かってに源氏物語 末摘花編 及び賢木編 前半( 一 ~ 二十 )
末摘花とはどんな女性はで、どんな展開が始まるのでしょう。
楽しみです。
結局は光源氏様に捨てられる可哀そうな女?
さてさて・・・・
誠に申し訳ございませんが、この末摘花の冒頭に賢木編(一~十五)を加えさせていただきました。一編の文字数制限上、一部をこちらに引っ越しさせていただきました。
かってに源氏物語
古語・現代語同時訳
原作者 紫式部
第十巻 賢木編 前半( 一 ~ 十五 )
上鑪幸雄
一
斎宮の伊勢への御下りが近う成り行くままに、御息所様は物思いに沈み、心細く思保すに、
『源氏の君と誤解を招いたまま伊勢へ下るには未練がある。葵の上から受けた屈辱は許し難いが、その恨みは呪い殺すほどではなかった。しかし、この事を源氏の君に如何に理解させる事が出来ようか。
君は私に疑いの目を向けている。あの怒りに満ちた心の中に、どこに這入り込む隙があるというのだ。
ここは無駄な言い訳をするよりも、いさぎよく都落ちし、斎宮の役職を果たした後、堂々と戻ってくる方が得策ではないか。四・五年も経てば源氏の君の怒りも静まるだろう』
などと悩み賜う。
「しかも都人までが疑いの目をわしに向けている今となっては、何を遠慮する必要があろうか。悪女は悪女らしく好き勝手に振舞う方が、観衆の心を喜ばすのではないか。
あれ程やんごとなく目障りで、煩わしき物に覚え賜えりし左大臣家・大殿の葵の君も亡せ賜いし後、今では世間の人々も、
『源氏の君と御息所が復縁するのが楽しみじゃわい』と期待しているではないか」
さりとも伯母、甥の仲の良い間柄として、色恋の関係などあるまいに、親族として親しくお付き合いするは当然の事。誰に遠慮などする必要があろうか。
あの柔らかい肌に触れ合い一夜を過ごす事ができるならば、この世のあらゆる煩わしきものを忘れさせてしまう。あれは一時しのぎの快楽を楽しむには、絶品の上玉だ」
世人も『御息所が自由気ままな後家暮らしで、
『誰と一夜を共にしようが止められたものではない』と聞こえ扱い、斎宮殿の宮の内にもお仕えする女官にも光源氏様の人気は絶大で、
「もし光源氏様が御忍びで参ったならば、裏口からこっそり中へ入れて差し上げましょう、秋子斎宮様か御息所様のどちらかに御逢いなさるにしても。私どもは大歓迎ですわ」
と、心ときめきせしを、しかしそれは世間の噂だけで、光源氏様が野々宮の嵯峨野を訪ねる気配は一向にありませんでした。
その後しも、光源氏様の噂も掻き消えて、御息所様は光源氏様との決着が気掛かりで、左大臣家の息の掛からない二条院をこっそり訪ねたのであります。
「少しでも源氏の君の誤解を解きたいと思う。源氏の君にひと目合わせて下さらぬか」
と、紫の上に申し入れしたのですが、取り次いだ紫の上に源氏の君は、
「御息所が今さら何を弁解しようというのだ。とっとっと帰ってもらえ」
と言う源氏の君の、浅ましき御持て成しを見賜うに、御息所も、
「誠に憂鬱しと思えし御言葉じゃ。散々世話になって於きながら、御息所を追い返すなど十年早い。覚えておれ」
と、思す事こそ『ありけめ』と、知り果て賜いぬれば、よろずに源氏の君の孤独な哀れを思し捨てて、御息所様は下道に二条院を居出立ち賜う。
つづく
二
親が斎宮に付き添いして伊勢へ下り賜う例も、事に無くはなけれど、
「秋子斎宮は気弱な姫児じゃ。おとなしい性格を良い事に、神官が体力を無視した難題を押し付けぬとも限らぬ。わしが共に伊勢へ下り秋子を守ってやらねば、我が子の命も危ういかもわからぬ」
母親としては、いと我が娘を見放ち難き御有様なるに事付けて、
『京の人々の好奇心に満ちた監視の目を逃れるには、伊勢へ下るしか他に方法はあるまい。これは良い機会じゃ。煩わしき浮世を捨てて地方へ行き離れむ。これも何かの定めだろう』
と思すに、決断を下すと御息所様の御気持ちも楽になりました。
一方の源氏の君は野々宮の御息所をそっけなく追い返した物の、幼少から守られて育てられた恩義も思い出されて、大将の君、
「さすがに今は後悔の念に思い悩まされてならむ。御息所がわざわざ二条院を訪ねた事には、よほど深い事情があったのだろう」
朱雀帝の内管が、
「御息所様は御悩みの御様子。何もかも捨てて伊勢へ下るにしても、
『せめて源氏の君には、葵の上を呪い殺す考えなどなかった』
と、分ってもらいたかったのではないでしょうか。どうぞ光源氏様、御息所様の御気持ちを分かって差し上げて下さいませ」
と言う進言も有り、
「やはりここは御息所と対面し、決着を付けねばなるまい。伊勢へ下った後から後悔しても、四・五年も悩まされる事になる」
と、半端な気持ちで掛け離れ賜いぬる迷いも口惜しく思されて、
「御息所様が伊勢へ下る前に御挨拶申し上げるのが人の道であるとようやく気が付きました。どうぞ御体だけには気を付けて御下だり下さいませ。気持ちばかりの餞別品々ではございますが、どうぞ御納め下さい」
と、御消息ばかりは度々御訪ねして面会を申し込みなされど、斎宮殿の嵯峨野は衛兵の男子禁制の掟が厳しくて、
「朱雀帝の斎宮がおわします神聖な場所なるぞ。男の出入りは絶対に許されぬ。神のみそぎの場所を何と心得る」
と、門番に追い返されて、何の成果も果たせぬまま哀れなる有様にて、度々御訪ねしては、はかなくもあきらめ切れぬまま度々通う。
「御息所様、源氏の大将が度々御訪ねしている御様子。会ってやらなくてよろしいのですか。『せめて伊勢へ下る前に一度お会いしたい』と申し上げておりますのに・・・後悔が残りますよ」
朝顔の君はたまりかねて御息所様に申し上げました。
「斎宮殿に於いて対面仕賜わん事の理由をばや、分り切った事ではあらぬか。それは今の帝を汚す事になるからじゃ。如何にならず者のわしとて、それぐらいの事は分かっておる。
我が子がお仕えする斎宮殿に於いて、男と密会するなど、今さらあるまじき事」
と、御息所様も娘の立場を考えて思す。
世間の人は、度々訪れる光源氏様の御厚意を心付きなしと思い置き給う事も有らむに、作者の我は今少し、御息所様の思い乱るる事の、逢瀬の気持ちが勝るべきを、複雑微妙な気持で受け止めております。
「なおかつ斎宮殿を抜け出して、光源氏様の御車の中へ飛び込みたかったのではあるまいか。後のことなどどうでも良かったのではないか。娘の斎宮としての立場がなかったならば・・・」
と、そう思うております。そうでなければ御息所様は、可愛げのない薄情な愛無し女と、世間の人々は心強く思すに違いないと御思いになるべし。
案の定、御息所様は、元の六条殿にはあからさまに、実家の御様子が気掛かりな御様子で、度々渡り賜う折々もあるれど、
「里の家がどうなっておるか気掛かりじゃ。『斎宮の役職を引き受けたからには、帝に我が家をお守りしていただかなくては困る』と、申し上げておるが、我が目で確かめぬ事には安心できぬ」
と、痛う度々忍び参り賜えれば、世間の人々も、まして光源氏様も御息所様が野々宮ばかりに御住まいと考えて、六条で密会する事など、源氏大将殿、何も考え、知り賜わず。
厳格に守られた斎宮殿は、たやすく御心に任せて参り賜うべき御住み家にはあらねば、光源氏様の足取りもおぼつかなくて、御息所様と御会いした最後の日が何時だった、その日もおぼつかなくて、
「再会を思い立った月日もなかなか隔たりぬる」
と、悩み賜う。
ちょうどその頃、桐壺院の身の上にも、驚ろ驚ろしき病状の変化が見られるように御成りになりまして、幸運にも深刻な悩みにはあらで、
「そう心配しなくとも良い。年のせいじや。八十を過ぎたら誰でもひ弱になるわ。心配致すな」
と、例ならず光源氏様を時々悩ませ賜えれば、御息所様との再会も思うように進みません。
つづく
三
宮廷に於いては朱雀帝の補佐役として、いとど御心の休まる暇もなけれど、御息所様の伊勢へ下る日も差し迫り給えれば、仲直りが果たせぬ悩みも辛き物に思い果て賜いなむも愛おしくて、
「御息所様との和解が決着しない事には、どうも心にわだかまりが残ってかなわぬ。宮廷を一日休んだ所でどうにかなる物でもあるまい。桐壺院もそう簡単に死にやせぬ」
と、思されて、
『野々宮に通う我を、世間の人々がどう言おうと知った事か。人聞きを気にするとは情けなくやないか』
と、思い起こして、月夜に野々宮に詣で賜う。
九月七日ばかりとなれば、むげに伊勢へ下る日も今日、明日と焦り思すに、女方も心慌ただしく誤解を解きたい気持ちが増して、決着を付けたい気持ちも無くはないけれど、光源氏様の御文も度々重なって、
「立ちながらの御簾の影越しに御挨拶だけで十分でごいます。『ひと目逢いたい』と、お伝え下され。何もお構いせずとも、それで良いのです」
と気遣い、度々面会を申し込む御消息ありければ、いでや心は、本心を隠せず揺れ動いて、
我をのみ 思うと言わば あるべきを いでや心は おおぬさにして
我をのみ 思うと言わば 妻にして いでや心は 玉串にして
(古今集 源氏物語ではいでやのみ用いられています)
とは思し煩いながら、いと余りにも賢母として埋もれ難きを、誰にも悟られず秘密の中で『斎宮院の格子の物越しに対面されるは許されるか』
と結論付けて、人知れず、
「御待ち申し上げます」との声、聞こえ賜いけり。
宮殿からは、はるけき遠く離れた寂しい野辺を、野獣や鳥の鳴き声に脅えながら、光源の君、御一行は嵯峨野へ向かう。林を分け入り賜うも会いたさゆえの一途な心に因り、いと人に惑わされるも哀れなり。
彼岸花や撫子など、秋の花は皆衰えつつ、すすきの穂がたなびく浅茅が原も枯れ枯れなる荒れ地で、嵯峨野の騒がしい虫の音に心は脅かされ、山の松風すごく吹き貫き、
「このような寂しい場所に来てまで、御息所様に御逢いしなくてはならないのですか」
と言う惟光の声にも耳を貸さず、光源氏様は野々宮に急ぎ賜う。
琴の音に 峰の松風 通うらし いずれのをより 調べ染めけむ
琴の音に 峰の松風 吹き降りて いずれの音も 闇に染めけむ
(先人斎宮の母 微子 源氏物語にはありません)
茅の擦れる音に合わせて、惟光が到着の合図を知らせる口笛を吹きたれば、松風の騒がしい音に掻き消されて、人の逢引の声、その事も聞き分からぬほどに、斎宮殿の人々は何も知り給わず。
「朝顔の君はおるか。惟光じや。光源氏様をお連れ申したぞ」
という度重なる声もおかしくて、人声の合間合間に聞こえ来る物の音ども、絶え絶え聞こえたるに、野々宮の闇はいと妖艶なり。
つづく
四
睦まじき斎宮の御前に十余人ばかり、到着した御随身、事々しき武骨な姿ならで、そっと小柴垣の中をのぞき賜えれば、斎宮にお仕えする人々は、痛う忍び浮世を避け給えれど、
「事に引き繕い給える御持て成しの御用意、いとめでたく豪華に見賜えれば、斎宮の館も浮世と変わらぬ」
と、光源氏様の御供なる好き者ども、
『嵯峨野の神聖な所柄さえ、生きる楽しみを求める人間の欲望は変わらぬと見える』
と身に凍みて思えり。まして光源氏様は、
御息所様が、このように盛大に御持て成しする御気持ちがあったのならば、
「などて、もっと早く立ち馴らさざりつらむ。素直に『御会いしても構いません』と言えば、もっと早く来たものを。相当に寂しい思いをさせてしもうた」
と、過ぎぬる優柔不断な日々を悔しう思さる。
今にも吹き飛ばされそうな物はかなげなる小柴垣を、竹林と隔てる大垣にして、板ぶき屋根ども辺り見すぼらしく、壁の辺りも貧弱で、いと仮染めの間に合わせの建物なり。
「それにしても斎宮様が祈祷をするには貧弱な建物ではないか」
と光源氏様が御気の毒に思って言えば、
「野々宮は天皇一代事の仮の一時の御住まいでございます。三か月ほどで壊れる物を、丁寧な館には出来ぬそうでございます」
と、小君が答ゆ。
丸太を火で焼いた黒木の鳥居どもは、さすがに神神しう見渡されて、男が逢引きに訪れるには煩わしき景色なるに、神司の者ども、ここ、かしこに配備され、打ちしわぶきて咳払いするに、
「さすがに神のみそぎの場所で逢引を手助けするとは気が引けるのお。これはほんの気持ちじゃ。帰りに酒代の足しにしろ」
と、惟光もさすがに気を利かせて同情し、わずかな金を渡す。
神官の者ども、
「おのがどっちの味方になるか。神の味方か、権力者か」
一言『朱雀帝の野々宮を何と心得る。御控えなされませ』と苦言なる物、打ち言いたくなるそうなる気配なども、
『光源氏様の頼みならば聞くしかあるまい』
と、他には何も言い出せず、今は様変わりして見る。
人々は遠慮して遠くへ立ち去り、警護の者駐留する火焚屋のかがり火、かすかに光りて、人気少なく空気もしめじめとして、人が暮らすには寂しげな所なり。
ここに前皇太子妃とて物おわしき人の仮住まいを置くとは、栄華の月日を隔て賜えらむほどを思しゆるに、御息所様の宿命は、いといみじう哀れに思え心苦し。
神殿の奥に建てられた人々が寝泊まりする北の対の、さるべき暗闇に隠れ賜いて、
「朝顔の君、光源氏様がおいでじゃ」
と、来訪を告げる御消息聞こえ給うに、巫女どもの笛や琴、太鼓の遊びは皆辞めて、心憎き神にお仕えする謙虚な気配、あまたに聞こゆ。
「御息所様は、まだ迷っておいででございます。もうしばらくお待ちくださいませ」
などと言う、何くれの人づての御消息ばかりにて、斎宮殿に到着した物の、再会のめどは一向に立たず、御忍びでひっそりと逢うならばともかく、
「惟光は何をしておるのだ、歯がゆいのお。警備の者が内裏に斎宮殿の異常を知らせ、兵部省の者が駆け付けたならば何と言い訳する。宮殿内ならともかく、神のおわす神聖な場所で、自ら対面仕賜うべく、歩き回る訳には行かぬではないか」
御息所様を自ら探し回るべき有様にもあらねば、
『いと物々し』と思して・・・・
つづく
五
「かようなる度々の歩きも、今は尽きなきほどに回数を重ねる事になりにて、煩わしはべる苦労を思保し知らば、御息所様もかう、締め飾りの外に長くは持て成し賜はで。
『良くぞ御越し下さいました』
と、いぶせう不愉快な思いをさせはべる事をも心を痛めて、今は斎宮の母としての役目をあきらめ、早く会いたいと思いはべりにしがな。今直ぐに御逢いできるやも知れぬ」
と、豆やかに思考を重ねた御気持ちが聞こえ賜えば、随身の人々、
「げに片腹痛う不便な場所に立ち煩わせ給うに、心苦しゆう申し訳なく思いまする。いとおしう難儀を御掛け申し上げます」
など、主君を思いやる扱い聞こゆれば、
「いさや、まったくその通り。ここの警備の者の人目も見苦しゆう、長々と立ちすくんでは、逢引きの恥ずかしい姿を人に見られるではないか。かの
『男を欲しい』と思さむ事も若々しう、御息所様はご自身の欲望の趣くままに居出ん行動が良い所。今さらに乙女らしき恥じらいを見せるとは、慎ましきうぶな事。おっほほほ・・・似合いませぬ」
と思すに、いと物憂鬱しけれど、
「嫌です。嫌でございます。このような神にお仕えする場所で、男と逢ったと聞こえたならば、都の人々は何と申しましょう。どうぞ、御帰り下さいませ」
と、女は情けなう持て成さむも猛々しからねば、安っぽい女と見下される事もくやしくて、とかく打ち嘆き安らい、恥じらい給いて、部屋の奥からすのこ近くへ、渋々いざり居出賜える御気配、いと心憎し。
「こなたは好きな男を、すのこばかりの縁側の外に置くとは薄情ではないか。せめて廂の内側に入れて賜うれ。外は人目が気掛かりじゃ。御簾影越しの対面ならば許されはしよう。そなたも近くへはべれや」
とて言って、縁側の近く、すのこへ上り賜えり。
華やかに差し居出給える夕月夜に、三日月の弓矢は御息所の心を射抜いて、光源氏さまの積極的に打ち振る舞い賜える有様、誰も匂い似るものなく、努めて自然なままでめでたし。
月頃の積もり積もったお話を、付き付きしゆう親族として馴れ親しみ聞こえ給わむも、まばゆきほどの久し振りになりにければ、話す言葉もなかなか思い浮かばず、
「はたはたどうした物か」と迷った末に、近くに生えていたひ榊の枝をいささか間に合わせに折りて、小君が持ち給いける文を添えて簾の下から差し入れて一言、
「榊の葉の色は一年を通して緑色。私が御息所様を思う気持ちは、たとえ世の中がどう変わろうとも同じでございます」
と言う。
「榊の変らぬ色をしるべにしてこそ、神の斎垣も超えはべりににけれ。さも心憂鬱しく、罪を犯してまでここを訪ねるとは何事ぞ」
と、御息所様の御声聞こえ賜えれば、
「恋に燃えた蛍は、火の中とて飛び込みまする。私の御息所様を思う気持ちも同じでございます」
と答えるなり。この場面は、
血早ぶる 神垣山の 榊葉は 時雨に色も 変わらざりけり
荒々し 神垣山の 榊葉は 時雨に色も 変わらざりけり
ちはやぶる 神の斎垣も 超えぬべし 大宮人の 見まく欲しさに
血早ぶる 神の斎垣も 超えぬべし 斎宮人の のぞき欲しさに
我が庵は 三輪の山元 恋しくは とぶらい来ませ 杉立てる角
我が宿は 三輪の山裾 恋しくは 遊びに来ませ 杉生える角
乙女子が 袖振る山の 瑞垣の 久しき世より 想い染めて来
斎宮が 袖振る山の 我が宿に 久しき世より 忍びて来ませ
榊葉の 香をかぐはしみ 留め来れば 八十氏人ぞ まといせりける
榊葉の 香を懐かしみ 留め来れば 八十氏人ぞ まとわりうざし
伊勢物語や古今集などにこうした和歌を参考にしながら、賢木の巻を紫式部は書いたものだと思われます。
神垣は 印の杉も なき物を 如何にまがえて 折れる賢木ぞ
神垣は 標の杉も 神なるに 如何に曲がえて 折れる賢木ぞ
と、聞こえ給えば、
乙女子が 辺りと思えば 賢木葉の 香を懐かしみ 留めてこそ折れ
斎宮が そこと思えば 榊葉の 香を振りまき やむを得ず折る
大方の男の気配煩わしけれど、光源氏様は御簾の下から頭をくぐらせて、御簾ばかりは身を隠すために引き着て、長押しの敷居に押し掛かりて頭持ち上げ、腹這にて居賜えり。
つづく
六
男が長押しに寄りかかり中の女を見つめる仕草は、恋の成就を望む暗示に相違ないけれど、心に任せて見奉りつべく、無遠慮な態度は、女に警戒心を呼び起こさせる。
恋人も慕いざまに思したりつる五年ほどの年月は、再びこうしてお会いできた喜びに、相手ものどかに親しくなりつる自分の気持ちと同じだと思いがちなり。
『どうせ女も好き者。男がここにいると分かっていながら、ただじっと待っている姿は、早く抱きしめて欲しいと願っての事よ』
と思える男の御心のおごりに、さしも相違なく思されざりき。
また心の中に、
『如何にぞや、傷ありて我が正妻を呪い殺した罪の意識に、御息所様はここ半年ばかり苦しまれたに違いない』
と思い聞こえ賜いし後、女も今の世に生きる生命力も旺盛で、半年の月日は、葵の上に対するはたはた哀れの慰めも冷めつつ、かくこのように再び光源氏様と御仲も隔てぬるを、
『あれほど尊敬しあった珍しき美男と美女の間柄ではないか。御対面の昔を覚えたるに、何を今さら正妻に遠慮がいるものか、馬鹿馬鹿しい。叔母と甥の間柄なと考えれば、世間に遠慮など必要ない』
と、この関係を哀れと思し乱るる事限りなし。
御息所は、
『今こうして世間の咎めを無視してまで私を訪ねたことは、たった一人の味方、左大臣家の反発を招くことになるだろう。桐壺院もこの先、そう永く生きるとは思えぬ。宮中で生き残れるのだろうか』
と、哀れと思し乱るる事限りなし。御息所様は、来し方の行く先々を思し続けられて、心弱く泣き賜いぬ。女は、
「源氏の君が今こうしてお訪ね下さったことは、伊勢へ下る斎宮と私に挨拶に来ただけなのだ。えしも色恋の気持ちなど見えじ。御神木の賢木を差し入れた事が何よりの証拠ではないか」
と心を思し包むめれど、敷居を超えて、え忍び、中の女を覗き賜わぬ御景色を、
『いよいよ恋心の御気持ちに変わりぬれ。私を抱きしめたいのかも分からぬ』
と半分期待も込み上げながら、いよいよ心苦しう思さるる。
「なりませぬ。それ以上斎宮の館に足を踏み入れてはなりませぬ。神の怒りに触れたくなければ、すのこの板敷に戻り、早くこの野々宮から立ち去る事です」
と、なおこれ以上の逢瀬を思し留まるべき有様にぞ、聞こえ賜うめる。
月も雲に入りぬや、哀れなる空を眺めつつ、
『あの圧迫感に満ちた柔らかい体を抱きしめ、固いあそこを触りたいものよ。しかし、それはならぬ。ここは神のおわする館ではないか』
などと恨み給える有様聞こえ賜うに、ここら性欲と自制心の思い集めたる様々な考えに、辛さも消えぬ葛藤は、壮絶な物てあったろうと、世間の人々は思うべし。
光源氏様も、
「ようよう今は、恋の欲望を果たすも己の気持ち次第。相手の女もそれを望んでおるではないか。今さら何をためらっておる」
と、自制心からの思い離れ賜えるに、
『さらばよ、思い切って立ち上がり、女を強引に抱きしめてやるか』
と、なかなか心が勝手に動きて、良心は思し乱る。
宮殿の政務所、紫宸殿に於いては、重臣として政務に意見を申し述べるべく、殿上の廂に席を構える若公達など、主君の野々宮訪問に同行させるべく打ち連れて来た連中は、二人の御様子を伺いながら、
『もっと積極的に迫るべき。神の領域を超えて踏み込みながら、今さらためらうとは何事ぞ。たとえ強引に、御息所様に思いを果たした所で、今さら罪は変わりもせぬ』
とはやし立て、とかく立ち煩いなる供の者が庭から覗く気配のたたずまいも、げに妖艶なる主君の方に自分の思いを重ねて、影ながら加勢を受け張りたる有様なり。
それから八時間ほど過ぎて月も西の彼方へ沈んだ頃、廂から消えた二人は、思欲し残すことなき永遠の時間を過ごして、元の親しき御仲らいに見え賜える事ども、めでたし、めでたし。
「御息所様の艶やかな御体は、昔とちっとも変わりませぬな」
「何を仰せです、この年寄りを捕まえて。若君のふっくらとして御体は、よりたくましくなられました。宮中の誰もが若君を恋しがるのも無理はありません。この色男め」
「何を仰せです。伊勢の御勤めが終わりましたら、再び御会いしましょうぞ」
「これで京に帰って来る楽しみが増えたわい」
「はははは・・・」
二人の親しき御話の聞こえ交わし賜う事ども、同じように真似び、自分も実行したいと思いやらむ方も少なくなし。
外に居出賜えば、ようよう明け行く空らの景色、見事に空は晴れ渡り、すじ雲のゆったりとたなびく姿は、ことさらに二人の祝福を創り居出たらむ様子なり。
暁の 別れはいつも 露けきを こは世に知らぬ 秋の空かな
暁の 別れはいつも 悲しきを 子は世を知らぬ 夢の中かな
光源氏様は、居出掛けだてらに、御息所様の御手を捕えて、安らい賜える。
つづく
七
源氏の君と過ごしたひと時は、いみじう不吉でも、昔の仲を思い出させて楽しく懐かし。
風、いと冷ややかに吹きて、心に隙間風が入り込む頃、待つ虫の鳴き枯らしたる声もしつこく、二人の禁断の恋をあざ笑うかのようで、知り顔なる嫌がらせを、
「何は事あれ、源氏の君との恋は、世間の懐疑的な目を笑い飛ばす良い気晴らしにになった。斎宮の母に押し付けられた犠牲を考えれば、これぐらいの楽しみは当然許される事。これで心置きなく伊勢へ下れる。
『噂がどうなろうと知った事か。五年後の都入りをどうするか』
その事は、その時に考えよう」
女はさして、先々の事など思う事なきだに、その時その時の瞬間を思うように生き、世間の噂など聞き見過ぐし方げなるに、まして本人の割り切れなき御心惑いも、
『なかなかそうとも言い切れぬ。この不安な胸騒ぎは何を暗示するのか』などと迷わされ、心の整理も思うように行かぬにや。
大方の 秋の別れも 悲しきに 泣く音へ添えそ 野辺の松虫
たいがいの 秋の別れは 悲しきに 泣く身に添えよ 野辺の待つ虫
右大臣家出身の帝に、わざわざ縁の薄い御息所の秋子姫が斎宮に選ばれる事は、不本意な役職と悔しき事多かれど、帝の皇太后である弘徽殿の御意向には逆らえず、
「その役目、御辞退申し上げます」
などと言える甲斐もなければ、女はすべてをあきらめて北の館の縁側に立ち、
『明け行く空も、はしたなうて、昨夜の思いでも罪なる逢瀬かな』
などと思い、顔を隠しながら縁側に居出賜う。遠くに見える光源氏様の御帰りの道のほど、草原はいと露景色。
見送る女も、え心強からず、伊勢への道のりは遠く、
『再び光源氏様と御逢いできるのか、これが最後の別れではないか』
不安は名残り惜しく哀れにて、去る一行を眺め賜う。
空を見上げれば、ほのかに見奉る月影の御かたち弱弱しくて、なお奥の御部屋にに留まれる匂い袋の薫りなど、若き巫女の人々は身にしみて嬉しがり、
「まあー、光源氏様の香料は何と素敵な匂い。この甘い匂いを胸いっぱい吸い込めば、まるで光源氏様に抱かれたかのよう」
などと、過ちも光源氏様としつるべく、めでたき喜びの声聞こゆ。
「宮殿ヘの道のりは、伊勢に比べては、如何ばかりの道のりにてか。掛る御息所様の悲しき御有様を見捨てては、悔いなき別れ聞こえん。御息所様は光源氏様に御逢いしたばかりに京の都に未練が残るやも」
と、御仕える女房どもは、伊勢へ下る御息所様の事を思い、訳も合いなく涙ぐみ合えり。
野々宮の草原は朝霧が立ち込め、萩の花が咲き誇れど、誰一人来る人ぞなき。光源氏様が立ち去った後は、静けさだけか残っておりました。
お昼近く返礼の御文あり。常よりも内容が細やかなるは、御息所様が源氏の君に思しなびくばかりなれど、
『今さら源氏の君の御近くで暮らしたい』
などと、また打ち返し目的を定め兼ね給うべき迷いに、成り兼ねない事にならねば、
『御息所様の行く末を案じております』
という優しい御言葉も、いと甲斐なし。
男は、差しも御手紙に残した優しい言葉など、真剣に思さぬ事だに、女をつなぎ留める見せ掛けの情けの為には、良く良く優しい言葉を言い続け賜うべかめれば、
「まして我が妻を呪い殺した恨みは生涯忘れてはならぬ」
と許されぬ傷も残れば、押し並べての平然とした面には、すっきりとゆかぬ思いが残り、聞こえ賜わざりし御仲の良さも、かくて昔のように背き賜いなんとするを、懐疑的に思したり、
『いやいや、今さら昔の事を恨んでも、どうにかなる訳でもあるまい。子供の頃の恩を大切にお守りせねばならぬ』
などと、口惜しうも、愛おしいく思し続け、
『この先どうした物か』
と悩むべし心情であったろうと思われます。
つづく
八
源氏の君はその後、二人のため旅の御装束より始め、伊勢での暮らしに困らぬようにと、調度品や、生活用品、寝具に至るまであらゆる生活物資を整え賜う。
「食べ物については、そのつど困らぬように、都から届ける所存でございます」
とあり。ややもすれば、女二人で旅の身支度を整えるなど無理だとお感じになられたのか、荷造りの人々まで手配仕賜う。
何くれの専門的な職人がこしらえた調度品など、いかめしう厳格に選び優れた珍しき有様の物にて、斎宮にお仕えする巫女どもは溜息がこぼれども、
「伊勢の片田舎に都落ちした者が、これらの高価な品物で身を囲んだ所で何の価値があるものか。これらの値打ちは都の者でしか分からぬ」
と、光源氏様の御息所を思う気の毒なとぶらい聞こえ賜えど、女は何とも感動思されず。
伊勢へ下る日は一刻一刻と迫り、慌慌ただしう野々宮の者は動き回れど、世間の人々は、
「光源氏様と御息所は、この所毎晩のように御逢いなさっているのだとよ。別れの迫った御二人には、世間の好奇心など目に入らぬと見える」
などと、悪い噂ばかり誇張して、心浮気な名のみ流して、
「野々宮の掟に背いてまで源氏の君と御逢いしたからには、世間の批判的な噂も仕方があるまい。しかし私は世間が騒ぐほどはしたない女ではない」
などと、御息所様は浅ましき身の有様を嘆き賜う。
「世間の噂など、今さら始めたらむ騒ぎのようではない。悪女の様に言われるのは仕方がないこと。好きなように言わせておけば、それで良いのた。
大臣家に生まれ、一時は皇太子妃として名を上げたわが身を、世間の人々は噂話の絶好の餌食と思うておる」
伊勢へ下る日が程近く押し迫り、平穏な暮らしが届かぬままに暮らす日々を、御息所様は起き伏しに嘆き賜う。
秋子斎宮は若き御心に、
「不忠になりつる母の御居出立ちが、かく伊勢へ下る意向に定まりつつある事は喜ばしいこと。伊勢神宮に参内したからには、神の厳格なしきたりに従い、巫女となり私を支えるに違いない」
と、嬉しとのみ思したり。
世の人々は御息所様の事を、
「斎宮の母が共に伊勢へ下るは御気の毒な事。このような事は遠い昔、一件あっただけと聞くが、なかなか例なきこと」
「いやいや、母君の付き添いは優しくも聞こえるが、神の神事に男を知った女が同行するは不謹慎な事。伊勢への奉仕は聖女でならなければならぬ」
などと、非難もどき言葉もあれば、
『御気の毒』と、哀れがりのささやきもあり。事々に人の考えは、様々に聞こゆると思うべし。ただ安易に、
『悪女もどき女』と決めつけ扱われぬる一般市民の横暴ぎわは、思慮に乏しく安易げなり。
なかなか光源氏様のような方を手玉に取ったり、左大臣家の娘を恨んだり、斎宮殿に男を呼ぶなど、世に抜け居出ぬる人の行動は、我々一般市民をわくわくさせる。
馬を乗り回すこともあった人への御当りは、所責き非難の言葉が多くなむ。
十月十六日、嵯峨野の野々宮を出発した斎宮は、桂川にて御祓いの儀式を仕賜う。右大臣の特別な御計らいにより、常日頃の禊の儀式に勝りて、参議の長奉行送使など、
「朱雀帝の威厳を見せ付ける絶好の機会じゃ。これまでにない規模に仕立て、更ならぬ上達部も十分とは思うが、やんごとなく華やかに覚えある若者を揃えよ」
と、重臣の若者を選ばせ賜えり。桐壺院の、兄嫁に対する御心寄せもあれば、盛大になるべし。
河原の掛け幕の中から斎宮様が居出賜うほどに、源氏大将より、例の伊勢へ下る訓示が、例の尽きせぬ大切な役割である事ども、
『天照大御神を敬い、心しめやかに桐壺帝の天皇即位を報告せよ』
と、聞こえ賜えり。
「かけまくも、かしこきかしこき御前にて、帝の御意向を伝えるものなり」
と、光源氏様は白糸の由布に榊の枝を付けて御祓いを仕賜う。
つづく
九
天の原 踏みとどろかし 鳴る神も 思う仲をば さくるものかな
天の国 踏みとどろかし 鳴る神も 二人の仲を さぐるものかな
(古今集 源氏物語では鳴る神のみ使用)
源氏の君は『鳴る神だにこそ』と思い、心あれば、
八洲守る 国つ御神も 心あらば 飽かぬ別れの 仲を断れ
人守る 国の御神も 心あらば 惜しむ別れの 定め断れ
と思う賜ふるに、飽かぬ名残り惜しき心地、斎宮を見賜いて、しはべるかな。
『斎宮も中々良い女に育った』とあり。
秋子宮は源氏大将の関心が自分にも向けられ始めた思い、近くで見守る母に代わりて、いと騒がしき神事の最中ほどなれど、厄介な文に対する御返りの和歌あり。
「光る宮への御誉む言葉をば、何とか他へ向けなくてはならぬ。長官殿、この文を届けてはくれぬか」
と女辺担当を通して、かう書かせ賜えり。
国つ神 空に断る 仲ならば なおざり事を まずや正さむ
国の神 空に断る 仲ならば 浮気の恋を まず改さむ
源氏大将は斎宮の御有様を興味ゆかしう思いて、内裏の側室御殿にも参らせたま欲しく思せど、宮中から打ち棄てられ、斎宮を見送る巫女の人々も、
「今さら京に踏み留まるよう説得しても何になる。秋子斎宮は伊勢へ下る覚悟をしているではないか。恋しく思うた所で何になる」
と、悪ろき心地仕賜えば、御自分の未練を思し留まりて、つれづれに寂しく眺め賜えり。
秋子宮のお返りの文が大人大人しき鮮烈な言葉であった事に、源氏の君はほほ笑みて見賜えり。
「秋子は、御年の若きほどよりは『おかしうもませておわす存在』と思うべき乙女かな」
とただならず、恋心が芽生えがちなり。
かう思うように、源氏の君は御息所との思いが成就した後は、
『母に飽きたならば今度はその娘を』
と、例に違える代償の煩わしさに、君は必ず次の女を求める御心に関わる欲張りな御癖にて、紫式部の私から見ても、
『いと良う見奉り、惚れつべかりし軽はずみな男かな。あどけなくいわけなき斎宮の御程を、恋心として見ずに成りぬる事こそ妬ましけれ。世の中、斎宮に対する敬愛の定めなければ、源氏の君は堂々と、夜の神殿へ押し入り、対面するような事も有りなむかし』
などと思す。けしからん事です。
御息所と斎宮が伊勢へ下る日となり、母は心憎く良しある華やかな御気配なれば、宮殿の大通りは物見客であふれ、車多かる日なり。午後の五時頃、申の時に二人は内裏御殿に参り賜う。
御息所は御輿に乗り給える風格につけても、一昔前、右大臣として権勢を振るった父君、大殿様の限りなき威厳の筋に思し、
『権勢を志して、威付き奉り給いし尊敬される六条の家柄にて、わしは桐壺院の兄の妃であった。世が世なら、わしはここの宮殿で中宮として権勢を振るったはず』
と、たちまち宮殿の主の有様に様変りて、
「あおに良し、奈良の都は」
と歌った皇太子無き後の末の世に、たちまち存在感を見させてしまう。
今は斎宮の母君として落ちぶれた我が身が内裏宮殿を見賜うにも、物見尽きせず哀れに思えて可哀そうに思さる。
この御息所は十六にして故東宮に嫁ぎ参り賜いて、二十にして夫を失い、六条の実家に送られ奉り給う。夫の皇太子が殺害された折には、どのような悔しい思いをしたか計り知ぬ。
縁あってか、三十過ぎにしてぞ、今日また九重の宮殿を久しく見賜いける。
その神を 今日は掛けじと 忍ぶれど 心の内に 物ぞ悲しき
恨む神 今日は掛けじと 忍ぶれど 心の内に 怒る悲しき
御息所が和歌を詠みあげると、朱雀帝は、
「斎宮は幾つになる」と近くの内務官に御尋ねになりました。
「もう十四にぞ、成り給いける」
と、内務官が答えれば、ゆゆしきまでに哀れに見え賜うを、帝、朱雀帝は御心動きて、
「斎宮としての御勤めご苦労である。別れの記念にこの御櫛奉り賜うほどに、役目が終わったならば、再びこの宮殿で、十二単をまとったそなたの姿を見せよ。
良いか伊勢へ麻呂の名代として参るからには、その名代として役目を果たせねばならぬ。この黄楊の櫛をそなたの髪に挿したからには、役目が終わるまで京の方へ赴き賜うな」
」
との御言葉あり。
宮殿にいた人々は、いと哀れにて涙を流し、力なくしおたれて、首をうな垂れさせ賜いぬ。
つづく
十
宮殿の外で儀式を待ち続けた家族の人々は、いよいよ随行して伊勢へ居出賜う夫を待ち奉るとて、中央官庁八省の建物の前に、自らの御車を用意して、一行が通り行く旅姿を待ち続ける。
「我が夫もいよいよ斎宮様にお供して、伊勢へ御参拝する身分となった。伊勢へ無事御送りして、早く京の都に帰って来てもらいたいものよ」
そう言いながら待つ御婦人方は数多く、官庁の通りに立て続けたる居出し車どもの、十二単の袖口の数々、色合い目馴れぬ有様にて心憎き景色なれば、
「さすがは我が妻、御息所様の権勢はいまだに衰えぬと見える。こけほど着飾って来るとは、御息所様の生き方を尊敬している証拠であろう。御息所様に御逢いしようと思うても、なかなか会えぬからのう」
と、殿上人どもも、御息所と同じ思いで私的別れを惜しむ声、多かり。
暗うなる頃に居出賜いて、一行が東院の大路を折れ曲がり賜うほどの頃、この辺りは二条院の前なれば、
「光源氏様、御息所様の御一行がそろそろこの屋敷の前を通るそうでございます。通りへ出て斎宮様を御見送りになられますか」
との犬君からのお知らせあり。
「むろんじゃとも。皆で御送りしようではないか。皆付いて参れ」
と大将の君、通の屋敷の前に出で賜う。
「さすがは斎宮様と御息所様。堂々として脇目もくれませんわ。何と気高く立派なお姿でございましょう」
紫の上が大将の君に話し掛けますと、光源氏様は二人が二条院を前に
『無理をしている』と思われたのか、御息所様をいと哀れに思されて、御用意していた文を賢木に挿して、
振り捨てて 今日は行くとも 鈴鹿川 八十瀬の波に 袖は濡れじや
振り捨てて 今日は行くとも 鈴鹿川 伊勢路の波に 袖は濡れじや
との御文聞こえ賜えど、御息所様の御帰りは、いと手元も暗く、見送りの人々で物騒がしき程なれば、また別の日に大津関の彼方よりぞ、御返りの文ある。
鈴鹿川 八十瀬の波に 濡れ濡れず 伊勢まで誰か 想い起こせむ
鈴鹿川 旅は楽しく 浮き浮きぞ 伊勢まで誰も 思い起こせず
御息所様の返歌は事削ぎて同情を軽くあしらい、笑い飛ばして書き賜えるしも、御手は文字もしっかりして、いと良し良ししく生めきたるに、
「女ならば少し弱さを見せて、哀れなる気配を少し添え賜えらしかば、もっと得策になるだろうに」
と、この紫式部は思す。
翌朝二条院は霧痛う降りて、ただならぬ誰も姿を見せぬほどなれば、光源氏様は寂しい朝ぼらけの夜明けに心を痛め、廂の外に出で立ち賜い、庭を打ち眺めて一人ごち語りおわす。
行く方を 眺めもやらむ この秋は 逢坂山を 霧な隔てそ
行く人を 眺めてやらむ この秋は 逢瀬の山を 霧が隔てそ
源氏の君はこの所、紫の上が暮らす西の対にも渡り賜はで、人やりならず自らの御意志で孤独を楽しみ、
「誰も構うてくれるな」
と、一人物寂しげに庭を眺めて暮らし賜う。
まして源氏の君が思いを寄せる斎宮と、御息所様の旅の空は、いかに険しくなむ。
『雨風吹き荒れても野宿せざるを得まいに』
と、光源氏様は御心尽くしなること多かりけん。溜息の続く毎日でございます。
つづく
十一
桐壺院の病状の御悩み、神無月に成りては、いと重くおわします。世の中のに知る人ぞ知る名君にて、
『惜しみ』聞こえぬ人ぞなし。
「光源氏殿、それほど桐壺院の病状は重いのでございますか。今は藤壺が正妻として努めておりますが、元々は私とは長い間連れ添った仲、いずれ御見舞いにお伺いしなくてはならないと思うております」
「これは弘徽殿の皇太后さま、有難い御言葉でございます。私の見た限りでは、この冬は残念ながら越せないのではないかと覚悟しております。何ゆえにも御高齢で、やせ細っておりますゆえ」
光源氏様が朱雀帝を表敬訪問しておりますと、珍しく弘徽殿の老女房が訪ねて参りました。高齢とは言え、まだ顔もふっくらとして御元気な御様子です。
「母上様、近々皇太后様の名代を兼ねて、この私がお見舞いにお伺い致しましょう。桐壺院は私に天皇の位を授けて下さった大切な方です。『誰よりも大事に致せねばならない』と思うております」
朱雀帝は口数の少ない人だったのでございますが、この日は帝王様自ら仰せになられました。
「そうしてくれるか。そうしてくれるなら、これほど有難いことは無い。それではこの櫛を私の身代わりとして届けてくれ」
皇太后さまは大切に差して来た御櫛を、自ら両手で髪から抜いて、付き添いの女房に渡しました。
「それは桐壺院もお喜びになられる事でございましょう、源氏の大将よ、なるべく早く訪問したいと思うが、先方との日程を調整してくれるか。
『内裏にも桐壺院の病状を思し嘆きて、行幸の希望あり』と、丁寧に御伝えして賜うれ」
「かしこまりました。帝王様自ら行幸されるとなられますと、かなり大掛かりでございます。今しばらく御待ち下さいませ」
光源氏様は帝に挨拶しますと、清涼殿を後に桐壺院の御住まいがある一条へ向かいました。
光源氏様が朱雀帝の御意向を桐壺院へ伝えますと、
「それは願ってもない有難い御事じゃ。わしからも朱雀帝にはお願いしたき頼み事が幾つかある。是非とも早くこちらへ御越し頂くよう御伝えせよ」
との御言葉が有り、朱雀帝との面談はいち早く実現しました。
行幸は桐壺院が内裏の近くにあることを幸いにして、この日は特別に内裏の北門が使われ、内密にひっそりと行われました。
「桐壺院様にはただならず御礼申し上げます。病弱の私が、今こうして帝の位におりますのも、桐壺院の御蔭でございます」
朱雀帝は寝殿の高床の前に座しますと、深々と頭を下げました。
桐壺院は弱き御心地にも、源氏大将に支えられて起き上がり、
「そなたを帝にしたのは順番に従ったまでの事、何も気にするでない。わしの命もそう永くないようじゃ。死ぬ前にそなたに幾つか頼みたいことがある。聞き届けてくれるか」
と、遺言らしき事を伝えました。
「ははっ、何なりと仰せ下さいませ」
「一つ目は中宮である藤壺女御の東宮の事じゃ。東宮は見ての通りまだ幼い。藤壺は中宮と言っても奥御殿では権力が弱い。後ろ盾の左大臣もこの所、中宮へは滅多に顔を出さないと聞く。
わし亡き後は、そなたの祖父である右大臣がますます幅を利かすであろう。弘徽殿の女御のわがままも気掛かりじゃ。そなたも見ての通り、わしの血を引く次の帝は東宮しかおらぬ。
濃い天皇家の血を引く者は東宮一人だけじゃ。そなたに子供が出来れば良いが、もしそれが無理ならば、藤壺の東宮を次の帝にせよ。天皇家とは縁の薄い雑魚が帝になったならば争いは絶えぬ。しっかりと今の東宮をお守りせよ」
「かしこまりました。必ず仰せの通り致します」
桐壺院は東宮の御事を、返す返す聞こえさせ賜いて、朱雀帝にお願い申し上げました。
「次は源氏大将の御事じゃ。右大臣もそなたの母君も『源氏大将が帝の地位を奪うのではないか』と心配しているのは分かっておる。
しかしこの源氏大将は、女癖は悪くても帝の位を奪ったりはせぬ。それだけの後ろ盾がない事も知っておる。この源氏大将はそなたの臣下として、朝廷を束ねるしか生き残る道はない。源氏大将もその事を心得て朱雀帝にお仕えするのじゃ」
桐壺帝は隣で支えている源氏大将に向かって言いました。
「十分心得ております」
源氏大将が答えますと、桐壺院は大将の顔を見てにっこり笑い、
「そうじゃ、この通りじゃ」
こと、朱雀帝に向かって言いました。
「源氏の大将、これからもよろしく頼む」
朱雀帝が源氏大将に向かって言いますと、源氏の大将は、
「承知いたしました。何なりとこれからも御命じ下さいませ。私が大臣どもの意見をまとめてご報告申し上げます」
て、軽く頭を下げました。
「わしがはべりつる今の世に変らず、わしが亡き後も大小の悪い噂の事に囚われず二人がお互いに誤解を取り払い、仲の良さを隔てず互いに助け合え。たった二人の兄弟ではないか。
源氏大将を御後見人と思せ。 源氏大将は若く、齢のほどよりは頼りなげに見えるがそうではない。世の政治を祭り、ごたごたを治めるにも先見の目を持っておる。
『大臣どもの我がままを、をさをさ憚り、あるまじう争いをなむ、丸く収める才能がある』
と見賜ふる。源氏大将は必ず世の中を平和に保つべき人相ある人になり。腹違いとは言え二人とない兄弟じゃ。大切に致せ」
「ははっ、必ず私の腹心として大事に致します」
朱雀帝は院の言っている事は正しいと思い深々と頭を下げました。
つづく
十二
さらに桐壺院は続けます。
「さるに因りて遠い昔、高麗の高僧に源氏の未来を占わせた事があった。人の上に立つ人相ではあるが、これが帝になると反感を持つものが多数現れて、世の中が乱れると出た、
争いを避ける煩わしさに、源氏の君には不本意であったが、王族としての身分を剥奪し、親王にもなさず、臣下のただ人にて貴族とし、帝としての英才教育も受けさせなかった。
これも源氏の君には
『朝廷の公け事を取り締まる御後見人をせさせむ』
と思い賜えし考えの事成り。これこそが朱雀帝の世を安泰に導く唯一の方法じゃ。お互いが自分の役目を果たし、共に助け合って生きて行く事こそ大事である。悪どい中傷に惑わされず、互いの信頼を違えさせ賜うな」
と、哀れなる御遺言ども多かりけれど、女の紫式部が真似ぶべき政治向きの事にして、ここに書き留める地位にはあらねば、帝王学の片端だに、御傍で聞いておりましても、
『光源氏様の宿命は御気の毒で片腹痛し』と思えます。
院の遺言を御聞きする朱雀帝も、いと光源氏様の宿命を悲しと思して、
「さらに源氏の君と誤解を違えさせることなど致しません。朝廷から追い払うなど聞こえさすまじきよし。源氏の君がこの京の都で安心して暮らせますよう私がお守りいたします」
朱雀帝は桐壺院が安心して旅に出られるよう、返す返すこの事を聞こえさせ賜う。
桐壺院は朱雀帝の御容貌も、利発な考えも、いと清らかに成長ねびき勝らせ賜えるほどの事を嬉しく思い、頼もしく見立て奉らせ賜う。
「有難い事じゃ」と、御涙を流し賜えり。
帝の行幸となれば宮殿を長い間留守にもできず、面談の時間にも限りあれば、
「帝王様そろそろ帰宅の御時間でございます。御名残り惜しゅうございましょうが、お急ぎ準備下さいませ」
と、急ぎ帰らせ賜うにも、なかなか話は尽きず、別れ難くなる事、多くなん。
朱雀帝の行幸には『冷泉東宮も一たび同行したい』と思し召しけれど、
「何を考えておる。帝はわしの名代を兼ねた忙しい身の上じゃ。東宮の同行など許されぬ。もともと帝と東宮が同時に出掛けてはならぬ決まりではないか。
二人が同時に襲われでもしたら、王家の世継ぎが絶えてしまうではないか。東宮としての役目を心得よ」
と言う弘徽殿皇太后の物騒がしきにより、日を変えて渡らせ賜えり。
御年五歳の程よりは大人び、光源氏様に似て美しき御有様にて、院を御世話をする藤壺中宮は、
「恋しかったぞ。そなたを一人置いて宮殿を去ってからは、無事に生きているかどうか気掛かりでならなかった。御元気そうで何よりじゃ」
と、光源氏様が御手を引いて院に現れたのを見るやいなや、冷泉王子を急いで抱き上げました。
桐壺院は息子に対して父としてではなく上皇としての権威を保ち、身分の立場をわきまえるよう思い、聞こえさせ賜いけるつもりに、今はその事をすっかり忘れて、
「御無事で元気な様子。これほどうれしいことはない」
と手を取り、父親以外の何心もなく嬉しと思して目を細め、我が子を見立て奉らせ賜う御景色も、いと哀れこの上ない喜び成り。
中宮は喜びの涙に沈み賜えるを、源氏大将に未来を見立て奉り給うも不安で、様々御心乱れて悪しき境遇を思し召さる。
桐壺院は幼い冷泉王子によろづの宮殿のしきたり事を聞こえ知らせ給えど、東宮の御年はいとはかなき御程なれば、成人に育つまで面倒見てやれぬ事を、後ろめたく思して、
「許せ冷泉王子よ。そなたを最後の最後まで見てやれぬのが唯一の心残りじゃ」
と、我が子の事を『悲し』と見立て奉らせ賜う。
源氏大将にも、公け事に仕う奉り賜うべき朝廷への御心遣いを教育なさり、
「良いか、何事も大臣どもに威圧的に物事を押し付けてはならぬ。相談事のように持ち掛けて、太政大臣に皆の意見を取りまとめさせるのじゃ。大臣どもが自らの意志で積極的に行動起こすのがなによりじゃ」
などと、言い聞かせ賜う。この冷泉宮の御後見仕賜うべき事を、
「良いか東宮が如何なる事があろうとも、次の帝に据え置かなくてはならぬ。それは東宮とそなたが共に生き残れる唯一の方法じゃ。朱雀帝もこの事を十分に承知しておるが、
なにしろ右大臣の強欲さに負けぬとも限らぬ。弘徽殿の皇太后の出方も心配じゃ。誠意をもって朱雀帝に相談することじゃ」
などと返す返すのたまわす。
藤壺中宮は幼い我が子と久しく面談した事や、源氏大将に言い残す桐壺院の忠告も限りなくあり、この日の二人の訪問は、夜更けてぞ、帰らせ賜う。
光源氏様の御一行が帰られた後も、桐壺院の未練は数多くあり、誰一人残る人なく院内は静かに仕う奉りても、
「まだまだ言い残す事が数多くあった。誰か源氏の君を呼び戻してくれ。後二言、三言言い聞かせたいことがある」
などと、藤壺中宮を取り巻く女房どもに、騒ぎてののしる有様、行幸の朱雀帝が御帰りになられた後の名残り惜しさに劣るなど、優劣のけじめなし。
桐壺院と藤壺中宮様は、冷泉東宮と光源氏様に飽き空かぬほど御名残り惜しくて、仕方なく帰らせ賜うを、この上ない幸せといみじう恐ろしくさえ思し召す。
つづく
十三
弘徽殿の皇太后、大妃も、帝に自分の御櫛を預けて見舞いの旨、伝えるよう申し上げたものの、桐壺院からの特別な伝言もなく不安を感じた春子様は、
「桐壺院はあの程度の見舞いでは満足しておらぬとも限らぬ。直接わしが会って御見舞い申し上げなければなるまい。『明日にてもお伺いして、御見舞い申し上げます』と伝えよ」
と、桐壺院へ参り賜わむとするを、
「院には中宮の藤子様が御世話してかくおわする。皇太后さまが参られましては、何これと波風が立ちましょう。ここは御文を差し上げて、静かに御過ごさせた方が良かろうかとぞんじます」
と言う老世話女房の忠告に御心置かれて、
「それはそう言う事か。若い妃が世話している物を、年寄りのわしがしゃしゃり出ては。桐壺院も平穏ではおられぬと言う事か」
と、思し安らうほどに、皇太后様は遠くから見守る事に致しました。
それから幾日か過ぎて、いつものよりは暖かい夜の事でございました。桐壺院は驚ろ驚ろしき有様にもおわしまさで、静かに眠るようにして、この世から御隠れさせ賜いぬ。
『御年九十歳だった』と聞いております。
世の人々は足を空にして落ち着かず、
「桐壺院が治めた平和な世の中がとうとう終わりを告げた。しばしの平和な暮らしであった。これから右大臣と皇太后の横暴な政治が続くのかと思うと心配でならぬ。左大臣家がどう動くのか、太政大臣がどう動くのか心配じゃ」
などと、思い惑う人多かり。
『院が上皇様と言う御位を去らせ賜う』と言うばかりにこそあれ、摂政と言う権力が絶大であっただけに、世の政り事を沈めさせ賜える事も、『我が御世よ。院の政治に負けぬ立派な世の中を築いて見せる』
と言う桐壺院と同じ事にては、おわしまいつる弱さを考えますと、朱雀帝は、いと若くおわします。
大爺爺大臣は、いと急に悪い性、押さえ切れなくおわして、その御意のままに成りなん世を、
「これから如何に成らむ。あいつらの親族以外は朝廷から追い出され、財産まで乗っ取られるぞ」
と、上達部、殿上人、皆思い嘆く。
藤壺中宮、源氏大将殿などは、今までに増して優れて右大臣を押さえる手立て物思し湧かず、後々の冷泉王子即位の御技など、教じ仕う奉り賜える有様も、
「そこらあたりにおる親王達の御中に於いては、冷泉王子は特別に優れ賜える血筋ぞ。王位継承者として特別に扱え」
などと断りながら説得するも、いと哀れに思われて、世人も御気の毒に見立て奉る。
喪に服し、藤の繊維御衣にやつれ、地味な衣服に着替え賜えるにつけても、光源氏様と中宮は美しく、限りなく清らかに質素でおわしまするは、心苦しげに御気の毒なり。
去年の葵の上、今年の桐壺院と御不幸が打ち続き、掛かる生きる事の苦悩を見賜うに、この世もいと味気なう、つまらなく思さるれど、掛かる出家のついでにも、
「まず僧に成り、読経ずくめの平穏な暮らしも良かろう」
などと、まず思し立たるる事は多くあれど、
「桐壺院に託された東宮の後見人の役目はどうする。途方に暮れる中宮様も見捨てると言うのか。若い紫の上を尼に引き込むには、余りにも若すぎる。御気の毒だ」
などと、様々の親族の絆、御ほだし多かり。
世の憂き目、見えぬ山路へ 入らむには 思う人こそ ほだし成りけれ
世の苦悩 見えぬあの世へ 入らむには 恋し人こそ 邪魔に成りけれ
(古今集 物部吉名 源氏物語では、ほだしのみ引用しています)
つづく
十四
御七つ、なの日、四十九日までは、桐壺院の側室である女御の方々や中宮である御息所達、皆桐壺院に集い給えりて供養施させつるを、その日も過ぎぬれば、それぞれが散り散りに院をまかり出賜う。
「皇太后様、中宮様、七つ、なの日を過ぎ、とうとう実家へ帰らせていただく日となりました。御名残り惜しゅうはございますが、これで失礼つかまります」
梅壺の女御は、およそ十人ほどの側室を従え、位牌を横にして正座している中宮と皇太后に御挨拶致しました。その反対側には朱雀帝と光源氏様が座っておられます。
「長い間の御勤めご苦労でした。実家へお帰りになられましても、どうぞ御元気で御暮しなさいませ」
中宮様が軽く頭を下げますと、
「ありがとうございます」
と深々と梅壺の女御は頭を下げました。
その後、残りの女御どもも次々に前に進み居出て一礼し、次々と魂の安置所をまかり出賜う。
「あっははは・・・これで気が楽になった。堅苦しい内裏暮らしともお別れじゃ。これからはせいぜい実家で自由を楽しもうとしよう。麗景殿の女御どの、これからは時々鴨川の船宿で御会いして、酒でも飲もうではないか」
「ああー、それは良い考えでございます。是非とも御誘い下さいませ」
「それでは是非私も」
「桐壺院の寵愛が少なかったと言う事は、それだけ身軽に振舞えると言うことでございます。あの二人は御気の毒、
『ざま見やがれ』と、いう気分でございます。おっほほほほ・・・・」
昭陽舎の梨壺は後を振り向きながら言います。
その声を聞きながら皇太后は、
「桐壺帝に散々世話になっておりながら、よくもあのような薄情な恨み事が言えた物よ。帝の寵愛が少なかったゆえに、負け惜しみを言っているとしか思えん」
弘徽殿の皇太后様は、開け放たれている妻戸から見えて、渡殿から遠ざかる女御どもをにらみながら言います。
「人の死は縁の切れ目と言います。あの者達は宮殿から追い払われる身の上、帝を嫌いになるのは当然でございましょう」
「所で中宮殿、桐壺院が崩御したかににはそなたも奥御殿から退出してもらわなくては困る。何処ぞ行く先は決まっておるか」
皇太后様は藤壺の女御を見下すようにして背筋を伸ばしながら言いました。
「行く先は三条に屋敷を構える兄の、兵部卿の宮邸にお願い致しております。ですがもうしばらく、この隠居で過ごさせて下さいませ。まだ桐壺院と分かれる決心が付きません。 少なくとも三か月はここで魂の供養をさせて下さいませ」
「行く先が決まっておるのならば、そう急ぐことはあるまい。私と帝は明日にでも内裏の奥御殿に戻るが、ゆつくり御過ごしなされ」
弘徽殿の太合はにっこりと笑い、ほっとした様子で言いました。
四十九日が過ぎ、師走の二十日頃となれば、大方の世の中、年の瀬、閉じむるべき空の景色に付けても、
『桐壺院も三途の川を渡り、あの世で御暮しになられているはず。どこでどう暮らして居るのやら。この時雨の雨模様が、院の涙でなければ良いが』
藤子様は空を見上げながら言います。我が子を宮殿に残しながら、平民として暮らさざるを得ない藤子様にとっては、増して晴るる世なき中宮の御心の内なり。
「冷泉王子が目障りでかなわぬわ。女三宮が男であったら間違いなく今の帝の世継ぎとして東宮になれたものを。朱雀帝に男の子でも出来れば間違いなく皇太子になれる。
しかしそれは無理な事。桐壺帝に事もが出来ぬのは分かっておる。女三宮はもらい子だからのう」
藤子様は、口々にそういう皇太后の御心を知り賜えれば、この先、御心に任せ賜えらむ皇太后の気まぐれを思い賜えれば、
「世のはしたなく自分本位に住みう皇太后の、絡む争いを恐ろしく思うよりも、馴れこそ大事。あのいびりは病気としか思えん』
と、聞こえ賜える年頃の御有様を思い居出、悲しみ聞こえ賜わぬ時のわずかな憩いの間無きに、かくて奥御殿におわしますまじう、他の女御どもは皆外へと居出給うほどに、一人残った藤壺中宮様は、悲しき事限りなし。
つづく
十五
暮れも迫り藤壺宮は三条宮へ渡り賜う。御迎えには兄の兵部卿の宮、参り賜えり。
「御待ち申しておったぞ。桐壺院の御世話、ご苦労であった。これからはゆっくり我が里にて休むが良い」
「かたじけのうございます、兄上、これから何かと面倒を御掛け致しますが、宜しゅうお願い申します」
宮は言葉数少なげに頭下げ賜う。
この日、しぐれ模様の雪、打ち散りて足元を濡らし、風が激しゅうて妻戸など激しく音を立てるなり。
「桐壺院の内、やうやう人目枯れ行きてしめやか寂しくなるに、ようやく院の屋敷を閉じる決心が付きました。御位牌も内裏の安置所に御納めしたゆえ、私の役目も終わりました」
「それは寂しいのう。平和が長く続いた桐壺帝の時代も終わったという事じゃ。この先、平穏に暮らせれば良いがのう」
「私もそれが心配でございます」
兄と妹はしみじみ語り給う。
それからニ・三日過ぎて、源氏大将殿、三条宮のこなたに参り賜いて、
「藤子中宮様には幼少の頃から、母を偲ばせる小母として大変世話になって参りました。私の育ての親でもあます。桐壺院からは、
『冷泉王子の後見人の役目』を仰せつかっております。兵部卿の宮さまには、王子の伯父上として、これからも御助けいただきたいと願っております」
「そなたとは因縁の仲じゃのう。紫の姫は元気にしておるか」
「至って御元気に、陽気に暮らしております。御心配でございましょうが、安心してお任せ下さいませ。決して悪いようには致しません。あれは中宮様に似て優しゅうございます」
源氏様と兵部卿の宮は、奥の廂に参り賜いて、酒などを飲みながら、しっとりと昔の古き御物語聞こえ賜う。
外の五葉の松、雪にしおれて重たげに垂れ下がり、下葉枯れたるを見て兵部卿の親王、
影広み 頼みし松や 枯れにけん 下葉散り行く 年の暮れかな
影広く 頼みの帝 枯れにけむ 栄華散り行く 年の暮れかな
と兵部卿の宮、我が一族の後ろ盾を失った帝の崩御を嘆き賜う。
人の死は宿命で、何ばかりの事はあらぬに、折りからの雪の物、心を寂しくさせて、埋もれ行く庭の物ども哀れにて、
「帝は、
『わしの世もそう永くはない。桐壺の更衣の遺言にて、そなたを大事にして守って来たが、これから先はもう守ってやれぬ。そなたは宮殿の中で絶対的な権力者となった。
これからは御自分の力で今の地位を守り抜く事じゃ。朱雀帝には、
【たった二人の兄弟として仲良くし、助け合わなくてはならぬ】
と、言い聞かせておるが、弘徽殿の皇太后と右大臣の事じゃ、欲望に任せて何をしでかすか分からぬ。たとえ内裏を追い出されようと、必ず宮殿に元って参れ」
と言い聞かされております。雪に覆われた草木どもも、やがて春が来れば枝を伸ばし、花を咲かせましょう。追い出されるような恐ろしい事はないと存じますが、やはり不安でなりません。桐壺帝はこの事に不安を残しながら、あの世へ旅立ったのでございます」
そう話しながら、源氏大将の御袖、涙で痛う濡れぬ。池の水、隙なう全面凍れるに、
冴え渡る 池の鏡の さやけきに 見慣れし影を 見ぬぞ悲しき
冷え渡る 池の氷の 美しに 見慣れし人を 見ぬぞ悲しき
と、源氏の君、思すままに兵部卿の宮と同じ悲しみなれば、残された藤壺宮の御年は、余りにも若々しうぞあるや、尼としてひっそりと生きるには、御気の毒な感じが致します。
藤子王命婦は、
年暮れて 岩井の水も 凍り閉じ 見し人影のあせ(主人)も行くかな
年暮れて 沸き立つ水も 凍り付き 愛しき人よ 君も行くかな
などと、不安のそのついでに悲嘆に明け暮れる和歌、いと多かれど、紫式部としては、左様のみ暗い詩ばかりを書き続くべきことは いと計り知らず。暗い詩が多すぎては、読者が嫌がります。
三条宮へ渡らせ賜う儀式、親族を次々と招き賜う人の懐かしさ変わらねど、人々の同情に満ちた思い成しに、院との別れがいよいよ現実的に思われ、心は哀れにて、
「古き一条宮は返り見て旅心地仕賜う。桐壺院との暮らしは夢か幻か。ここは私のふるさと言えども、兄嫁の屋敷に居候しているに過ぎぬ。余所余所しくて落ち着かぬ」
藤壺中宮が実家の御里住に耐えながら暮らしたる年月のほど、決して幸せであったとは言い切れません。女の苦難のほど思し巡らさるべし。
つづく
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かってに源氏物語 末摘花編
原作者 紫式部 古語・現代語同時訳
上鑪幸雄
一
思えども なお明かざりし 夕顔の 露に遅れし 心地を・・・
思えども なお明かざりし 夕顔の 闇に遅れし 罠の心地を
年月重ね御気持ち古れど、光源氏様は夕顔との出会いを思し忘れず。今でもあの悲しい事件をぼんやりと思い出すのでした。
『あの者は毒殺によって殺されたのではないか。なぜあの心地よい夕暮れ時に眠ってしまったのだろう。腑に落ちぬ。もしかしたら毒殺?まさか・・・
それでも我は眠り、夕顔の意識がもどらなかった。あれは何故だろう。毒が盛られたのか。まさか、毒薬と眠り薬ならば、食事を運んだのは惟光。まさか惟光が関係したとは思えない。
隠れ忍んで尋ねた五条院の屋敷のはずだったのに・・・。だが目覚めたときは何故か近衛府の兵が大勢いた。誰があのような多くの兵を寄越したのだろう。
金縛りのような夢心地の中で、六条院の御息所様や頭の中将が居たような気がする。あれは何故だ。夕顔の死には御息所様と頭の中将が関わっているのか。それに惟光も仲間なのか。まさかそんなことをするはずはない。』
十八歳のおぼろ月の夕暮れ、光源氏様が庭をぼ、んやり庭眺めておられますと、
「若君、何をぼんやりお考えなのです。紫の上が『お食事の準備が出来ました』と呼んでおられますよ」
と、惟光が声をかけました。
「いや、ふと夕顔の事を思い出したのだ」
光源氏様が薄れ行く木立の影をぼんやり眺めながら御返事をなされますと、
「え?」
と、惟光は目を吊り上げて驚いた表情をしました、
「そう驚かずとも良い。あれが死んだのは、こんな夕暮れ時だった。今でも思い出すのだ。あけは物の怪のせいではなく、誰かに殺されたのではあるまいかと」
「若君、そのことはもう忘れて下さいまし。もう昔の話です。幾ら考えても夕顔様は戻って来ません。十分供養なさったではございませぬか。せっかく体調も御回復なされたのに毒でございますよ」
「それはそうだが、あの時はそなたに十分世話になった。夕顔が死んだ場所に私が居たと世間に知れたらどうなったことか。絶望の淵を良くそなたが二条院へ連れ帰ってくれた。葬式の手配までしてもろうた。そなたには礼の尽くしようがない」
「何をおっしゃられますか。家来なら当然の事でございます。感謝の気持ちが御ありでしたら、もうその事は忘れて下さいまし。御体に毒でございますよ」
「そうだな」
「さあ西の対に、早く行かれませ。紫様が御待ちかねでございますよ」
光源氏様と惟光は、世間話をあれこれしながら歩いて行きました。
ここも、そこかしこも、光源氏様に馴染みの深い女君は、皆が気安く打ち解けぬ限りの自尊心の強い女ばかりで、気色ばみ、我を奴隷のごとく扱う心、奥底深き相性の悪い方々の御挑み増しさに、君は飽き飽きしておりました。
それに引き換え夕顔は、よそよそしく振舞いながらも、け近く打ち解けたりして心休まる思いが仕賜うも、哀れにも、それに似る者無う、今さら夕顔の温かさを恋しく思欲え賜う。
つづく
二
いかであれほどの大事件を起こしながら、事々しき反省の覚えなく、いとらうたげ無らむ愛しいこの人の覚えは、慎ましきことに無なからむ。
『またもや別の女を見付けて自分のものにしがな』と、
懲りずに思し渡れば、少しゆゑ付きて風流に聞こゆる渡りは、世間の御耳に留め賜わぬ隈なき人の目にさらされて、
『さてもや、又もや女を苦しめたか』と、
思しよるばかりの批判の気配ある当りにこそ、桐壺帝や上達部からのひと下り苦言もほのめかし賜うめるに、なかなか光源氏様のなすべきことは、世間の批判の流れになびき聞こえず、ますます人気者になるばかりです。
もし一歩退いて離れて見たるは、をさをさ喜んでばかりあるまじきぞ。いと世間の目、馴れたるやも困り果てるばかり。
つれなう人を突き放す心強き女には、たとしえようなう情けの心を贈るる小まめやかさなど、余り物事の道理のほどを知らぬように献身的で、さてしも相手を退屈させないほど楽しく過ぐし果てるす。
「よせばよいのに」
と思う相手にも、なごり惜しみなく屈ず惚れて、なほなほしき卑しい身分の方に的が定まり、献身的に尽くすなどするものもあれば、馬鹿馬鹿しくてのたまわしつる恋も多かりけり。紫式部の目には、
「この方は阿保ではないか」と思う事もあります。
かの紀伊守家で出会った空蝉を、物の折々には、ねたうましく思い出ずす。妹の軒端の荻の言の葉も、去りぬべき風の便りに噂にある時は、退屈な胸を驚かし賜う折りもあるべしと思われる。
灯影の乱れたりし空蝉と軒端の荻の薄着姿の有様は、またさような場面に巡り合いても、見ま欲しく思す。大方光源氏様は、過去の女の名残りを懐かしみ、今は無き者の忘れ去るべきをぞえ、仕賜わざりける未練がましい男なり。
紫式部の目には、いつになったら安心できる大人になるのか、気掛かりではありませぬ。さてさて・・・
つづく
三
左衛門長官の乳母とて、光源氏様を育てた大弐の乳母の差し次補佐役と思いたる同僚が娘、宮中の大輔命婦とて、内裏でさぶらう帝王様付きの女官なり。父親は若武通りで育った皇族の血筋の人で、兵部省大輔なる男の娘なりけり。
いと痛う色好める若人にて有りけるを、源氏の君にも話し相手に召し使いなど承り仕賜う。母は乳母の役を退いた後、今は筑前の守の夫婦にて地方へ下りければ、二条当たりの父君の元を里にして、非番の休日を過ごし、内裏へ行き通う。
その照子と言う命婦が言うに、
「私の知り合いとて、故常陸三国の国守が娘、親王の末に儲けられて、いみじう大切に育てられたものの、父君の亡き今は家も没落して、悲しゅうかしづき賜いし、誰も世話する後身の無い御娘あり。
光源氏様に向いておられますと思いますゆえ、何とかなりませぬか。生活に困り果てて心細く、この世に残りたるを、可哀そうで見ておられません」
とて物のついでに語り聞こえれば、
「あれの事や。良う思いだした。まだ世話する男が見つからぬのか」
とて言って、御心に留めて問い聞き賜う。
「世話も何も、光源氏様か頭の中将様しか御世話する者はおりません。惟光や草尾には身分が高過ぎますゆえ」
「お前も好きだのお」
と言いかけた所で、紫宸殿の廊下で控えていた典侍が振り向いて、尖った狐のようなきつい目をきらりと光らせたので、
「光源氏様、この話は後に致しましょう。人目がございます」
と命婦が警戒したれば、光源氏様は、
「分った」
とて言って、立ち去って行きました。
この話はそれっきりになっていたのですが、それからひと月ほど過ぎて、光源氏様は再び典侍の隣に立っている兵部省大舗が娘、照子を目にしてしまいました。
「おおう、大舗が娘。良い所で会うた。そなたの母君は、筑前守と共に九州へ下ったと聞いておるが、その後達者で御暮しか」
桐壺帝への謁見を終えた光源氏様は、御部屋の外でかしづき、うつむき加減に頭を垂れている照子に目が留まりました。役目上、威厳を保ち厳格な態度を見せているものの、本来の心の底から込み上げる笑顔を隠せないで、光源氏様の御姿を盗み見しております。
「まあ若君様、母をお気に掛けて下さりましてありがとうございます。つい先日、母君からの御文が届いたばかりで、無事に赴任し、元気で暮らしているとの事でございます。
光源氏様の御病気が快復したのか、気に掛けているとの事でございます」
「それは有難い。幼少の頃、そなたの乳母には大変世話になった。息災で御暮しなら何よりじゃ」
「有難く存じます。うふふふふ・・・」
「何がおかしい」
「光源氏様、あの御話を、その後どうなったのかねお気になりませんか」
「待て、典侍が聞いておるぞ。帝王様の耳にでもは入ったら大変じゃ。典侍、照子の母、乳母がどうなっておるのか、気掛かりじゃ詳しく知りたい。しばらく借りても良いか」
光源氏様は高い身分なので、断れないと知りながらそう言いました。
「承知致しました。なるべく手短になさって下さいませ。ここは宮殿でございます」
「わかつておる。さあ、こっちへ来い」
光源氏様は照れて笑っている女官の手を強引に引いて行きました。帝王様が日頃御暮しになる清涼殿から、大切な儀式を行う紫宸殿への渡殿に連れ出すと、
「その末摘花という娘、それほどの美人か」
と、光源氏様は御尋ねになられました。
「それはもう、飛びっきりの上玉でございます。のんびりしておられましては、頭の中将様に先を越されますぞえ」
「何、頭の中将も狙っておるのか。よほど良いおなごらしい。どんな奴じゃ」
光源氏様は焦っている御様子で、命婦の手を今にも掴もうとしております。
「おっとりとした温かい心映え、ふくよかな柔らかい肌は、男をうっとりとさせるとか。まるで天女の容貌形など、空を舞い上がる程の噂でございますよ。何しろ奥深き方は、私も噂に聞くだけで、詳しくは知りはべらず。
飼い潜め人、私とは隣人でありながら、疎うお付き合い持て成し給えば、さるべき月明かりの宵など覗き給いてようすを伺えば、物越しにてぞ見た事を光源氏様に語らいはべる。
今は珍しい七弦琴をぞ掻き鳴らし、懐かしき古い歌をぞ語らい給える人と思える」
と、源氏の君の耳に聞こゆれば、まさに理想の教養深き姫君と思えて・・・
つづく
四
「琴を奏でながら懐かしき李白の詩を読み上げるのか。これはなかなかの教養人らしい。麻呂が上等の酒を用意すれば、これぞまさしく風流人の、三つの友にて宵を楽しく過ごすというもの。今ひと草酒と肴を用立てあらむ」
とて言って、更に、
「我にそのおなごの話をもっと詳しく知らせよ。父君親王の知識を、左様な才能の方に、いと由し付きて優雅なものに学び仕給うけれは゛押しなべて普通の手使いにはあらじ。なかなかの技量の持ち主であらむ」
と身を低くして、命婦の目を見上げながら語らい賜う。
「左様に理想の女だと聞こし召すばかりには限りはべらず、案外平凡な女にやあらむかも。少し身を引いて御考え下さりませ」
と言えば。源氏の君、
「痛う妖艶な有様がますます景色映み、情欲を誘い増しばや。この頃のおぼろ月夜に忍びて麻呂の物とせむ。命婦も案内役にまかり居出よ」
とのたまえば、命婦、
「わずらわし」と思えど、内裏渡りの平穏なもの、のどやかなる春の退屈なつれづれに、『これは多少刺激になる』と思いて、興味深々にまかり居出ぬ。
末摘花の父君は、ここの先妻の家に住まず、他の後妻の家にぞに住みける。末摘花が住むこの家には時々ぞ通いける。ゆえに家は荒れ果てているなり。
兵部省大舗命婦は事情も同じで、父が住む継母の辺りには住みも寄り付かず、末摘花の御辺りを親しく睦びて、同じ年頃で同じ境遇にて気が合うのか、ここには度々来るなりける。
のたまいしもしるく、源氏の君の覗き趣味を即座に実行して、十六夜の月、おかしき程に明々と京の街を照らして、胸躍るままに末摘花の御屋敷におわしたり。
「いと片腹痛き不謹慎な業かな。物の寝沈むべき夜の有様に、わざわざ夜這いにもはべらざるめるに、ゆっくりと御休みになさった方がよろしいかと存じまする。若君もなかなか好き者でございますね」
と聞こゆれど、
「なおあなた、あちらへ渡りて、ただ一声の素晴らしい歌も催し、姫君の演奏する琴の音を聞こえ目でよ。空しくてこのままでは帰らむが妬み、苦しかるべきを。人目御会いできぬとは残念じゃ」
と、のたまえば、
「それほどの御思いなされるならば、ひと先ずは私の御部屋へ参りなされ。姫君も急な訪問では御困りでございましょう」
と命婦は、親王邸内に設けた打ち解けたるご自分の住み家、小部屋に源氏の君を据え奉りて、末摘花のようすを探りに居出ぬ。
「少し姫君を持ち上げ過ぎた業かな。源氏の君が末摘花の醜態を御知りになられたら、どれほど激怒なされるだろう」
と、後ろめたく、それでも光源氏様の援助が受けられるならば『かたじけなし』と思えど、
肝心の末摘花は全く無頓着で、日頃寝泊まりする寝殿に参りたれば、宵も過ぎたと言うに、廊下に面した格子は開けっ放しさながら、庭の梅の香おり、おかしきを見入り居で出して、のんびりもの仕賜う。
「姫様、不用心でございます。暗くなる前に戸締りなさいませ。このように無頓着では、良家の娘とは思われません」
「そうかえ、わらわは至って平気ゆえ。わらわを襲う物好きな男などおらぬわ」
姫君は上衣も付けず、袿の裾は乱れたままになっております。
「それが姫様、源氏の君が末摘花様にひと目御会いしたいと参ったのでございます。取り急ぎ御支度をなさいませ。琴の音色が聞きたいそうでございます」
「あれえー、これはどうしたものか。そんなの話に聞いておらぬぞえ。命婦よ、わらわはどうしたらええのか」
末摘花は慌てて身の回りに散かった衣服類を探し始めます。
「もう困った御人ですこと。あれほど急な来客があるかも分からぬので『普段から身支度はきちんとなさいませ』と、言い聞かせておいたと言うに」
それでも命婦は『良き折りかな』と思いて、
「御琴の音色、いかに世の人に勝り、演奏はべらむと思い、末摘花様を見に来賜えらるる。暖かく気候も良うなられましたので、夜の景色に誘われ、こちらへはべりて来なむ。
心あわただしき、すぐ実行なさる若君の思い立った性分を止められぬる居出入りに、え承らぬこそ口惜しけれ。光源氏様と親しく成れる絶好の機会でございます」
と言えば、
「その妙な噂を聞き知る人こそ哀れなれ。私の琴はまだ物を語らぬ雑音ぞえ。桃しき宮中に行き交う人の、何気なく聞くばかりやは、大して耳障りでもなかろうに」
とて言って、今にも逃げ出したがるようす。
「姫様、今さら後へ引く事はできませぬぞえ。姫様の生活の心配をして連れて参ったのでございます。普段の通り、私が何気なく聞いていると思いて弾き語りをなさって下さいまし。
光源氏様とて、それほど琴に詳しくはあるまいに。そうでないと、私の立場がございません」
「わかった」
とて言って、親王の娘が光源氏様を召し寄するも、あいなう、命婦は、
『あれは変音の調べだつたのではなく、唯の下手くそな練習だったのか』と思い知らされて、
『光源氏様はいかが聞き賜わむ』と、胸つぶれる。
つづく
五
衣服を正装の十二単衣に着替えた末摘花は、南廂の格子戸はそのままに開け放ち、梅の香りが漂う庭近くに琴を持ち寄り、ほのかに掻き鳴らし給う。春の暖かさは心地良くて、かがり火が梅を照らして、琴の音はおかしう聞こゆ。
何ばかりか深き手ほどき受けた訳にならねど、源氏の君が弾き鳴らす琵琶とは、物の音柄に筋の異なるものなれば、来客の耳にも聞きにくく耳障りにも思されず、
『余の知らぬ新しき調べもあるのかな』と思す。
「いと痛う荒れ渡りて寂しき所に、さほどばかりの姫人の、古めかしう所責く家に堂々として、何ゆえ賢こ付き家に据え付けたりけむ。華やいだ昔の名残りなく、こうした美しい姫君を、世の中は如何に思欲し取り残す事になからむ。人の宿命とは残酷なもの。
かようの所にこそは、昔物語にも現れる王子様が姫を救い出す、哀れなる恋物語の事どもも、有りけれなどと思い続けても、物や、今こそ姫に言い寄らまし、そうでもしないと恋物語にならぬ」
と光源氏様は思せど、姫君が、
「打ち付けに突然訪ねてや、軽率だぞえ」
と思さむと、源氏の君は追い返されるのも心恥ずかしくて、心を落ち着かせようと安らい自重し賜う。
命婦は才覚えある機転の利く者にて、痛う下手くそな琴の調べを、耳馴らさせ聞かせ奉らじと思いければ、
「明かりを暗くして、曇りがちに過ごしはべるめり。琴の音も小さくして、ほのかに聞こえさせるべき。客人の光源氏様が御近くへ来むと思いはべりつる。いと悲嘆顔にものこそして、迷惑そうに振舞いなされ。 今は心のどかに落ち着きを。御格子の外へ、客人をお連れせなむ」
とて言って、痛うも策略をそそのかさでて、命婦が自分の部屋に帰りたれば、
「なかなかなる腕の程にても、何故調べを止めぬるかな。もう少し聞きたう思いしを。上手か下手かもの聞き分くるほどにもあらで。もう少し聞かせばやと願う。妬ましう残念じゃ」
と、源氏の君はのたまう。命婦は源氏の君の腑に落ちぬ姿を『おかし』と、思したり。
「同じ調べを聞くは、け近き程の所へ案内し、立ち入り聞かせよ」
と、のたまえど、命婦は源氏の君の疑わしい探りの気配を心憎くて『いい加減になされまし』と思えば、
「いでや、この程度になされまし。いと微かなる有様に、思いは積もり楽しみも増すと言うもの。何もかも一度に知り過ぎてては恋の思い消えて、心苦しげにがっかり物仕賜うめるを。これ以上は、後ろめたき有様にや」
と言えば
「げに左様もあること。にわかに御尋ねして、我も姫人も打ち解けて語らうべき人のきわはきわと、分別をつけるべきこそあれ」
などと、哀れに思さる人の遠慮の御ほどなれば、
「なお左様の再会の景色を求めたり。『いずれまた御尋ねします』とほのめかせ」
と、語らい賜う。
光源氏様はまだ名残り惜しいと少し未練も残っておりましたが、少しかいま見た姫君のようすが『腑に落ちぬ』と、多少疑ってもおりました。
「ここは少し様子を見て、相手の素性を探らねば」と思い、
「まだ契り賜える親密な方でやあらむ」
と諦めて、いと忍びて帰り賜う。光源氏様の立ち去った命婦の小部屋は、梅の香とはまた違った、ほのかな香料の薫りが漂っています。
光源氏様の立ち去る姿を見届けた命婦は、急いで末摘花の寝殿へ向かいました。
「『上の方が、まめにこちらへ通っておわします。困った事です』と、他人に持て悩み聞こえさせ賜うこそ、自慢話になります。末摘花様の風格が上がると言うもの。
世間の人々が、
『この都に絶世の美女が居るらしい』と、おかしう思う給えらるるように、折々機会を御作りはべれ。そうなされれば、末摘花様は京の都で『一番の美人』たと評判になられます。
かやうのような御やつれ姿を光源氏様に見られたら、いかで失望するかは、御覧じ付けむ。お気を付けあそばしませ」
と、聞こゆれば、末摘花は立ち振り返り打ち笑いて、
「この人の言わむ理想の女のように、咎めな品行の悪い行動をしない女はそう多くはないぞえ。ほとんど女は醜さを表されそ。これを仇仇しき恥な振る舞いと言わば、女の有様は窮屈で苦しからむ」
とのたまえば、命婦は、
「末摘花様も言い分も判らぬでもない。余り色めいたり、上品に振舞いても、末摘花様の良さが損なわれるか」
と思して、折々かうのたまう苦言を恥ずかしと思いて、それ以上は物も言わず。ただ庭の梅から吹き抜ける心地よい風が、二人を幸せな気分にさせおります。二人の間は、いつまでも沈黙が続きました
つづく
六
それから幾日か過ぎて、光源氏様はわずかな供を従えて末摘花の屋敷へ立ち寄りました。夕暮れの二条通りはまだ人の気配多くて、すこし人目も気になったのでございますが、幸い末摘花の正門は小路の奥にあります。
御車から降り賜うに、
『寝殿の方へ人の気配聞くやも』と思して、やおら静かに立ち屋敷を覗き賜う。竹の笹、透垣のただ少し、正門へ折れたる隠れ空き地の方に進み立ち寄り賜うに、元より門の脇に立ちて覗ける男ありける。
「誰ならむ。末摘花に心掛けたる好き者、他にもありけり」と思して、小路の角に退き、蔭に隠れて突き立ち覗き賜えば、頭の中将なりけり。
(源氏物語絵巻参照)
この日、夕つ方、内裏より勤めを終えて、二人もろとも宮殿の外へまかり出賜いけるを思い出す。
「さらばじゃ」と、さりげなく分かれたものの、それぞれは、
やがて左大臣の大殿にも寄らず、二条院にも現れなで引き別れ賜いけるを、桐壺帝の使者は偶然目に仕給う。
「いず地ならむ。ただならで怪しい」と思いながら
『我も行く方あれど、光源氏様の御ようすがもっと気になる』と思して、後に付けて行動を伺いける。
怪しき質素な馬に乗り換え、狩衣姿のないがしろに扱われたよれよれに着替えてここへ来ければ、使者さえ想像もしない、え知り給わぬ家に着きたれば、さすがに二人のようすを見届けない訳には参りません。
使者は『かう異なる方に出入り賜いぬれば、事故にでも遭うやも』と、心も得ず気掛かりに思いけるほどに、物の音立てぬように聞き付いて、更に光源氏様の後ろに立ちてるに、
「いずれにしてもここは袋小路の道、帰りや再びここへ居出賜う」と確信して、したしたとうなずき辛抱強く待つなり。
君は誰とも見分け賜はで間男を、『我と知らせじ』と、抜き足に歩み覗き賜うに、男はにやにや笑いながら覗き見て、一向にそれ以上の進展がありません。少しせっかちな光源氏様はじれったくなり、ふと近寄りて頭の中将の肩をポンと叩けば、
「ああっ、びつくりした。急に驚かすな」
と、さすがに尻餅を突きたくなるほど驚きて、
「頭の中将殿、中に良い姫君でもおわすかな」との問いに、
「若君こそ、どうしてこんな所へおわすのです。二条の随身に光源氏様のようすを聞きたれば『兵部卿の宮廷に度々おわす。怪しい』とのこと。
内裏よりこっそり後を付けて来たものの、途中で見失い、もしやここにおわすかと思いたれば、さてさて源氏の君、途中で平服に着かえおったのか。この色男め」
と言う言う。
「頭の中将こそ怪しけれ。ミイラ取りがミイラに化けてしまったか。末摘花に横恋慕するなど許さぬぞよ」
「何を申される。我が妹、葵の上を振り捨てさせ賜える辛さに、内裏より愛人宅へ御送り仕う奉るは辛き事。何かと止めようと追っては来たものの、
もろともに 大内山は 居出つれど 居る方見せぬ いざよいの月
二人とも 妹が館に 居出つれど 姿は見せぬ いざよいの君
と、悲しく思う」
頭の中将は、恨むも妬ましいけれど、この君の平然とした顔を見給うに、吹き出したくなるほど少しおかしうなりぬ。
「人の行動は思いも寄らぬ事よ。頭の中将こそ曲者じゃからのう」
とて言って、憎む憎む。
里分かぬ 影をば見れど 行く月の いるさの山を 誰か訪ねる
里照らす 人をば見れど 行く月の 入るさの山は 望みの地なり
「頭の中将とて、わしの後を付けたとと言いながら、目的はここの屋敷やも」
と源氏の君のたまえば、
「かう次々と、別の女を慕い歩かば、如何に施させ賜わむ。口にくつわでも付けて、馬のようにつなぎ留めるしかあらず」
と聞こえ賜う。
「種馬に手綱を付けては良い子は産まれぬ」とのたまえば、
「誠ならば、かようの御歩きには、随身、惟光からこそ、はかばかしき苦言の一言もあるべけれ。惟光、そなたは何をしておるのだ」
と、怒鳴りつければ、
「申し訳ありません」と、惟光は夕顔の五条院の脅しを思い出して、ぶねるぶる震え出します。
「わざわざ平服に着替えさせるために、遅らせ賜はでこそ在らめ。やつれたる服装の御歩きは、軽々しき誘惑事も居出来るなん」
と、惟光を押し返して諫め奉る。
光源氏様は、こう恥のみ見付けらるる心苦しさを妬ましと思せど、かの撫子の君の葬式をば思い出し、亡骸をえ訪ね供養を知らぬを、重き抗議に言いたけれど、さらに我が子、玉鬘の行く末さえ知らぬを思い出し、
「頭の中将さえ大した男ではない」と、御心の内に思し居出づす。
つづく
七
おのおの契れる北の方宅にも、甘えて煙たければ、行き別れてそれぞれの妻の元へ歩むべきところ、そうは施させ賜わず。一つの車に乗りて、月のおかしき程に、時々雲隠れしたる道のりの程、
「浮気男め、最近手にいれたばかりの若紫には、もう飽きてしまいよったか。まあ良い。わしとて右大臣の娘は煙たい。二人で気ままに夜道を散策しようではないか。父君の大殿を訪ねるのもよかろう」
とて言って、頭の中将は源氏の君を奥へ押しやる。
中将が腰より笛を取り居出て吹きたれば、源氏の君もそれに吹き合わせて鳴らし、大殿におわし着きぬ。前駆などにも、
「頭の中将の御車、到着なるぞ。どけどけ」と追わせ賜わず、
「そっと静かにじゃ」と、静かに大殿に忍び入りて、人目見られぬ廊下に御直衣ども召して着替えさせ賜う。そのとき屋敷が急に明るくなって光源氏様を照らしたれば、見上げた空に月が雲の間が再び顔をのぞかせにけり。
つれなう平然としたそ知らぬ顔で、今来るようにて振る舞い、惟光に預けたる御笛ども手にして弥生の名曲を吹きすさび、頭の中将と共におわすれば、左大臣も好き者にて心を踊ろかされ、
「春の温かい宵に婿殿の訪れじゃ。早よう笛を持って参れ、
と、例の乗りの良さにて聞き過ぐし賜はで、高麗笛取り居出賜えり。左大臣は、いと上手におわすれば、いと面白う、さすがの源氏の君も聞き惚れてしまうほど名調子を吹き賜う。
「葵は聞いておるか。おぼろ月夜に桜が満開となれば、宴会を催さぬ訳には参らぬぞ。御琴召して、寝殿の内にも源氏の君と頭の中将、この二方に弾き合わせ、腕に心得たる人々に引かせ給うべし。葵は聞いておるか」
とのたまえば、内裏の中務君の女房、わざと琵琶は弾けれど、頭の中将君に心掛けたる恋心を持て離れて他所他所しく振舞い、ただこのたまさかなる景色の懐かしき気持ちをば思い居出て、頭の中将をじっと見詰め給う。
中将は右大臣の四の姫の婿となり、この恋は実らず再び思いを寄せるなど道理に、え背き聞こえぬに、思いは増す一方で自ずからあえて隠れようとしなくて、
「中務の女房よ、今宵は宴じゃ。無礼講を許すぞえ。そなたの好きなように振舞うが良い」
と、左大臣の北の方、大宮などもよろしからず『許す』と思しなりたれば、もの思わしくはしたなき心地でも燃え上がる恋心は捨て切れず、惨まじげに中将の膝元へ寄り臥したり。
宮勤めの夫の事を思えば、絶えて頭の中将を見立て奉らぬ所に掛け離れて忍ぶなむも、さすがに心細く未練が残りたれば、迷いは思い乱れたり。
君たちは先ほどありつる末摘花の琴の音を思い居出て、哀れげなりつるみすぼらしい住まいの有様なども、様相変えておかしう気の毒に思い続け、憐れみの募るを有ら増しごとに、気の毒に思いつる。
いとおかしう振舞うろうたき思い人の人の家へ、さてもや年月を重ねて会いに至らむ時、相手を見染めていみじう心苦しくなるは、夕顔と玉鬘の悲劇が思い居でて、我が事のように気の毒に思う。
「源氏の君、どうしたのだ。暗い顔をしておるぞ「
と言えば、
「あの末摘花の事が気になってたまらないのです。義理も人情も無いと思いながら止められぬのです」
と、源氏の君は笛を置いて答える。
「人に持てて人気者になるも良いが、世間の群衆は踊らされて持て騒がるる馬鹿な男を望むばかり。我が心にも左様な有様、ありしからむ痛い思いなどさえある。義理のない女には、あえて近づかぬことじゃ」
と言いながら、頭の中将は北の方の惨ましい嫉妬心を思いけり。
この源氏の君の、かう物好き気色ばみ出歩き賜うを、まさに『さては色恋なしでは過くし果て性分を仕賜いてむや』と、なま妬ましく危ぶがりけり。
その後こなたの方、かなたの方より文等を送ったと思うべし御気配あり。いずれも帰りの御文事は見えず、おぼつかなく相手の意図が見えず心悩ましきに、
「余り浮立て気味の悪い思いもあるかな。さようなる寂しい家に住まいする人は、物思いに真相を知りたる景色、はかなき木草の枯れ行く姿、空の景色に付けても、我が身のごとく敏感に悪い知らせと受け取る。
物事の気配に用心深く取り成すなどして、心映せ感じやすく将来の事も推し測らるる想像などして、折々気苦労などあらむ事こそ哀れなるべけれ。身分の高い生い立ちが重しとしても、いとこうも余りにも埋もれたらむは気の毒である。
また見方に因っては心付きなく不愛想で、悪浸りの性格なり」
と、頭の中将はますます心に思いを巻いて、女のとりこに心入れられしけり。
例の心隔て敗北をを許し聞こえ給わぬ心にて、
「しかじか『光源氏様より楠木様が好きです』と、返り事の文は見給うやも。試みに他人の恋人を奪いかすめたりしこそ、果はしたなくて、心が闇に乱れ惑うしかあるまい」
と、憂いたれば、
「さればよ、わしが先に見付けた姫君に言い寄りにける中将の横恋慕を、どう思い給うや」
と、源氏の君は微笑まれて、さらに、
「いざ、わしの女を見むとしても『惚れた』などと思わねばや。頭の中将もそろそろ身を落ち着かせ、他人の女を覗き見る年でもなし」
と答え賜うを、中将は、
「若い年のくせして、人を選り分きしける立場かよ」
と思うに、いと妬ましくこぶしを胸に宛てて腹立たしく思す。
つづく
八
君は頭の中将が『深うしも事の成り行きを思わぬ』事の、かうも情けなき思い込みを、惨ましく恨みがましく思いなり賜いに成りしかど、妹の葵の上を思っての事かと分半分あきらめる。
「源氏の君は、今度は別の女に惚れこんでおるとぞ。二条に住む親王の娘らしい。妻には目もくれぬ。困った婿殿じゃ」
と、かう中将の言い歩きけるを、言多く馴らされたらむ仲間内の方にぞ、
『事の成り行きを知らぬ世間の人々は、中将の批判をまともに受け取るやも。世間の噂は中将の同情になびきかむかし。中将は、したり顔にて笑みを浮かべ、源氏の君が悔しがる姿を面白そうに楽しんでいるのではないか』と思う。
源氏の君様は、
「元の起こりの事を思い、言い分を放ちたらむ遠慮がちな気色こそ、愁わしかるべけれ」
と思して、桐壺帝側近の命婦が案内した事情を豆やかに説明して、語らい賜う。
「おぼつかなう兄君の心が私の意志に反し、持て離れたる誤解の景色なむ姿、いと心憂鬱し。好き好きし弟君の方に、疑い寄せ賜うにこそ身内としてあらめ。さりとも
抱擁心なくして、親族には短き思考の心映えを使わぬものを。
人の心、のどかなる信用事なくして、婿の立場を思わず、疑いにのみあるなむ。自ずから我が過ちになりぬべき悪き事は、心のどこかにて親兄弟の悲しみを持て扱い怨むられる。
親族を思いやるもなう、心安らからむ人は、なかなかこの世には存在しない。小姑殿は、婿の私を可愛いと思い、ろうたかるべきを」
と、のたまえば、頭の中将は、
「いでや、何処にそんなのんきな男がいる。婿がさようにおかしき姫方の玄関先にて御笠、雨宿りなどしては
『心には、えしも他の女に心を奪われたや』と、心付きなげにこそ、見えはべれ。一重にもの、粗末な庶民の衣服に見包みし、引き入れたる案内方はまだしも、有り難うまじき女垂らし変装もの姿、仕賜う人なむべきか。恥を知りなされ」
と、見る有様、光源氏様の行動を正直に語り賜う姿聞こゆ。
「らうらうじう巧みに策略を巡らした、過度めきたる心は無きなめり。いと子供めかしうお程かに気ままならむ普段着こそ、らうたく可愛げはあるべけれ。直衣など身に付けず、子供の頃のように自由に歩き回ったまでの事よ」
と、若紫の事を思し忘れずのたまう。
「婿殿がそう言うならそれも良かろう。せめて今宵は葵上と仲良くすることじゃ」
と棄て置きて、頭の中将は左大臣の大殿をまかり出給う。
光源氏様の御年十九の春は童病みに患い賜い、人知れぬ夕顔の物思いに悩まされて、若紫や末摘花の恋物語も紛れて、御心の安らぐ暇なきように、慌ただしく多忙にて春夏過ぎぬる。
つづく
九
秋の頃ほいになると、静かに末摘花の事を思し続けて、かの平民の夕顔の家で過ごした砧の音も耳から離れ尽きて、今は昔の笑い話になった事さえ、新たな姫君を恋しう思し居出らるる手助けになり賜う。
末摘花の父君に当たる常陸宮様には、しばしば自分の恋心を聞こえ賜えど、なおおぼつかなう知らぬ振りのみであれば、世間の常識の通りには世付かず、心やましうも負けては引き下がりやまじの心さえ添い居出て、狩りの心が増すばかり。
光源氏様は命婦を責め賜う。
「いかなる用ぞ。いと末摘花を口説き落とすに掛かる事こそ、今だにお膳立ては知らされね。手土産なしに来よったか」
とのたまい、命婦の慌てたようすが物々しいと思い給えば、
「光源氏様、そう慌てまするな。慌てて仕留め損じた獲物は大きいと申しますぞ。末摘花様は外へ逃れたくとも、行く当てがございません」
と、おっとりした命婦の笑顔が愛おしいと思いて、
「じれったいのお。末摘花は他の男が好きになったか」
と、頭の中将の横やりを気掛かりに思い賜う。
「光源氏様から心が持て離れて、似げなき他の方へ心が移った事とも、趣け語りはべらず。まずはそのような事はありますまい。ただ大方の御貢物、包みの割と少なきに、『御誘いの手さえケチと居出賜わぬとなむ』と見給ふる。光源氏様、ここは大判振る舞いに貢物を送りなさいませ」
と聞こゆれば、
「それこそ欲に目がくらんで世付かぬことなれ。損得もの思い知るまじきほど、独り身を案じ、心に任せて誰かを頼りにせぬほどこそ、左様に輝かしきも知らず言い訳の断りなれ。
何事も思い静まり遠慮仕給えらむと思うこそ、そこはかとなく教養人のなせる技。このままでは無駄に時間を過ごす事になる。つれづれに今の生活を心細うのみ覚ゆると見賜うを、何度も同じ答え給わむらむは不幸な事。
華やかに生きるには、願い叶う心地なむに振舞うべき。何やかと世間に世付き親しめる筋ならで、是非にも世に送り出したいのじゃ。その荒れたる縁側のすのこにたたずみしまま、しばらく語り給ま欲しきなり。
いとおぼつかなう私の説得を心得ぬ心地するを、かの父君の御許し無うとも、深うも深刻に考えたばかれかし。心入れらし末摘花を騙す浮立てある持て成しには、余もあらじ。安心するが良い」
などと語らい賜う。
なお世に知られたる美しい人の有様を、おおかた一人でも多くなるように聞き集め、様々な噂を耳に留め楽しみ賜う癖の尽き果て賜える光源氏様の性格を、騒々しき宴の宵居集りなどには、はかなき虚しさを感じたついでに悪い癖が居出賜う。
さる末摘花の人こそばかり耳に聞こえ思い出たりしに、命婦がかくこのようにわざとがましう『知性的な人』とのたまい渡れば、なまわずらわしく想像を掻き立て、女君の御有様も理想の女に見え賜う。
世使かわしく世間知らずで無教養、良しめきたる魅力もあらぬを、命婦のなかなかなる思わせ振りの導きに、
『いとおしき一方的な思い込みのことや。現実が見えむか』などと思いけれど、源氏君のかう真面目やかに、
「ぜひと目だけでも会いたい」とのたまうに、周りの咎めも聞き入れざらむも、恋の盲目はひがひがしくも見誤りがちに成るべし。
父君、親王が度々この屋敷におわしける折りにだになれば、古りたる貧しい家の辺りとて、威厳が満ちて男な引き込みゆる人も無かりけるを、まして今は浅茅草分け来る人も途絶えたるに、命婦が援助する男を求めたるは当然の事。
かく世に珍しき好奇心の強い光源氏様の御気配の、惚れた兆し漏れり匂い来るをば、生々しくうぶな女腹なども楽しみは増す。微笑み誘いに負けて、
「なお詳しい様子を聞こえさせ給え」
と、そそそのかされ奉り賜えど、浅ましうも物包仕給うじれったい心にて、命婦はひたぶる容易に、末摘花を見にも入れ給わぬに成りけり。
命婦は、さらば去りぬべからん姫君が光源氏様の御手付きになった折りに、物越しに聞こえ給わぬほど深刻に考えず、自責の御心に付かずは、さても悩みね無かりかし。いたずらっぽく楽しんでおります。
また去るべき重大事になっても、仮にも脅し問わむ御咎め給うべき人無しなど、仇めきたるお調子者の逸り心は罠に掛かりやすいと打ち思いて、
「万が一、大事になったなら早めに処理すれば何とでもなる」
と、父君兵部卿常陸宮にも、掛かる光源氏様の事なども言わざりけり。
つづく
十
八月二十余日、宵過ぐる深夜まで待たさるる月の心もと無き暗さに、星の光ばかり冴えやけく闇は、松の梢に吹く風の音も心細くて、いにしえに過ぎ去った過去の不幸事語り居出て、
「私ほど可哀そうな女はいない。母とは幼くして死に別れ、兄弟もなく父君は継母の家に入り浸り。私がひもじい思いをしても振り向いてもくれません。乳母も私を見捨て、私は生涯孤独な身の上なのです」
などと、末摘花は悲しさに打ち泣き、夜明かしなど仕給う。
丁度その頃、光源氏様は『いと良き折りかな』と思いて、
「御消息や、御機嫌伺いに参った」と聞こえ、御訪ねつらむ。 例のわずかなお供を従えて、目立たぬ服装で、いと忍びて末摘花の屋敷へおわしたり。
月、洋々と良う居出て、荒れたる竹のまがきの程、外に倒れてうとましく、外から打ち眺め賜う明かりの中に、琴をそそのかされてほのかに掻き鳴らし給う調べの程、決して悪く聞きしうはあらず。
もう少し、け近うに近づきて『今めきたる気配の音楽を身に付けばや』と屋敷の中に入れば、乱れたる心には心もとなく、
「嫌われたらどうしよう。怒られて追い出されたら面子丸つぶれだ」と、悪い予感に思い至る。
人目、しなき脇道所なれば通りに人影はなく、屋敷には手引きの命婦以外に誰も居るでもなく、心安く入り賜う。すこし中の様子を伺った後で、惟光を召し、命婦を呼ばせ賜う。
「命婦、命婦はおるか」
と小声で呼びかける声に、命婦は引き戸を少し開けて、
「惟光殿、こんな夜中にどうしたのじゃ。驚くではないか」
と、今にしも、光源氏様の来訪を始めて知ったかのように、驚き顔にて姫君に取り次げば、
「いと片腹痛き迷惑な技かな。私は嫌じゃと言っているものを。そのような高貴な御方の相手が務まるような女児ではないわ」
とて言って顔を隠し給う。
「しかじかこうこう、援助をお受けするには絶好の機会だと話したではございませんか。その方がいざ来おわしたなれ。つねにかう恨み言をのみ聞こえ給う消極さを、心に叶わぬ我儘な由をのみ言い、いなび『嫌じゃ、嫌じゃ』聞こえはべるなれば、自ら御断りも告げ、『御会いできぬ』と、聞こえ知らせむべき」
と、のたまい渡るなり。
末摘花はいかが聞こえ返事を返さむ。並々の多わ易き歓迎の御振る舞いならねば心苦しき分際を、頭を低くした物越しにて慎重に振舞い、暖かく出迎えるべきを。
「果たしてどうしたものか」と迷い賜う。
「ありがたき御来訪の声聞こえ給わぬこと『嬉しい限りです』と光源氏様に聞こえ示せ」
と命婦が言えば、いと我がままな態度を、恥ずかしいと思いて、
「人に悪き噂の物、聞こえむように成るかも知らぬを。恥ずかしくて御会いできませぬ」
とて言って、奥ざまへいざり御簾の陰に入り賜うさま、いと初々しげなり。命婦は打ち笑いて、
「いと若々しう子供のようにおわします事こそ心苦しけれ。限りなき美しい人も、親などおわして大事に扱い、『着物や芸事の後見、十分に贅沢させております』
と、聞こえ給う令嬢こそ、若び給う『ぶりっ子』も道理に合った断りなれ。これほどかばかりに、心細き御振舞いの貧しい御有様に、なお世を尽きせず『恐ろし』と思し、疑いはばかるは
『似付きなう愚かな事』と、こそ思いはべれ」と、教え聞こゆる。
さすがに強い口調で咎めれば、人の言う事は強うもいなび反対せぬ御心にて、
「答え聞こえで申し上げる。ただ黙って聞けとあらば、高貴な方には格子など閉ざしては失礼有りなむ。もう少し近くの御部屋に案内した方が良うないか」
とのたまう。
「縁側のすのこにお座りいただくなど、不便なう失礼で有りはべりなむ。御障子一つ隔てた隣の御部屋に案内致しましょう。押し立ちておろおろせず、淡わ淡わしき冷淡な御心などは、よも見せてならじ」
なと、いと良く言いなして、命婦は廂から二部屋隔てた寝所の際なる障子に御自身で手使らいて、いとかんぬきを強く差し、光源氏様が踏み込めぬよう、外側に座所の御しとね置き、客のおもてなし引き繕い給う。
いと慎ましげに思したれど、かようの人に知恵もの言うらむ心映えの成果なども、夢にも知り給わざりける無知なりければ、命婦の、
「学問を知り尽くした顔をなさりませ。せめてそのように振舞いなされば、男はうまく騙されます」
とかう言うを、そのような事も有るようにこそはと思いて、すまし顔もの仕給う。
つづく
十一
乳母役、遠の昔に退き経つ老い人などは、すでに曹司宿舎に入り臥して、早くも夕まどろい、居眠りしたる程なり。 若き召し使い人、二・三人あるは、命婦がにわかに知り合いから呼び寄せた者で、世にめでるられ給う光源氏様の御来訪に、
「きゃー、本当に素晴らしい方ね」
「本当、人目見ただけで幸せ」
などと、奥ゆかしき貴族の恋愛ものに思い聞こえてわくわくし、心げ騒々しく緊張し合えり。
末摘花はよろしき衣服の衣ぞ奉り着替えて、御簾の影にくつろい落ち付きと聞こゆれば、正じ身、御本人は何も乗り気がある訳でもなく、心げ騒々しく緊張するようでもなくぼんやりしておわす。
男は障子の影から、いと尽きせぬ思いの姫君の御有様を、想像ゆかしく心に理想化し、打ち忍びて用意仕賜える密会の御気配を、いみじう素晴らしい物になまめき思えて、鼻の下を長くして微笑みあえり。
「見知らぬ人にこそ、その美しい姿を見せめ。映えある優美な姿を。隠しまじき渡りを」
と光源氏様が言えば、末摘花様は扇で顔を恥ずかしそうに隠し給う。
「天下の光源氏様に慕われているのでございます。まだ恥ずかしがるなど、あな愛おしい。御部屋に入るよう、お声を掛けなさいませ」
と、命婦は思えど、ただ御ほどかにおっとり仕給う性格をぞ、後ろ安う差し過ぎたる事は、くよくよしないように見え奉り給はじ。『この方は御自身で未来を切り開くでもなく、ただ時の流れるままに身を任せ続ける。そんな方だ』と思いける。
そんなのんびりした人を、我が常に、
「もっと積極的に男を誘惑なさいませ。私達の暮らしが良くなるかどうか、関わっているのです」
と、責められ奉る罪避けられり事に、心苦しき人の屈辱御もの思いや、自らのお節介過ぎる自責の念など居出来むなど、安らからず思い悩み至り。
源氏の君は、人の御ほど、ただひたすらに待ち続ける下向きさを思せば、しゃれ覆る今様の流行を取り入れた良し張み、見せびらかしよりは、こよなう奥ゆかしと思し渡るにいじらしさを覚え賜う。
「とにかく大事に育てられた姫君ですから、自分から人にお願いしたり、我がままを言うような御人ではございません」
とかう光源氏様はそそのかされて、障子にいざり寄り賜える気配が忍びやかに近付けば、英の芳ばしい香り、いと懐かしう薫り居出て、慎ましく御ほどかなるを、
『さればよ、ふくよかなる餅肌の男好きな女やも』と思す。
「麻呂は命婦の話から、そなたの美しさを知った。絶世の美女でありながら、慎ましく家に閉じこもっていると言うではないか。その時からどのような女人なのか、逢いたくて逢いたくてたまらなかったのだ」
源氏の君は年頃思い渡る恋しい有様など、いと良うのたまい続くれど、まして無言のまま、
「私も光源氏様に御会いしたくてたまらなかったのです。命婦の口から気立てが良く、親切な御方だと聞いております」
などと、近き御答えは無言のまま『うんとも、すんとも』絶えてなし。光源氏様は『割り切れなしの冷たい技や』と、打ち嘆き賜う。
「幾ぞとなく度々に、君がしじまに
つづく
十二
鐘突きて 閉じめむ事は さすがにて 答えまう気ぞ かつは綾なし
鐘突きて 人閉じ込むは さすがにて 答え聞かぬぞ 心は痛し
いと若びたる恐怖の声を、事に命婦は重り苦しく自責なからぬを、
「末摘花様が、どうぞ御這入り下さいと言っております」
などと、姫からの人づてにはあらぬように聞こえなせば、
「今ほどよりは、もっと甘えて御すがりするのです」
と、末摘花は聞き給えど、珍しきうぶで無知な心が気持ちを動転させて、なかなか口塞がりて、思うよう持て成しでぬ技かな。命婦は外から襖に施錠し、かんぬきを師給う。
言わぬをも 言うに勝ると 知りながら 押し込めたるは 苦しかりけり
言わぬもを 好きに勝ると 知りながら 閉じ込めたるは 苦しかりけり
何やかとはかなき事仕賜うなれど、抱き寄せて手を握り賜うおかしき有様にも、真心を込めて真面目やかに物仕賜えど、末摘花の心の変化に何の甲斐もなし。
「ははは・・・。何をなさっておるやら。何か変ですぞえ」
などと、他人事のように言って、気持ちの高揚はまるでなし。
いと掛かる性欲の高揚も様変わり。光源氏様は全くやる気がなくなってしまいました。
「他に思う方があるのか。そいつにはぞっこん惚れこんで、淫らな事物、平気で仕給うのだろう。人にや冷たく仕おって」と、ねたましくて、
「よくも人を見下した真似をしてくれたものよ。覚えておけ。この恨みは必ず晴らしてやる」
と言い捨てて、襖をやおら押し開けて、侍従の部屋に入り賜いにけり。
命婦は、あなうたて決まり悪くて、何事も知らなかったように、眉をたゆめ、床に深々と頭を下げ給える・・・などとして、光源氏様の事が御気の毒で愛おしければ、知らず顔にて早々と我が部屋に入りにけり。
近くに控える若人ども、はたはた世にたぐいなき王子様の姫君を口説き落とす御有様の失敗を見て、
「噂通りの好き者らしき音聞きに、たまにはうまく行かないこともあるのか」
などと、王子が気まずい思いをしていることに罪許し、光源氏様に申し訳ない思いなどす。
光源氏様はおどろおどろしう怖い顔もせず、思いが叶わなかった事に恥ずかしい思いをしても嘆かれず、ただ思いも因らずはかなき有様にて、このような無様な結果を見られてしまった事に、末摘花様は、
『さる心も無きぞ』と思いける。
正身光源氏様は、ただ我にもあらず気が動転して、
「この麻呂のどこがいけなかったのか。何を理由に末摘花は私を拒み続けるのだろう」
などと、心恥ずかしく慎ましき芸事より他にやる事がまたもなければ、今は掛かる御気持ちぞ哀れになるかし。
まだ世に馴れぬ人の親王の娘として、大切に打ちかしずきかれたる箱入り娘として、見許し給うものとしてからに、人の妾となる事を心得ず、男の本性を露わにした姿に脅えるは、なま愛おしいと覚える王子様なり。
何事かに付けては、光源氏様がこのような不愛想な女に惚れたかは、御心の真相が止めまとまらぬ。打う悲しう溜かれて、光源氏様は供の者にも退散を告げず、夜深かうこっそり居出賜いぬ。
命婦は今後光源氏様と末摘花が『如何にならむ』と、心配で目覚めて、出て行く足音を聞きながら床に臥せりけれど、可哀そうな御姿を知り、見たような顔をしてはならじとて気遣いなどして、御送りにも出ず。また遠くから、
「もう御帰りですか。またおいでなさいませ」
とも、明るい声造らず。
君もやおら決まり悪くて、静かにそっと居出賜いにけり。
つづく
十三
その後、二条院におわして床に打ち伏し賜いても、おな思うに叶い難き末摘花への思いを、
「世にこそ男女の恋は意のままにならないこと」
と思し続けて、軽らかならぬ姫君の性格の硬さ、人の御ほど、容易に人を寄せ付けぬ素振りを、
「いったい、あいつは私の事をどう思し続けているのか。好きなのか嫌いなのか。あっちの方をやりたいのか、したくないのか。全く分からないではないか」
などと気掛かりで心苦しとぞ、悩ましく思し続ける。思い乱れて床に休まれておわするに、頭の中将、急きょ来訪して、
「若、若君はおるか。この忙しい時に、何処へ出掛けおったか」
などと、大声を張り上げながら寝殿へおわして、
「こよなき御朝の居眠りかな。結構な身分だわい。夜中に出掛けられた結ゑに、眠たげあらむかしとこそ、思いやら賜えられる。この色男めが」
と言えば、仕方なく起き上がり賜いて、
「心安き独り身の寝の床にて、誰に咎めらるる訳でもなし。気が緩びにけりや。帝の内裏より何か急な知らせでもあつたのか」
と、のたまえば、
「しかも何の、まったくその通りだわい。たった今、宮殿をまかり居出給いはべるままの姿なり。桐壺帝が予定の朱雀院行幸が今日なむ。雅楽人、舞人など定められるべきよし。御供せよとの事じゃ。
昨夜この事を帝より承りしを、父の大臣にも伝え申さむと思いてなむ、大殿へまかり居出て報告はべる。行幸の段取りを打ち合わせた後、やがてこちらへ帰り際、参りぬうべう説明はべる」
と、忙しげなれば、
「さらば二人もろともに、急いで支度をせねばなるまい。朝飯を食って行けや」
とて言って、汁物の御粥、せいろで蒸した御強飯召し寄せて、客人にも勧め参り賜いて、行幸の話を引き続け話したれど、頭の中将は、
「ああー面倒臭い。この忙しい時に上品ぶって別々に分けて食ってられるか」
とて言って、汁物を御強飯にぶっかけ奉りて食すれば、
「急いで出発するぞ。何だその間抜け顔は。なおもまだ、いと眠ぶたげなり」と、怒鳴りつつ立ち上がれば、
「夕べなかなか寝付かれなくてな」と、源氏の君、言い訳す。
「困ったものよ。隠い賜う事多かりける。程々になされ」
とぞ、頭の中将の恨み賜い声、聞こえ賜う。
この日は行幸の事ども多く定められる日にて、内裏の内にて準備に忙しくさぶらい、行幸の後、宮殿で暮らし賜いつ静かに時を待ちながら過ごす。
例のあそこかしこには、初回逢瀬の慣例に従い、文をだに愛おしく朝方届けたのを思い居出て、その日の夕つ方時にぞありける。
光源氏様が、
『義理でも再び会いに行かねば』と思い立つその矢先、雨降り居出て、ところ急くも気乗りがしないままあるに、早くも到着して、
「逢引きのお膳立てよろしく、途中の雨宿り、末摘花が家に笠宿りせむと言うのか」とは思されず、迷いや有りけむ。
そこかしこ軒下には、半時待つほど過ぎていら立ちを覚える頃、命婦も
『いと欲しき、しつこく迷惑な御若様かな」と、心憂鬱しく思いけり。
正身末摘花は、御心の中に若様から思いを寄せられることを恥ずかしう思い賜いて、
「今朝の御文があった予告の夕暮れ時になりぬれど。咎め拒否するとも思い分き給わざりけり。
夕霧の 晴るる景色も まだ見ぬに 燻せさせ降る 宵の雨かな
夕霧の 晴れる景色も まだ見ぬに しつこく迫る 宵の雨かな
雲の間途切れて光り待ち居出むほど早々と来られては、如何に心もとなう息苦し」とあり。
これほど度重なる来訪を、恋人がおわしまじき配慮の足りない御景色を、屋敷の人々は胸つぶれて御気の毒と思えど、光源氏様は、
「なお姫君にお会いできるよう聞こえさせ給え」
とそそのかし取り次ぎあれど、末摘花は、いとど、さらに思い乱れ給えるほどにて、「え型通り、世の慣例にも従わずもあらねど、恋愛やり取り続け賜わねば、兵部卿の姫として役目が務まらず、夜も更けぬ」
とて言って、
「ここはひとつ御逢いなされまし。『良しなに。またの機会に』などと、二つ返事で良いのです。返歌のやり取りは私共が書いてそっとお渡しします。安心なさいませ。誰もがそのように致しておるのです」
などと、侍従ぞ、例の教え聞こゆる。
晴れぬ夜の 月待つ里を 思いやれ 同じ心に 眺めせずとも
雨の夜の 宿り待つ人 思いやれ 同じ心に 従わずとも
などと口々に責められて、紫の紙の痛く年経ければ、灰色まみれに気後れした古めいたる色紙に、我が今の御気持ちを書き賜う。手はさすがに文字強う迫力があり、書体は中さだの古風な筋にて、上下間隔を等しく几帳面に書い賜えり。
末摘花は気乗りがしないまま書いてはみたものの、
「どうせ下手な和歌など読まずに捨てられるだけ」
と思い、改めて見る甲斐なう打ち棄てて置き賜う。せっかく末摘花様がその気になって文を書いたというのにどうした事でしょう
如何に相手が思うらんと、思いやるも安からず。係る努力事の結果を悔しがるなどは言うにやあらむ。下手な御文でも、真心は必ず相手に通じるはず。そうした失敗を重ねてこそ人々は上達するのです。
末摘花はさりとていかがせむ。我はさりとも心長く見守り果てむと思しなすが、この姫君は途中であきらめてしまう。そうした期待する御心を知らねば、人々の上達は有り得ぬはず。
紫式部としては、かしこの姫君にはいみじうぞ、嘆い給いける。
つづく
十四
大臣は夜に入りて、まかり出賜う内裏の用事を終えた後、参内を引かれ奉りて、御自宅の大殿におわしまし着きぬ。行幸の打ち合わせの事を興味ありと思欲して、親族が集まり、
「我が右大臣家ではどのような担当を仰せ仰せ遣ったのでございますか」
「人数はいかほどに」
「警護の私兵も同行させねばなるまい」
などとのたまい、おのおの命じられるままに、舞などを習い給うを準備に忙しく、源氏の君は笛を吹き鳴らし、使用人も笛や太鼓、琴など持ち寄りて、演奏の支度を整え給う。その頃の準備に忙しい時期にて、末摘花の屋敷に通う願いも空しく、大殿の夜は慌ただしく過ぎゆく。
鳴り物の音色ども常よりも力が増して、耳貸しがましくうるさくて、おのおの方々競い合うように挑みつつ、例の時々ふざけ合うような御遊びもなさらずに、大七力笛、尺八の笛などの大声吹き上げつつ、
重い太鼓さえ高欄干の元にまろばし押し寄せて、左大臣自ら手づからう打ち鳴らして音頭を取れば、親族の君達、遊びおわさうず、誰もが熱心に行幸の舞の練習に明け暮れるなり。
源氏の君は末摘花の事が気になりながらも、左大臣の下で指揮を執る者として、御暇いただく余裕なきようにて、切に思す親しき人の所ばかりにこそ、暇を盗まわれて、自分勝手にこっそり抜け出し賜えるも叶わず。
かの恋人の渡りには、いとおぼつかなく立ち寄る事も出来なくて、
『いと腹立たしい思いしたるかな』と思いながらも。秋も暮れ果てぬ。
なお末摘花の方にては、
『頼み寄越し甲斐なく、一時的な御遊びであったのか』と、さほど傷付く訳でもなく、秋の気配を感じながら空しく過ぎて行く。
行幸の日も近くなりて、試楽などの本番さながら、予行演習の舞や音合わせが盛んにののしられる頃ぞ、突然命婦参れる。
「如何にぞ、末摘花はどのように暮らしておるか。さぞや私の事を恨んでおるだろうな」
などと問い賜いて、姫を愛おしいとは思したり。
源氏の君のいたわりの有様聞こえて、命婦は、
「いと、かうも姫様の御世話を持て離れたる心映えは、見給ふる周りの人さえ心苦しく」
などと、泣き濡れるばかりに悲しい顔をして、事情も差し迫って思えり。
心憎く持て成して、
『光源氏様の御機嫌を損なうことだけは止みなう』と思えりし事を、くだくだしく述べてける。心もとなくこの人のずる賢く思うらむ事をさえ、顔の表情や目の険しさから怪しく思す。
正じ身の末摘花様は、ここで物は言わはで、兵部卿宮邸に思し埋もれて悲しみ給うらむ有様、光源氏様が思いやり賜うも愛おしく気の毒に思えば、
「暇なきほどぞや。行幸の打ち合わせに忙しく、抜け出す事もできぬ。末摘花を放つて置くは割り切れなし」
と、打ち嘆き賜いて言い訳すれば、
「姫は、物思い知らぬ殿方の薄情なる心様を懲らしめさむと思うぞかし。兵部卿の宮に告げ口して、光源氏を捕えさせるかも」
と、命婦は微笑み賜える。
命婦の姿が若う美しげなれば、我も打ち微笑まられるる心地して、意志を明確にしない割り切れなの人に、恨みられ給ふ御齢の嘆きや、思いやり少なう御心のままにならむ薄情さも、自分を拒絶する御断りと思う。
この頃の御急ぎ行幸準備のほどぞ、合間をみて命婦は時々訪ねておわしける。
つづく
十五
時が過ぎて年暮れの雪が舞い始めるころ、かの紫の上、ゆかりの地を訪ね取り賜いては、その残された人々の暮らしに振りに、慈しみに心入り賜いて、ささやかながら援助の品物を届け賜う。
かの六条の御息所でさえ渡りだにせず、枯れ増さり遠ざかり給ふめれば、まして荒れ果てたる二条の末摘花の宿には、哀れみに怠わらずながら、足先は物憂鬱きぞ、割り切れ無しに、心は遠ざかりける。
所責き姫を捨てた自分のやり切れない御物恥を、見表わさむの御心も、事に無うて平穏に過ぎゆくを、
「また見改めて打ち返し、過ぎた女を『いい女人であった』と見優りするような未練も有りかりしぞや。手探りのたどたどしき恥じらいに、怪しう惑わされ、心得ぬ暴走に突っ走ることも馬鹿馬鹿しくもあるにや。今さら見ても仕方がない」
と、思欲せど、けざやかに、はっきりと決着を付け、この恋愛がどうなるのか取り成さむも、まばゆく恥ずかし。
打ち解けたる宵入りの静かな夜のほど、やおら末摘花の屋敷に入り賜いて、格子の狭間より中のようすを見給いけり。
「誰か、兵部卿の宮がおわしたりはせぬか」
と、源氏の君が小声で聞けば、惟光、
「そのような気配はまったくありません。とっくに見捨てたようすです。若君も中を御覧になられますか」
と言って、後ろに退けば、されどとて源氏の君が、自らは中のようすを見え賜うべくもあらず、大方のようすは想像したり。
破れた障子の間から中を見れば、几帳など痛く損なわれたる傷みの激しい物から、床の畳、御簾、屏風に至るまで、年経けるも未だ立ち所変わらず、ほこりや蜘蛛の巣に覆われながらも。何もかもが昔のままな姿なり。
几帳や御簾を押しやりなどして中に踏み込めば、人の声一つせず何の動きも乱れねば、心元なく薄気味悪くて、そこは死の世界が漂えるとも思えたり。
「若君、これ以上歩き回っても、だれもおらぬぞよし。早いとこ引き上げて、二条院へ帰りましょうや」
と惟光が言いかけた時、人の気配がして、
「いや、しっ、静かにせよ。誰かが潜んでおるぞ」
「えっ?」
惟光が奥の北の扉を開けると、廂の中に姉御達、年増な女中女房どもが四・五人居たり。
御食台、秘色青磁器ようなる物、中国唐代に持ち込まれた諸越しの物なれど、人悪き無教養な下働きに使われては、何の草配、野菜や穀物の食料ももなくて、ただ小さき芋のような物盛るは哀れげなる。
主の住まう寝殿からまかり居出て、人々が夕食を食う隅の間ばかりぞ、人影が見えて、いと寒げなる女ばら達、白き上衣の言い知らず不潔に煤けたるに、汚げなるしびら袴布を引き結い付けたる腰つき、固く成して前に折り曲がりげなり。
さすがに顔の表情は上品で気品が感じられて、前髪に刺した櫛も押し垂れて、灯り差したる額のしわ付き、やせ衰えて目が窪み死人のような形相なり。
内教坊の雅楽に合わせて舞う女房や、内侍所の親王に仕える女官の姿の程に見えて、落ちぶれて食うにも困るこの館にては、帝の宮殿に掛かる特別職の者どものあるは身分不相応やわと、いとおかし。
末摘花の世話に掛けても、兵部卿人の辺りに近う振舞う者とも思えず、素性は知り給わざりけり。
「いと哀れ、最近にない、さも寒き年かな。命永らえなければ、すなわち辱めも多し(荘子)。掛かる不幸な世の中にも遭うものも無かりける。主が帝と争った頃が華であった」
とて言って、打ち泣く者もあり。
つづく
十六
「兵部卿の宮おわしましぬ寂しい今の世を、などて、どうしても悲しく辛しと思いけむ。かくも頼みの人もなくて、希望もなく無駄に過ぐるものに成りけりにや。ひもじい思いをして苦しむよりは、いっそ川に身を投げた方が・・・」
世の中を 憂しと優しと 思えども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば
この世をと 憂し憎しと 思えども 飛び去り兼ねる 鳥にあらねば
(山上億良)
とて言って、空へ飛び立ちめべく振舞うふる者もあり。
様々に人それぞれ悪き事ども災難を、愁いえり嘆き合え語るを、光源氏様が聞き賜うも片腹痛く苦しく思いければ、年増な姉御達の一人が、仲間から逃げるべく立ちのきて、
「あの北の方様さえお亡くなりにならなければ、このような不幸もなかったものを。姫様が可哀そう。腹いっぱい飯を食べさせて差し上げたいが、わらわとて空腹の身の上、どうにもならぬ。
光源氏様はどうしたのでございましょう。帝が行幸なさるまでは、あれほど頻繁においでなされましたにのに、今ではぷっつりと糸が切れたように、来なくなってしまったではないか。このままでは餓えて死にそう」
などと、ただ今おわするように同じことを言って、頭を壁に押し付けて、打ち叩き嘆き給う者もあり。
「そそや、そうや。もしかしておいで下さった時、御格子が閉まっておっては『末摘花様に嫌われた』と思われるかも。『不用心だ』と叱られました以前のように、扉を開けっぱなしにしましょうぞ。明かりも灯して。光源氏様でなくても他の方が御訪ねして参るかも分かりません」
などと言いて灯取り直し、格子明け放ちて末摘花を寝殿へ入れ奉る。
侍従は若かりし頃、京の斎院に参り通う若人にて巫女であられしも、桐壺帝が帝に御決まりになられた後は役目を解かれ、時々加茂神社の祭りに呼ばれることはあったものの、この御年では何の役目もなかりけり。
いよいよ怪しう飢えと寒さに体はひなびたる限りにて、顔や手や足も見てはならぬ心地ぞする。いとど外は冷え冷えと静まり返り、愁いなりつる雪も哀れぞ描き垂れて、いみじうも激しく降りにけり。
外の物音大きく、空の景色激しう風も吹き荒れて、大殿、寝室の油火消えけるを、
「だから言うたではないか。格子開ければ風が吹き入りて、灯りが消えてしまうとな。面倒になるものを」
と、責める者もあり。
「おお寒い」
と、死神のような老婆が格子を閉めたものの、火灯し作る人もなし。かの五条の廃院では、物の怪、妖怪物に襲われし折り、夕顔の死様も思い出でられて、荒れたる有様はあの廃院にも劣らざらめるを、
姉御達の小部屋は五条の寝殿に比べても、比較にならないほどの狭まう窮屈で、人げの少し四・五人あるなど慰めになりたれど、すごう、憂立て気味悪く。いざという時に備え用心せねば、命も落とす心地ぞする夜の有様なり。
おかしうも、哀れにも、人の気配多くして多少にぎやかなれば、ようす変えて夕顔とは性格反対の心留まりぬべき末摘花の有様を、いと埋もれ痛く極端に陰気な性格に添うべくすこやかにては、何の映えなき人柄をぞ、口惜しう思す。
「末摘花、末摘花はおるか」
と光源氏様が大声を出して寝殿の中へ入り賜えば、
「出た出た、とうとう出て来おったぞ。物の怪じゃ、刀で身を守れ」
と、侍従は短刀で身を守ろうとする。
「何を慌てておる。落ち着け。落ち着け。光源氏様とわしじゃ。惟光だぞ」
朝臣は慌てて刀を引っ込めるよう促す。
「ええっ、あちゃー、本当だわい。まさしく惟光だわい」
「どうしてもっと早く御訪ねして下さらなかったのですか」
と、壁に立った女が振り向けば、
「急に現れるなど脅かさないで下さい。驚きましたぞえ」
と巫女の形をした老婆が言う。
軽ろうじて世も明けぬる気配の景色なれば、人々の顔の姿も薄々見えて、光源氏様ご自身、格子を御自身で手づから上げ賜いて、明るくなった庭の前栽、雪の庭景色を見賜う。
踏み開けたる足跡もなく、はるばると遠くまで荒れ渡りて、木立に蔦が絡めて枯れたれば、いみじう寂しげなるに、この老婆の姿を見れば薄気味悪く逃げ出したくなるに、振り捨てて出て行かむも哀れに気の毒にて、
「おかしきほどの空も見賜え、末摘花殿。雪景色も中々いい物じゃ。前栽の松に積もった雪も中々見応えあるぞ。何も御簾の中だけが極楽ではあるまい。外に居出てもっと美しい世の中を御覧なさりませ。尽きせぬ御心の隔てこそ、割に合わなけれ」
と、一向に姿を見せぬ末摘花に恨みがましい皮肉聞こえ賜う。
まだほのかに暗けれど、雪の光に光源氏様の御姿が、いとど清らかに若う伸びやかに見え賜うを、老い人ども微笑み栄えて、
「おおー、さすがは光源氏様、御立派な御姿」
と、感動し、御簾の中から見奉る。
「早く居出させ給え、末摘花様。何時までも御簾の中に隠れて居っては味気なし。心美しき素直であられらるるこそ、若い娘に必要なりけれ」
などと、老婆の教え聞こゆれば、さすがに末摘花も・・・・
つづく
十七
「早く居出させ給え、末摘花様。何時までも御簾の中に隠れて居っては味気なし。心美しき素直であられらるるこそ、若い娘に必要なりけれ」
などと、老婆の教え聞こゆれば、さすがに末摘花も人の教え事を、え否び給わぬ御心になり賜いて、とにかくうも、この場を引き繕ろいて、恥ずかしげにうつむいて高欄干に居ざり居出賜えり。
光源氏様は末摘花が怖がらぬようにと、見ぬようにして戸外の奥の方、庭を眺め賜えれど、目尻横目はただならず興味深々にて、
「如何に素晴らしい姫ぞや。早く真正面からその御姿を見たいものよ」
と思せど、今だに恥ずかしさの方が、打ち解けるに勝るにいささかの間違いもあらねば、隣に立っている事さえ嬉しからむと思すも、まだまだ二人の関係が恋人になったと確信するでもなく、あながちに安心するは意志尚早なる御心なりや。
横目で見た限りでは、居丈高く腰折れの感じがして、小背長細身に見え賜う。
「さればよ、八頭身美人か」と期待に胸つぶれぬ。
「この雪景色もなかなか美しいものでござろう、末摘花殿」
光源氏様は話し掛けながら末摘花を見ようとしましたが、なぜかそれを拒む強さが感じられます。目はまだ正面を眺めたままでいます。
「あい」
「静かな静かな朝の雪景色じゃ。鳥のさえずり一つ聞こえぬではないか」
「あい」
光源氏様は末摘花の間の抜けた返事に少し違和感を覚えましたが、
『それも人慣れせぬ事情に因るものだろう』と、良いように解釈しました。
その時です。目の前の唐竹に降り積もった雪が、重みに耐えかねてしなったかと思うと、一気に雪を振り払い跳ね上がって行きます。二人の頭上に粉雪が降り注ぎました。
「あれー」
びっくりした姫君は光源氏様に持たれて行きます。
打ち継ぎて、あなた方はどんな人かと見ゆる物は、まず赤い鼻なりけり。ふと強烈な印象で目ぞ留まる。思い出いずるは、普賢菩薩の白象に乗る乗り物と覚ゆ。鼻は華麗にてその基茎をたどえれば赤真珠のごとし。
「なぜ姫の鼻は赤い」と不思議に覚ゆ。
浅ましゆう高う伸びらかに鼻は大きくて、先の形、少し垂れて色付きたること紅のごとく光るなり。事の外気味悪く、うたて吐き気もよおす気持ちもあり。
色は雪に恥ずかしう白うて、さ青に気分が悪いように思える。額付きこよなう広く晴れ渡るに、なお下太りがちなる面立ちようは、大方驚ろ驚ろしう醜くて、扇で顔を隠した姿から見て、顎は長きへちまに見えるごとく締りなきに見えるべし。
痩せ賜える事愛おしいげに、骨が突き出るほどさらぼいて、肩のほどなど痛げなるまで死人のごとく、骨のほどが衣の上まで見ゆる。
このみっともない御姿を、何に残りなう見せ表しつらむと思う恥ずかしき物心から、珍しき出しゃばりの有様に見えしたれば、光源氏様もさすがに打ちのめされて、外の景色を見やられ賜う。
首の弱げなる頭付き、髪の足元まで伸びた残り少ない掛かり端も、美しげにつやつやした他人のめでたしと思い聞こゆる人々に比べれば、下働きの女にもおさおさ劣るまじう伸びすぎて、袿の裾に溜まりて引かれるほど、一尺ばかり余りて、切り足らむと見ゆ。
着給える物どもさえ言い伝えつるも、意地が悪くて恥ずかしき事なれど、物言い難い女のさがなれば、救い無きよう口やかましく見苦しなれど、
「昔物語に出てくるような、古い御装束」
とこそ、まず言いたく書き留めれ。
薄い紫の許し色なれど、肩の辺りが割り切れなう上白み、変色したるひと重ね、何時までも名残り惜しげなう喪服の黒き袿重ねて、上着には古きクロテンの毛皮衣、いと清らかに芳ばしき薫りをさせて着給えり。
古代の由緒付きたる冬の御装束なれど、なお若やかなる女の御装いには似合気なう驚ろ驚しき殺生の事思い出されて酷なれど、当の本人は暖かく気持ちが良いのか、いと大切に持てはやされ自慢げに着たり。
されどげにこの毛皮なうては、はたはた寒から増しと見ゆる御顔ざまなる震えを心苦しと見賜う。何事の願いも言われ給わず、二人の間に沈黙が続いて、我さえ口閉じたる心地し賜えど、
幾そたび 君がしじまに 負けるらん 物な言いそと 言わぬ頼みに
幾たびか 君が黙秘に 負けるらん 何も言うなと 願う頼みに
例の前に詠んだ和歌の『しじま』も試みむと、
「そんな人の恋を『恥ずかしい』とのたまうも、棄ててこそ良かし」
言ならば 思わずとやは 言い果てぬ なぞ世の中の 玉だすきなる
言葉では 思わずとかは 言い切れぬ なお色恋の 玉出す気なる
と、かうにも聞こえ給うに、末摘花は痛う恥じらいて、口覆いし給える袖の仕草さえ日な引いて古めかしく、神殿に祈祷する儀式官の数珠を練り居出たる肘餅に思えて、さすがに姫の微笑み賜える御景色、はしたなうすずろにほころびたり。
「嫌よ嫌よも好きの内と言うではないか。ここまでその気にさせておいて、この立派な玉見せぬは苦し」とのたまう。
「あれーえ、姫はそのような恥ずかしい事を頼んだ覚えはないぞえ。二人でこうして立っているのも恥ずかし。夜が明けきらぬ内に、とっとと御帰りあそばれまし」
と言って、末摘花は奥の部屋へ立ち去る。
御簾の影に隠れてしまった姫君を見て、光源氏様は末摘花の事が愛おしく哀れに思えて、いとど急ぎ廂の小部屋を居出立ち去り賜う。
「頼もしき人無き有様を・・・・
つづく
十八
「頼もしき後見人無き有様を心得ながら、何をためらっておる。そんな姫君を見染めたる人には、疎からず親しく思い、仲睦びて優しく持て成し給わぬこそ、そなたの本意ある心地すべけれ。
何時までも家柄の小さき名誉に縛られ、許しなき寝床を共に過ごす御景色なければ辛う。何のためにお尋ねしたか、わからないではないか」
など言付けて、
朝日さす 軒のたるいは 溶けながら などかつららの むすぼほるらむ
朝日さす 軒の垂る氷は 溶けながら なぜか辛うも 結び折るらむ
とのたまえど、御簾の中の末摘花は、ただ、
「むむ」と、打ち笑いて口重げなるも愛おしげに冷淡なれば、
「これ以上待っても、わしにすがり付いて、甘える気配などないわい」とあきらめて、末摘花の寝殿を居出賜いぬ。
御車寄せたる中庭門の、いと痛う歪みよろぼいて、今にも倒れそうな姿が末摘花の境遇を物語っている。夜目にこそ痴るき曲者ども、よろずにも隠ろえたること多かりけれ。
「あの物好きな頭の中将が覗いているかも」
と思って周りを見たものの、雪を踏み歩いた形跡はなく辺りは静かなり。
寝殿から東へ伸びた渡殿は、いと哀れに蔦が絡まり寂しく荒れ朽ちまどへるに、近くの松に降り落つる雪のみ暖かげに降り積める。ここは何故か山里の心地して、見る物哀れなるを異国の心地して、
「かの人々が言いし世捨て人のむぐらの門は、かようやなる寂しうなる所になりけむかし。現に心苦しくろうたげならん若い人をここに据えて、我は後ろめたう姫を恋しいと思うはばや。
あるまじき不倫の物思いは、荒れ果てたる屋敷の中にあり、つたが幾重にも重なったむぐらの庭は奥が見えにくくて、妻の監視のそれに紛れなむかし」
と思うてはみても、
「この屋敷の中に『はっ』と思うようなる美しい姫が隠れているでもなく、誰も踏み込まぬようなるこの住み家に、虚栄心など似合わぬ姫の冷たい態度の御有様は、誰も物好きに末摘花を盗る方なし」
と思いながら、
「我ならぬ物好きな人は、この世に二人とおるまい。まして誰もここには、見忍びて来むや。我がこうして見慣れて幾度も通いけるは、故見捨てた親王の我が娘に対する『後ろめたし』と思う償いからか。我をたぐり寄せ、男を、え置き賜いけむ魂の道しるべなめり」
とぞ、思いもさるる。
御所の右側に植え込まれた橘の木、雪に埋もれたる。
「惟光、誰かを呼べ」と御随身召して雪を払わせ賜う。
橘の木は尊けれど、同じ庭木でありながらの無視された隣の木は、羨み顔に松の木、勢いよく跳ね起き返りて、『ざざっ』と周りにこぼれ落ちるる雪も、名に立つ末の銘木の誇りに見ゆるなど、いとおかし。
「うわー、冷たいぞよ。首筋に雪が入り込んだ」
「ははは・・・、松の木も小君に雪を振り払って欲しいのだとよ」
と光源氏様が笑えば、「もうこれ以上面倒は見切れません」 と小君は、惟光の後ろに隠れ給える。
いと深く丁寧らずとも、『なだらかなるほどに庭木を整え、適当に合えしらわわむ人もないがな』と、見賜う。
御車を出ずべき外の門は、まだ開けざりければ、
「何をしておる。早く門を開けさせよ。夜が明けたではないか」
と随身に命じてはみたものの、朽ち果てたこの屋敷にそれほど気の利く人がおるでもなく、
「鍵の預かり人を訪ね居でたれ」と言えば、相当に年を重ねたる翁の、いといみじきたる親切な人ぞ、出で来たる。
娘にや、娘孫にやもらい受けたると思える、端した短かなる衣は雪に出合いてさらに煤け目ちまどい、一重ねは寒しと思える哀れ景色深うて、怪しき家の者に火入れあんかを持たされて、ただほのかに手先を袖ぐくり気味に持つたれり。
翁、「門を開けやらねば」と思い、門に寄りてかんぬきを引き助くるも、いと固ければ、光源氏様の随身が助けに加わるななり。御供の人寄り集りてぞ、歪んだ門を蹴り開けつる。
降りにける 頭の雪を 見る人も 劣らず濡らす 朝の袖かな
降りにける 翁の雪を 見る人も 劣らず濡らす 朝の騒ぎに
「雪降りて 幼き者は 形隠れず 老いたる者は 体に温なし」
などと、白子の漢詩を手拍子で打ちずじ賜いても、寒き随身の姿は鼻の色ににじみ居出て、いと寒しと見えつる。末摘花の御面影、ふと思い居でられて、
「末摘花の鼻の色は、寒いせいであったか」
と、安心して微笑まれ賜う。
「頭の中将に、門を蹴破る騒ぎ、これを見せられたらむ時、如何なる苦言事を他所へ言わむ。常にわしの行動を伺い来れば、今にも見付けられなむ」
とすべなう、恥ずかしく思す。一行は足早に立ち去って行きました。
つづく
十九
世の常なるほどの習慣に逆らいて、常識と異なる事なさらば、末摘花への思いを捨て止めみぬべきを、荒れ果てたる館の暮らしを定かに見賜いて後は、中々哀れにいみじく思われて、真面目やかなる有様に心掛けて、常に訪れ賜う。
古狐、クロテンの皮ならぬ絹や綾綿の織物など、老い人、姉御女房どもの着るべき物を贈るなどのたぐいは言うまでもなく、例の翁老人のためにも、上下の狩衣と袴を思しやりて奉り給う。
かようなる事の真面目やかなる施し事も、兵部卿の宮の娘として恥ずかしげならぬを、心気安く、さる殿方の後見にて育み、新たな生活を受けまむと思欲しとりて、様々事に更ならぬ優しさが加わりて、なお一層の打ち解け技も仕賜いけり。
「かの空蝉の、打ち解けたりし宵の誘うような側女の流し目には及ばなくて、いと悪かりし笑顔の姿形ざまなれど、これほどの不器用な女ならば、自分の持て成しに隠されて軽蔑し、夕顔ももこの女に口惜しうは嫉妬も有らざりかし。今さら幽霊に化けて出る事もあるまい。
世間の評判に劣るべき人なりやは、現に天下の美女の品位にも及び寄らぬ護身の技なりけり。心映せのなだらかに取り成す気立ての良い女には、妬けに腹立たしくなりしを、末摘花は負けて争いを止みにしかな」
と、物の折々事には、
『なるほど、そうした女の生き方もあるのか』と、思し出づす。
年も暮れぬ。源氏の君は新年の準備に忙しく内裏の宿直所におわしまするに、大舗の命婦参れり。君の髪を整える御削り櫛などには、懸想立つ色恋の筋もなくて、帝の側近に対する単なる仕事と思えば、心安き御気遣もいらぬものの、
髪を整える命婦の熱心さがおかしくて、君がさすがに、
「その女を捨てたような真面目な仕事ぶりは、いったいどうしたというのだ。普段通り男に色目を使っても良いのだぞ」
などとのたまい、戯れなどして冗談を使い慣らし給えれば、命婦も親しみを感じて、君が召しなき不要な時も、聞こゆべき知らせのあるべき折りには、何かと格好つけて舞い上り話しけり。
「兵部卿の宮邸において、怪しき事のありはべるを知りながら、光源氏様に聞こえさせざらむも、ひがひがしう思い給えられて、この文を届けて良い物か少し悩みましたが」
と、物々しい言い方で微笑みて、軽く聞こえさせやらぬを、
「何起り様の事ぞ。わしが留守の間に、末摘花に何かあったのか。我には包み隠さず話し、『秘密なむ事などあらじ』となむ、思う。何があったか、残らずはなしてみよ」
と、のたまえば、命婦、
「いかがかは、良し悪しの判断に及ばず。自らの愁え事は、賢くともまず光源氏様に話してこそは、筋が通ると言うもの。『これはいと聞こえさ難くなむ』」
と、痛う言葉を内に込めたれば、
「例の艶なる命婦の思わせ振りぞ。何かにかこ付けて、わしを末摘花の屋敷に導き入れようとしても、そう易々とその手に乗る者か」
と、警戒して憎み賜う。
「かの宮姫より持たせはべる御文がこれでございます」
とて言って、懐より木箱を取り居出たり。
「何をそんな大事なものを隠しておった。ましてこれは恋文ではないか。取り隠すべき事ではあらず。直ぐにも返事を返すべきかは、そなたも存じておろう」
とて言って、初めての文を取り給うも、嬉しくて胸つぶれる。
みちのく紙の黒檀の素材ながら、暑く肥えたる強さに折り目が開かれて、中の文字が見られそうになる。
「厚紙は恋文には向かぬぞ」と思いながら読み始める。
黒檀の甘い匂いばかりは、厚紙に深う湿り給えり。筆使いも、いと良う書き仰せたり。歌も、
からころも 君が心の 辛ければ たもとはかくぞ そぼちつつのみ
唐衣 君が思いも 強ければ たもとは濡れる 磯のあわびも
とあり。ろくに歌も心得ず、伝えたき意味に首を打ち傾ぶき給えるに、
「何だこの歌は。磯のアワビの恋歌か」と笑い賜う。
御文の包みは衣箱の重なりにも桔梗の文様が有り、古風なる家柄の風格が感じ取られる。命婦はその漆塗りの箱の上に包み衣を乗せて、前に打ち置きて手を伸ばし、光源氏様の前に押し居で出したり。
つづく
二十
「今夜の誘い、これを、いかでか叶えてやるかは悩む所ぞ。簡単に『嫌だ』と方払いしたく思い給ざらむ。されど正月ついたちの御装いをいただいたとて、物々しい出で立ちぞ。この装いで、わざと末摘花の屋敷で過ごしはべらめるを、世間の常識からすれば、はしたなう映え返し、目立ち過ぎて笑い者になりはべらず。
寂しい家に一人引き込め退屈に過ごしはべらむも、人の道理に御心違いはべるべければ、断るも許され給わざるべき」
と光源氏様が御気遣いすれば、
「されど、めでたい正月の御装いを御覧ぜさせてこそは、末摘花も喜ぶと言うべき。是非ともその華やかな衣で御姿をお見せ下さい」
と、命婦の仰せ言葉聞こゆれば、
「引き込められなむ人は、辛く苦しかりなまし。濡れた袖を巻き干さむ世話もなき身に、末摘花の恋しい御言葉は、いと嬉しき心差しにも思いもすればこそは。と言いつつ、
淡雪は 今日なお降りそ しろたえの 袖巻き干さむ 人も有ら無く
淡雪は 今なお降りそ しろたえの 袖巻く人も おらぬ姫には
(万葉集)
早く末摘花に逢いたいものよ」
と、のたまいて、ことに急ぎ出発の物事は、言われ賜わず。
「さてさて、さても浅ましい御文の口付きやないか。これこそは末摘花自ずから書いた、手づからの御事の文限り、訂正無きなめれ。侍従こそは何をしておった。取り急ぎ直すべかめるを、恥を知れ。
また筆の扱いを知りとる学問院の博士ぞ、近くには無かりべきか。高度の知識の博士こそ御近くで仕えたならば、このような不始末もなかるべきを」
と、言う甲斐なく思す。
心を尽くして和歌を詠み居出賜えらんほど末摘花が思すに、
「いともおかしき熱意のある御方とは、これをも言うべかりけり」と、微笑み見せ賜うを、命婦、
「あり合わせの贈り物を繕い、光源氏様に届けたるは恥であったか。考えてみれば光源氏様には、左大臣家に葵の上と言う正当な妻がおった」
と、おもて顔を赤みさせて見奉る。
贈られた正月の正装服は、今用色の紫色ではなく、あせた紅色で、光源氏様が御召しになるには、え許すまじく、艶無うあせて古めきたる。直衣の裏植えも表と等しう粗末で、細やかなる絹の生地なり。
縫い目はいと尚直しう継ぎはぎだらけで、重なりの端づま、膨らみぞ見えたる。
「何だこの粗末な直衣は。裏地に紅色を使うは浅まし」
と、思すに、添えられたこの文を広げながら、端に手習いのすさび文字がが浮かんで、それを手本に書き写し給う気配をを、側目横目に見賜えれば、
なつかしき 色ともなしに 何にこの 末摘花を 袖に触れける
なつかしき 紫なしに 何にこの 紅花色を 袖に縫いける
紅花を 色濃き花と 見しかども 人をあだくに 移ろいにけり
紅花を 色濃き花と 見しかども 人の情けも 移ろいにけり
(奥入)
末摘花よ、男を信じてはならじ」
などと、末摘花の御文に、書き汚し賜う。
花の咎めを知りながら、なお浮気に走りらむも人も有るよう、あらむと心にやましさを感じながら、時々想い合わする折々の月影などを、愛おしき物から遠ざかるを、光源氏様はおかしう思いなりぬ。
「光源氏様、
紅の 人は夏衣 薄くとも ひたすらくたす 名仕立てずば
紅花の 人は夏衣 薄くとも ひたすら守る 名を汚ずば
心苦しの世や、この世の中は」
と痛う言い馴れて、命婦は一人ごつを言い給う。
つづく
二十一
命婦の和歌も良きにはあらねど、かう要の飼い馴でつらむ平凡な歌だに有らましかば、末摘花に不満のひと言も言うまいものをと、光源氏様は返す返す口惜しく思いなさる。
人柄のほどの、末摘花をお守りしようとする命婦の心苦しき思いやりのほどに、兵部卿の娘の名誉に朽ちなむ思いやりは、さすがなり。
二人が話し込んでいた内裏の宿直所に人々参れば、
「取り急ぎその贈物を隠さむや。人に見られたらまずい。頭の中将知られたら、それこそ大事だぞ。掛る姫君が男に着物の贈り物をする技は、普通の人のするものにやあらむ。急いで隠せ」
と、うちめき嘆き賜う。
『何人に御覧ぜさせ慌て賜う。人に咎められるほど身分の低い御方でもあるまいに、光源氏様ならもっと堂々として、
「ここは立て込んでいるゆえ、入るべきにあらず」
と、一括すれば良いではありませぬか。光源氏様の慌てよう、我さえ心無きような小心者に見え賜う』
と思いにけり。
内侍の命婦も光源氏様と同様に、いと恥ずかしくて、静々とやおら人々が通り過ぎるのを待ち居りぬ。
心なき 身にも哀れ 知られけり 鴫発つ沢の 秋の夕暮れ
心なき 我が身の哀れ 知られけり しぎ発つ川の 秋の夕暮れ
(西行)
また次の日、光源氏様は桐壺帝が住まわれる上の清涼殿を御訪ねさぶら賜えば、女房どもが過ごす台飯所に差し掛かり、部屋を覗き賜いて、
「臭わや、この雨に濡れたような匂いは何だ。部屋をきれいに掃除しとるか」
と、片手で鼻先を払いながら、
「所で命婦よ、昨夜の返り事の和歌、気になって仕方がない。怪しく心張み、気掛かりに過ぐしはべさるる」
とて言って、問題を投げ賜えり。近くにいた女房達、『何事ならむ』と、二人の秘密を暴こうとゆかしがる。
「ただ、梅の花館の色事。赤花の動き掛かりぞ。三笠の山の乙女をば捨てて、早々と二条院へ帰ったと思さるるか。
天の原 振りさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
天の原 振り避け見れば 近くなる 紅花里に 出でし月かも
我が家を照らす月が、女の庭も照らすとぞ。紅花色が気掛かりぞ」
と、歌いて扇で顔を隠し、すさびて女房の前に居出賜いぬるを、命婦は口元を押さえながら、いとおかしと思す。そこにいた見知らぬ人々は、
「謎めいた笑い事は何事ぞ、命婦御一人微笑み給うは、怪しき秘密が読み取れる」
と、咎め合えり。
「あらず、光源氏様との間に秘密など有るものか。寒き霜朝に鮮やかな紅梅は似合わぬ。掻い混ぜ練り込める女房どもの鼻の色合いにや、見えつらむ。君の御つづりし歌の御相手は、ここの女房どもを思いやる優しさも愛おしき」
と、命婦が言えば、他の女房ども賄いの手を止めて、
「そのような事が、有ながちなる御事かな。この中には光源氏様と密通すると匂える女房は何も無かんめり。左近が妻の命婦、肥後のうね部女房や少し赤鼻に見えしも、光源氏様の御相手には交じらいつらむ」
など、身分の心も得ず、互いに言いしろう。
「光源氏様、そのように御気掛かりてございましたら、どうぞその御相手に歌の返歌をお届けなされまし。その方も大変お喜びでございましょう」
と命婦は進言しけり。
「あい分かった。くだらぬ用事で大変邪魔したな」
と言いつつお返り和歌を奉りたれば、源氏の宮が後には、帝が台飯所の女房集いて、お見送り見目居出けり。
逢わぬ夜を 隔つる中の 衣手に 重ねていとど みもし見よとは
逢わぬ夜を 隔つる姫に 思い寄せ 重ねて幾度 衣見よとは
台飯所の簾をくぐりながら、ふと立ち止まり、白き紙に和歌を捨て書い賜える仕草の動きもぞ 中々風流でおかしげなる。
つづく
二十二
月籠りの大晦日、夕つ方にかの衣箱に御礼とて、
「先日は大変失礼な事を致しました。兵部卿の娘とあろうものが、光源氏様に粗末な衣を贈るなど、あってはならぬこと、改めて見立ての物一式、お届けに参上いたしました」
と言って、人々の奉れる御衣ぞや、ひと道具持って参りたり。
海老染めの赤紫色織物の御衣ぞ、また山吹か何かの衣ぞ色々見えて、命婦ぞ光源氏様に奉りたる。衣箱に有りし色合いを、御衣として『悪ろしとやとも見賜いけん』と、思い知らされるれど、
「彼の御召し物としては、はたはた紅の重々しかりしお似合いの衣ぞや。さりとも光源氏様の御好みからしても、御衣の一つとして消えじ」
と、値び人どもは、これまでの経験からして、
「今度は是非ともお受け取りになるに違いない」と定むる。
「末摘花様の御歌も、これよりは道理にかなった言割りに聞こえて、したたかに心打つ物にあれ。御帰りの歌は、ただ心に決めたおかしき方にこそあれ」
など周りの女房は、好き勝手な事を口々に言う言う。姫君もおぼろげならで、賢く仕出かし給える技なれば、今後は二度と失敗を繰り返すまいと、物に書きつけて、体験を記録に残し置き賜えりけり。
正月のついたちのぼどにまでに過ぎて、今年初めての宮中行事、音鼓たたき笛吹かし舞う男踏歌あるべければ、例の公達ども所々ふざけて遊び、悪霊をののしり追い出し給うべく床踏み歩く者、
白馬をいたわり自慢げにみせびらかす物、騒がしけれど、光源氏様は孤独に育ちになられたせいか、完全に乗り切れなくて、寂しき所の馬鹿げた遊びの哀れに思しやらるれば、
正月七日の日の節会には疲れ果てて、夜に入りて、桐壺帝の酒宴の御膳より早々とまかり居出賜いけるを、やがて光源氏様専用の御宿直所に泊まり賜いぬるように決めて、そこで夜更かしておわしたり。
例の馬鹿げた祭りの有様よりは、御顔色の気配、打ちそよめいて生き生きと世付いて元気におわしたり。君も少し、たおやぎて落ち着き給える景色を持て付け賜えれば、笑顔も生まれり。
しかし如何にぞ、自分が楽しいとは言っても、公けの酒宴の席を退散した後ろめたさは残り気が掛かりなる。
「改めて引き返したらむ時ぞ」と思い続けらるるものの、体は思うように動いてはくれない。
そのままに時は過ぎて、日差し出ずるほどになると心は安らい賜い成して、宮殿を居で賜う。
末摘花の屋敷に到着し、東の妻戸を押し開け破入りたれば、反動で扉が戻り返して、廊下の上でも中の廂の間でもなく往復し暴れたれば、朝日の長い光足、ほどなく差し入りて、中のようすが浮かび上がらるる。
雪少し降りたるに、中を明るく照らし、いとけざやかに見入るれらる。
「雪で御召し物が濡れてしまわれたのでございましょう、光源氏様。御着替えの服を用意致しました」
「これは末摘花殿、かたじけない」
女房頭が差し出す御直衣など奉るを見出して、光源氏様が微笑み賜えれれば、末摘花、少し前に差し居出て、傍らに臥し給える控えめな頭突き、謙虚で優しい心がこぼれ居出たるほど、いと華やかでめでたし。
御生き直りを見居出たらむ時と思されて、気が変わらぬうちに格子戸を引き上げ賜えり。中に明るい日差しが差し込み、末摘花の御姿が浮かび上がりたる。
「あっ、これは何と・・・」
愛おしかりし期待とは裏腹に、末摘花の姿は余りにも醜くて、頭がくらくらするほど幻滅した物懲りりに、格子戸を最後まで上げるも果て賜はで、手を止めて姫を見賜えり。
姫は脇息を押しよせて、右胸を打ち持たれて横になり、足元が乱れるほど十二単の裾は乱れたる。御鬢ぐきの頭の髪は寝乱れて、しどけなき姿を気にも留めずくつろい賜う。
割りなう古めきたる鏡台の上に置かれた唐櫛げ、仕方なう掲げの化粧箱など取り居出たり。
「姫よ、そう気を遣わずとも良い。そのままになさるが良い」
「あいー、わかったわい。なれば御言葉に甘えて、そうさせていただきます。御櫛とぎは嫌いじゃ」
さすがに男の御化粧道具さえほのぼのあるを、ほこりまみれに不潔に感じられて、『あるものは大事に扱わねば、不似合いな物持ちなるぞ』と、思されて、良家の屋敷には何もかも整っていることが『おかし』と、見賜う。
つづく
二十三
「それにしても末摘花殿、今朝のその十二単はどうしたというのだ。今はやりの唐模様、鶯色はすぐ先の春を思わせて美しい」
「そうかえ。わらわも気に行ったぞえ」
「どこでそのような美しい衣を手に入れたのでございましょうぞ」
とて言えば、女房頭と思える三十過ぎの女が前に進み居出て、
「何をおっしゃいますやら、光源氏様。末摘花様の御召し物も、私のこの服も、つい三か月前、光源氏様から送られたものでございますよ。末摘花様の後ろに置かれた箱を覚えておいででしょう」
とて言って、命婦は姫の後ろに置かれた御具を指差しにける。
「思い出した、思い出した。確かにわしが送った御道具箱一式じゃ」
「で、ございましょう。おっほほほほ・・・」
「はははは・・・」
女の御装束『今日は珍しく現代風に世付きたり』と、見ゆるは、在りし日に贈った箱の真心。命婦の御言葉を、さながら再現するに成りけり。興味ある紋付きにて、痴るきうろ覚えのある上衣ばかりぞ、
『おやっ』と、怪しとは思いしける。
「今年こそはだに、『私を好きです』との声、少し聞かせ給えかし。『何もかも光源氏様の御意のままに従います』と待たるる物思いは差し置かれて、少しずつお気持ちの景色、心の改まらむ、なむも奥ゆかしき。
あらたまの 年立ち替える 明日より 待たるる物は 鶯の声
あらたまの 年立ち替わる 冬日より 待たるる物は 鶯の春
(素性法師) 」
と、光源氏様、のたまえば、末摘花、
「さえずる春は、さえずる春は・・・・」
と、辛うじて少し和歌が居出給えるものの、わなわなかしく言葉に詰まり、悲しく居出振る舞いたり。
「もも千鳥 さえずる春は 物事に 改まれども われぞ振り行く
群れ千鳥 さえずる春は 旅立つ日 見方替われど われぞ振り行く
(古今集)
と、このように言いたかったのであろう、末摘花殿。その和歌の一言でも言えたら大したものよ。さりや、年月経ぬる年の効かな。物忘れとは、我々も年取ったものよ」
と、打ち笑い賜いて、
「忘れては 夢かとぞ・・ 思い来や 雪踏み分けて 君を見むとは
忘れては 夢かとぞ見る 見送りに 雪踏み分けて 君を見むとは
(古今集在原業平)」
と、おぼろげな和歌をずじて歌いながら、末摘花の館を居で賜う。
粉雪の舞う前栽前庭を歩き賜う光源氏様を見て末摘花は、高欄干の雨戸に持たれ掛かりながら見送りて、床に添いて伏し給えり。口元を覆い隠す扇の上端、側目の流し目より、素直かに流す涙のの末摘花、いと匂やかに控えめに差し居でたり。
「ああした謙虚な姿もいいものよのう。自分の醜い姿を悟り『またしても男に捨てられる』と、覚悟しているのであろう。
しかし、麻呂はああした無教養な女は苦手だ。惟光にでも任せるとしよう。。罪滅ぼしにお詫びの品を大盤振る舞いし、静かに立ち去るとしよう」
孤独な姫に恋した自分を反省し、今までした事は見苦しの技やと若君は思さる。
時は半月ほど過ぎて、光源氏様は二条院におわしたれば、紫の君、御近くに付き添いて、いとも美しき片生いの若さにて無邪気に遊ばされるる。
「紅の衣はかうも懐かしき美しき物でありけりか。末摘花がまとった色あせた醜い色合いとは、まるで違う。人によってはこうも衣の色は変わるものか」
と、君が見ゆるに、紫姫は無文様の桜の色合わせ、表に白、裏地に赤の袿を細長なよらかに着成して、薄紅の小袖をまとった姿、何心もなくて絵本もの見ながら微笑みしたまう有様、いみじう可愛げでろうたし。
「光源氏様、かぐや姫は優しい御じい様と御婆あ様を残して、月へ旅立つのでございますよ。どうして月へ行かなければならないのでしょう。残された御じい様と御婆あ様が可哀そうではありませぬか。ねえねえ、どうして」
と、言いながら庭近くの濡れ縁でくつろいでおわします光源氏様に近付いて絵本をお見せしました。
「姫も御じい様も御婆あ様も可哀そうよのう。しかしこの世には逆らえない運命と言う物があってな。かぐや姫はそれに従ったのだ」
「運命に逆らったらどうなるのでございますか」
「その時は命を落とす」
「まあー、怖い」
とて言って、紫の上は光源氏様の首に抱き着きました。姫の首に回した腕を握り締めながら、
「姫とて、いざとなつたら運命に逆らってはなりませぬぞ。運命に従ったとしても知識があれば身を守ってくれます。若いうちに、うんと勉強しなければなりませぬぞ。紫の上」
「はい、紫はこれからも、うんと勉強して参ります」
「姫は良い子じゃ」
光源氏様は紫君の尼君が天国に召されたのも運命だと説明したかったのですが、紫の上の悲しい顔が思い出されて、胸の中だけに留めました。
紫姫は古代からの教えに従って、御婆婆君が亡くなるまで続けていた御歯黒の習慣の名残りにて、歯を黒く染めると言う嫁の習慣もまだ無かりけるを、まだ少女のように純真に引き繕いておわしたる。
「何時まで経っても子供よのう」
と、光源氏様が嘆き賜えれば、
「紫は大人になどはなりたくありません。このままで良いのです」と言う。
ただ紫の上の気持ちとは裏腹に、眉のけざやかさになりたる目の表情も、美しく清らかになりける。
つづく
二十四(最終回)
『心からなどか、どうしてかうも薄汚い世の中を素直に見集め嘆きかうらむ。かく心苦しき我が色恋の欲望の物も、近々迫り来る気配を見感じて至らで。現実の男が女を襲う醜さを知ったら、紫の上はどうなることか』
と、思しつつ、紫の上は光源氏様の欲望とは裏腹に、例の尼君が嘆き悲しんだように、もろとも無邪気に雛人形遊びを仕賜う。
大きな和紙に、かぐや姫が月に昇って行く絵など描きて、墨の外に色取りも仕賜う。何もかもよろずに、気ままにおかしうすさび、描き散らかし賜いけり。
「紫の上、麻呂にも少し描かせて給えかし。麻呂はかぐや姫の悲しい姿を描くとしよう」
「まあ、嬉しうございますわ。光源氏様。どうぞこちらへお越しくださいませ」
「あい、分かった」
我も紫の君が描いている和紙に寄り添い、月へ旅立つ姫を描きて添え賜う。髪、いと長き女を描き賜いて、鼻に紅を付けて見賜うに、美人の顔形に描きても、見賜う気失して、絵を描き賜う気持ちも冷ましたり。
「光源氏様、そのかぐや姫の御姿、どう見ても変でございますわ。赤鼻など気味が悪く。紫はこのような御人は嫌いです」
と言う。
「そうよのう。誰が見ても嫌な女じゃ、嫌いになるよのう」
とて言って、光源氏様は御自分が描いた絵を取ってじっくり見賜う。
ふと傍らに置かれた我が御身影の姿が、紫姫の鏡台に写れる御顔を見賜うが、いと我ながら清らかなる好青年に見立て賜いて、
「我ながらいい男ぞ」と、微笑み賜う。
手づから先ほどの筆を持ち出して、自分の顔に赤鼻を描き付けにて微笑みして見賜うに、鏡に写し出された我が顔は、
『これほど醜い男はどこにもおるまい』
と思うほど不気味に変化して、
「かくも良き顔だに、さても紅が交じれらむは見苦しかる、恥べかりける。おおー、嫌じゃこんな顔。紫の上、麻呂の顔をじつと見てみよ」
「いやー、変。ほほほ・・・おかしうございますわ」
姫君、いみじく笑い賜う。
「麻呂がかくこのように、傍ら醜い男に成りなむ時、紫の上は、それでも麻呂の近くに居てお仕えして下さるか。如何ならむ」
と光源氏様がのたまえば、
「うたてこそあらめ。気味が悪くて我慢なりません」
とて言って、さもや、紅色がそのまま鼻に染み付かむかと心配して、あやうく逃げ出したく思い賜えり。
空拭いをして、
「紫の上、見てみよ。これでどうじゃ、姫。姫の前に天下一の美青年が現れおったぞ」
「まだ少し、紅の色が残っておりまする」
「困った姫じゃ。更にこそ丁寧に拭いて、白き御化粧の真似を仕賜うぞ。用無きすさび技なりや。男が白い化粧をするなど気乗りがせぬ。内裏の桐壺帝に、如何に、説明のたまわむとすらむ。平時に白い化粧は御法度ぞ」
と、いと真面目やかに、のたまうを、
「紫の上は白い鼻も嫌いでございまする。何も化粧などしない方が良いのです」
と、返事する。姫君のむきになった言い方が、いと愛おしく可愛いと思して、
「今度は姫の顔に赤鼻を描いてみようぞ。鼻を赤く塗っても、姫はきっと美しい女に見ゆるぞ」
とて言って、寄りて赤い筆を差し向ければ、姫は我が鼻も赤くなったように思えて、袖で顔を拭い賜えば、
「平貞文中納言がしたように、姫の顔に色どり添え賜うな。赤からむは、あえて嫌いなむ」
とむきになって怒る。
「姫に嫌われたなら、我が人生は終わりじゃ。麻呂の目はこのように涙が溢れている」
とて言って、光源氏様が手持ち水て濡らした顔を見せれば、
「ほほほ・・・。光源氏様。御自分の顔を鏡に映してじっくり御覧て下さいませ。その嘘泣きには度々騙されぬぞえ。目の周りが真っ黒に染まっておいでじゃぞ。鏡に写して、御自分の顔をじっくり御覧くださいませ。熊五郎も良い所でございますわ。おほほほ・・・」
と姫君は大げさに笑い給う。
「何っ」
と言って光源氏様が鏡を見賜うと、目の周りが黒くなっている。
「もう姫は嘘泣きには騙されぬぞえ。平中納言の妾がしたように、光源氏様の手持ち水に墨を垂らしておきました」
「よくもやったな、姫。こんな顔は我慢できません。如何にお仕置きしてくれようぞ。今度は黒い鼻にしてやる」
とて言って姫を捕まえようとすれば、
「逃げるが勝でございます」とて言って急いで立ち去ろうとする。
「待て」
懐手拭いで顔を拭きながら姫君を追い回す御二人の戯れ賜う有様、いとおかしき妹背、仲の良い兄妹の関係と見え賜えり。
この日は陽射しのいとうららかなるに、何時しかと霞み渡れる一月の半ばのほどにて、木々の梢ども赤みを帯びて、冬の心元なき小春日和りの中にも梅は景色張み、つぼみは膨らみかけて、
『我が恋の春だ』と微笑み渡れる。
取り分けて見ゆる寝殿南の大階段の下、はし隠しの庭元の紅梅、いと特にも早咲きの花にて、すでに色付きにけり。
「紅の、花ぞあやなく、うとまるる 梅の立ち枝は 懐かしけれど
紅の 鼻ぞあやなく 疎まるる 梅の屋敷は 懐かしけれど
いでや、末摘花を放ったらかしにして良いものか。あのうっとうしい姫に対して悩みは尽きぬわい。ふうー、どうしたものか、疲れるのおー」
と、あいなく打ち嘆き、うめかれ賜う。
『光源氏様、末摘花や命婦に係わる人々の末々、あの者どもはこれから如何になりけむ。少しは残された人々の御気持ちを御考え下され』
空蝉や軒端の荻の事も思い出しながら、紫式部は末摘花の巻を閉じる事と致します。
おわり
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