片方は無惨に引き裂かれ、力なく地面に垂れていた。苦痛に満ちた寝息が、洞窟全体を微かに震わせる。
その絶対的な存在の前に一人の女性がいた。白を基調に青や金の刺繍が所々に入った法衣を着ており、本来であれば彼女の持つ美しさと法衣の神聖さがあいまって女神が降臨したかの様な厳かな雰囲気を醸し出していたに違いないが、今の彼女は法衣に血痕のような汚れがあちこちにあり刺繍もほつれて色褪せ、顔にも隠せない疲れや焦りが出ていて悲壮感しか漂って来ない。
恐怖に青ざめた顔を気丈にも上げ、震える足で一歩、また一歩と竜に近づいていく。彼女の小さな体は、巨大な竜の影に飲み込まれそうだった。
「偉大なる黒き竜よ…」
凛としながらも、か細く震える声が静寂を破った。
竜の、溶かした黄金を思わせる巨大な瞳がゆっくりと開かれる。その視線は、人間など取るに足らない虫けらを一瞥するかのように冷ややかで、圧倒的な威圧感を放っていた。彼女は思わず息を呑んだが、ここで退くわけにはいかなかった。
彼女は震える声で続けた。「我が名はエリアーナ。豊穣の女神に仕える者です。天啓を受け、こちらであなた様が昔の傷を癒していると知りました。」
竜は答えなかった。ただ、侮蔑と警戒をない交ぜにしたような視線を彼女に注ぐだけだ。その視線に射抜かれ、エリアーナの額には脂汗がにじむ。それでも彼女は、意を決して膝をつき、深く頭を下げた。
「不躾な願いであることは承知しております。傷つき、お休みになられているあなたを煩わせるべきではないことも…。しかし、どうか、どうか我らをお救いください」
エリアーナの声は、次第に切実さを帯びていく。
「今、我が国は魔族に襲われ、土地は奪われ、人々は飢えと渇きに苦しんでいます。このままでは、多くの命が失われてしまうでしょう。どうか、あなたのそのお力で、魔界の者達を追い払ってはいただけないでしょうか」
その言葉を聞いた瞬間、竜の喉の奥から地響きのような唸り声が漏れた。
『…我に許しを請うのではなく、力を乞うか、人間の女よ。』
声は直接耳に届くのではなく、頭の中に直接響き渡るような念話だった。その声は、古の岩盤が擦れ合うような、深く、そして冷たい響きを持っていた。
『我を傷つけたのもお前達ならば、救いを求めるのもお前達か。あまりに身勝手であろう』
「おっしゃる通りです」とエリアーナは顔を伏せたまま答えた。「この場所は救われる道がないかと何度もお祈りし、一握りの可能性として女神様から教えていただきました。あなた様が言われる様に私たちはあまりに愚かで身勝手な生き物です。しかし、私は罪のない民が命を落としていくのを見過ごすことはできません」
彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、恐怖を乗り越えた強い意志の光が宿っていた。
「偉大なる竜よ。もし、この願いを聞き届けてくださるのなら、私の命をあなたに捧げます。私の生命力で、あなたの傷を癒してください。そして、残された人々を救うため、一度だけで結構です。どうか、力を…」
竜はしばし黙り込んだ。その黄金の瞳が、エリアーナの覚悟を測るかのように、じっと彼女を見据えている。洞窟の中には、竜の荒い息遣いと、地底湖の水滴が落ちる音だけが響いていた。やがて、その重々しい口が、再び開かれた。
『…その神力、そうか思い出したぞ、お前はあの女の信徒か。しばらく地上に出ておらぬ内に…あの女も此方ではもう力をふるえぬか。』
竜の言葉には、先程までの冷たさとは違う、かすかな興味の色が混じっていた。傷を癒す黒竜と、命を捧げようとする信徒。二つのまったく異なる存在が、洞窟の奥深くで、世界の運命を賭けた静かな対峙を続けていた。