かってに源氏物語 空蝉 方違え編
夕顔前編、後編の完全版が12月30日、22世紀アートを通じて、アマゾンより電子書籍として発売されました。、
関連した花の写真を折り混ぜた楽しい内容です。まだ夕顔の花の正体を解き明かす写真も多数掲載されております。
桐壺編同様是非ともご期待下さい。是非とも買って見てね。
かってに源氏物語 空蝉編
古語・現代語同時訳
上鑪幸雄
原作者 紫式部
空蝉編 一
光源氏様は、その後も空蝉が忘れられず何度か御屋敷を御訪ねしたのですが、一向に進展がありません。空蝉は今夜もその気があるように見せかけて、若い青年の恋を拒み続けております。
光源氏様は今宵も空蝉が住まう屋敷を訪ねておられました。
「この白い手の柔らかさ、髪の匂い、なかなか良い気持ちだ。こうしてそなたに触れていると心が休まる」
光源氏様は空蝉を近くに抱き寄せ、左手で空蝉の手を握り、もう片方は髪の毛を指先で撫でまわしました。近くのお世話女房達も、二人が逢瀬を繰り返す間に目が慣れて来て、
ただの子供のじゃれ合いのように見えて、それほど気にしなくなりました。二人は一向にそれ以上の進展がなかったのです。
「どうだ、今宵こそ二人で夜を共に明かそうではないか。近くにいる女房共も、『どうぞ、好き勝手にして下さいませ』と、誰も気にしなくなっているではないか」
「また、そのような我儘を。私は伊予の介の妻でございます。そのような申し入れを受ける事はできません。私もそろそろ疲れて参りましたので、光源氏様は正殿へお帰り下さいませ」
「いやじゃ」
「私は北の廂に戻らせて頂きます。そなたたちの二人、光源氏様をお部屋にお連れせよ」と伊予の介の妻が言うと、
「かしこまりました」
とて言って、二人の女房は深々と頭を下げました。光源氏様は仕方なしに、手燭を持った二人に従うように、自分のお部屋へ御戻りになられました。正殿の広い部屋へ戻るられましても、
寝られぬままには御目だけさえて、空蝉の誘うような眼差しが一向に忘れられません。
「我はかく人々に憎まれはしても、美しいと世間の評判に上がり、ほとんどの事は見逃して好きなようにさせる慣わしが有りぬるを、今宵はなむ。初めて憂鬱しと世の中を思い知りぬれば、いとも腹立たし。
男として強引に相手を説き伏せねば、恥かしいくて、臆病者と生き永らうまじく馬鹿にされ続けよう。目的を果たしてこそ、名誉の思いになりぬれて、男としての面目が立ちようぞ」
などとのたまえれば、涙さえこぼれ出でて悔しさに夜具に臥したり。
いと、このような悲しさを見せ付けられては、私こと紫式部は、ろうたしげに可哀そうに思す。目を閉じると、
手探りの細く小さきほどの指先を、いと長々かりて、乱れざりし足元まで伸びた柔らかな髪の気配の様、分けてとぎほぐすように何度も繰り返えし通いたるも、思いなしにや目に浮かび、哀れにや忘れられぬなり。
あながちにその一方では、人妻に関わりらづらい隠れ部屋にたどり寄らむも、人として悪かろべく、真面目やかに目覚ましく悪い御子だと思して、今宵は何もしない方が良いと、夜を明かしつつ過ごしたり。
例のように、「姉君の部屋へ案内せよ」とのたまい奉まつわさず、夜深う寝静まった時刻に外へ出で賜えれば、この子は愛おしく、なかなかおとなしく眠れぬ性格のようで、騒々しく人騒がせな男だと思す。
光源氏様は未練がましく、空蝉の過ごす奥の部屋を眺めておわします。
それから何日か過ぎて、
女も並々ならず、簡単に片払いして若君を追い出してしまったと思うに、いざ光源氏様からの音信、御消息が絶えてなしとなれば、多少未練心も芽生えて、「いかが御暮しか」と、気に掛かりけり。
懲りずに未練けると思うにも、やがてつれなくされてみると、
『私にそれほど魅力的がなかったのか。無視されるほど安っぽい女に見られていたのか』
と、悩み賜いなりましかば、腹立たしう思いからまし。しいて言うなれば、愛おしき御振る舞いの口説きが、絶えざらむも意に反し、うたて、もっと積極的であると思うべし。
良き程にて、かくてそれほど、ほのぼのした恋に留めて置けば良いものを、扉を閉じめて断てんと思うものの、傍らでは唯ならずとも、何かに期待して外を眺めがちなり。
君は、『心付きなしの薄情な女め』と思しながら、かくそのようにして、映えやむまじう恋しい女と御心に掛かり、自分を人悪ろく未練がましい男と思欲しわびて、小君に、
「いと辛う埋もうれ賜うも気の毒に覚ゆるに、空蝉の心情をしいて思い返せど、自らの心にも従わず、伊予の介に気兼ねして、本心を打ち明けられぬ苦しきを、なんとか叶えさせてやりたいものよ。
去りぬべき絶好の折りを見て、姉君と対面すべく機会をたばかれ」
と、のたまい御車寄せに御渡り来たれば、弟君はわずらわしいと思いはしけれど、掛かる姉の方にても、
「姉君、光源氏様がこちらへ御渡りになるそうでございます」
とて伝えれば、
「何、それは誠か。本当に来て下さるのか。いやいや、また厄介なことになったものだ」
と、のたまいつはすれども、嬉しう覚えけり。
幼き心地に、今度も如何にならん折りにと胸をときめかせ、待ちわびたるに、紀の国守屋敷に光源氏様を引き連れ、下りなどして、女どちの弱弱しい男の姿で御車に乗り賜う。
のどやかなる夕闇の道を、たどたどしげに前駆の者は回りに気遣い、人ごみに紛れるに、小君は光源氏様の正体がばれないようにと、我が車にて目立たぬように率いて奉る。
この子も幼きにして、姉君の迷える心を考えるならば、今回も如何にならむと思せども、さのみそうばかりも言っておれず、燃え上がる主君の思し、のどかに押さえむにまじかりければ、さりげなき装いの姿にて、
「門など内側から横木が鎖される先に到着けねば」と、急ぎおわす
裏口より人に見られぬ方より光源氏様を引き入れて、急ぎ裏木戸の扉を降ろし奉る。小君はまだ若く童なれば、宿直人なども、
「またも屋敷を抜け出して遊びに行ったのか」
と気にも留めず、ことに見入れて追従せず、逆にお菓子など与えるなどして注意を引けば、光源氏様が内門を通り抜けるのも心安し。
光源氏様を屋敷に案内し、東の妻戸近くに奉りて御待ちいただき、我は南の角、隅の間より格子戸を叩き、
「姉君、私です、どうぞ扉を御開け下さい」
と、ののしりて入りぬ。伊予の介の妻を世話する御用達、女房は、
「現わなり。誰かと思ったら、小君様でしたか」 と言うなり。
「謎めいたことをするな。かう熱き折りに、どうしてこの格子は下されたる。息苦しくはないのか」
と、問えば、
「昼より西の御方の、用向きで渡らせ給いて、今は碁など打たせ給う。安全のために、御格子を下ろしていたのです」と言う。
『さては姉君と向かいたらむ客人を見ばや』と思いて、
「姉君にお会いして来る。取次は不要じゃ」と言って奥へ進みぬ。
やをら音をたてぬように奥へ歩み出でて、簾と外の格子の狭間に入り賜いぬ。東の妻戸へ行くと扉を両側へ開き、
「お待たせしました、光源氏様。女中女房に悟られない様に、お静かに御入り下さい」と言って、主を中へ引き入れぬ。
この妻戸に入りつる中の格子は、まだ戸締りの差し木も鎖さねば、隙間より奥見ゆるに、脇に寄りて西ざまに御目を見通し賜えば、女の声する几帳の中の様子が伺える。
この二人の極に立てたる屏風端の片方を押し畳まれるに、影に紛れるべき
几帳なども、暑ければにや風通しが悪いと、衣を上に打ち掛けて、いと良く中の様子がありありと見入れられたる。
「良いのですか、奥方様。これでは中の様子が外から丸見えではあれませぬか。のぞき見でもされたら・・・・・
二
「黙れ黙れ、勝負はまだ終わっておらぬ」
「いい加減にあきらめなされ」
軒端荻は指をかかめて折りながら、
「十、二十つ、三十つ、四十つ・・・」などと数うるさま、道後温泉の湯桁にも似て、たどたどしかる童の数えまじゆう見ゆ。少し品悪く、気後れしたりするほど意地悪なり。一方相手の空蝉は、
例しえなく貞淑な人妻として振る舞い、御袖で口元を覆いて隠し、爽やかに熟女のごとく見せねど、光源氏様が目をじっと見詰け観察し賜えれば、自ずから愛嬌を振りまく流し目の側女に見ゆ。
目少し腫れたる心地して眠たげで、鼻なども鮮やかなる艶やかな所が無う、しわもやつれたようにねびれて、夜更かしに疲れたのか、匂ほしき男の欲情を誘う色気の所も見えず、
「これが自分の恋した空蝉であったのか」
と、魅力がが全くありません。
言い立つなれば、悪ろき老婆に例え寄れる姿容貌を、いと痛う妖艶な人妻のように持て付けて装い、光源氏様が好まされる軒先萩よりは、見所のない女にあらむと、目留めつべき不愉快な様したり。
一方軒端荻は、賑わわしう華やかな愛嬌付きに振る舞いて、華々しくおかしげなるを、いよいよ勝ち誇りかに打ち解けて、笑いなどふざけそぼるれば、男を引き寄せる匂い多く見えて、 近くの柱に隠れて覗くさる方にも、いとおかしき魅力的な人ざまなり。
あわ付けし落ち着きのない女と思しながら、こまめならぬ女を一途に追い求めようとする御心は、これ燃え上がる炎のごとく思し、それを見詰める御目は軒端荻に光を放つ思いにまじかりけり。
これまで見賜う限りの宮中の人は、かくこのように打ち解けたる自由奔放暮らしをする者はこの世になく、身分の高い者に引き繕い、醜い事を側めて見ぬふりをしたる、上辺をのみこそ多いのを見給え。
かく打ち解けたる伊予の介家の人々の、心を飾らぬ有様をかいま見などした思い出は、まだ目にし賜ざりつる事なれば、何心の策略も無う爽やかなる振る舞いは新鮮なり。
宮中の女房共もこのように素直な態度であったならばと、いと欲しく思いながら、久しうこのまま覗き見賜わま欲しきに
「奥方様、渡殿より小君がおいでです。急ぎの用事があるとか」
と、奥より耳打ち話を承った右近らしき女房が、二人の横に進み出て、床に頭を臥しながら申す。
「またよりによって、こんな夜更けに何の用事があるというのだ。大方『光源氏様が私に会いたがっている』とでも言うのだろう。厄介なものよのう」
空蝉は汗ばんだ顔を扇で仰ぎながら言いました。
「いいから通しなさい」
「かしこまりました」
連絡に来た女房は弱弱しい声で返事して奥へ出て行きました。代わりに小君が訪ねて来ます。
「姉上、まだ起きておいででしたとはようございました。光源氏様が・・・」
「ほうれごらんなさい、軒端萩どの。『光源氏様が御訪ねしたい」と言うのであろう』
空蝉は囲碁の相手の女に向かって目くばせしました」
「いいえ、もう光源氏様がこちらへおいでなのです。お会いして挨拶するだけでも良いのだと」
「なに、もうこちらへお越しだと。そんな馬鹿な、誰からもそのような連絡は受けて折らぬ」
「それが御忍びで参られたのです。せっかくですから姉上、一度お会いして下さい」
「そなたという奴はとんでもない手引きを・・・軒端の萩殿、こうしてはおられません。そなたは急いで供を従え、西の寝殿へ帰りなされ。光源氏様に見られでもしたら大変です。内側より厳重に差し木を止めて、一歩も外へ出てはなりませなぞえ」
「承知致しました」
言うが早いか、軒端の萩は急いで本殿を出て行きました。
「さあて小君、光源氏様には『姉は熱が出て、早くから休んでおります。今宵は誰ともお会いできません』と、伝えよ」
「でも・・・」
「何をしているのです。とにかくそう伝えよ」
「分かりました」
子君は不満ながらも渋々出て行きました。
三
光源氏様はまだ二人の碁の様子を見て居たかったのですが、残念ながら小君、御身を探しに出で来る心地すれば、仕方なしにそこを、やをら出で賜いぬ。
若君は再び元の、渡殿の戸口に寄り居賜えり。小君の取り計らいを成果はなかったと思いながらも、いとかたじけなしと思いて、
「空蝉との面会はどうなった」
と、お聞きになれば、
「例ならぬ先客の人はべりて碁など打たせはべれば、私など、え近うも寄せ付けはべらず。碁が終わりますと、熱があるとかで、今宵は早々と床に臥するそうでございます」
「さて今宵もや『帰してん』と、追い出そうとする。いと浅ましう辛うこそあれべけれ。やっとの思いで訪ねて来たと言うに」
と、のたえば、
「などて、どうしてか、先客を遠く西の彼方に帰りさせはべりなば、急いで自分事もたばかり、お部屋を奇麗に片付けはべりなん。珍しき香料など炊くなどしております」
と聞こゆ。
「さても部屋を奇麗に片付けたともなれば、新しく客を迎える準備をしてるまでのこと。さも麻呂に心がなびかしつべき景色にこそあらめ。童なれど、物事を判断すべき心映え、中々のものではないか。
人の心景色、良く見つべく深く読んでおると見える。誰も来なくなった静まれる夜を」と思すになりけり。
一方、空蝉の部屋に於いては、碁打ち果てつるその後の事であらむ。打ちぞよめく心地して、そこに居た人々、散り散りに離るる気配などする様子なり。光源氏様と小君はそこへ近づいて参りました。
「若君はいづくにおわしますにならむ。この御格子の留め金は差してん、開けようとしても開きません」
と言う下女房の声聞こゆ。
「光源氏様、どう致しましょう」
とて言って、外から止め金を鳴らすなり。
「しっ、静かにせぬか。夜は静まりぬなり。何としてでも中へ入りて、さらば、わしを中へ引き入れるべく空蝉にたばかれ」
とのたまう。
この子も、先に地方へ嫁いだ姉の妹、空蝉の御心は、たわむ所なく真面目立ちて貞操を重んじたれば、主を世話する女房の誰かにも言い合わせ、手引きする方なくて、逢引きは難しいと思うなり。
誰もが寝静まり、人少なくならん折りに、光源氏様を入れ奉らんと思うなりけり。
「紀の守の妹、軒端の萩もこなた、空蝉と同じ部屋にあるか。我に少しかいま見せよ」
と、光源氏様がのたまえど、
「いかでか、どこにおわしますかさは分かりません。ここにはべらんと見えまする。入口の格子には几帳添えて、中を見せぬようにしはべり」
と聞こゆ。
「逆かし、惜しい事をした。先ほど見たばかりなのに、されども『もう居ないとは』と、おかしく思せど、『わしは今さっき見つ』とは知らせじ。のぞき見を恥ずかしく思す。
「空蝉よりも軒端の萩が愛おし」と思して、「早く会わねば夜更くるばかりぞ。朝になってしまうではないか」
などのふがいなさ、心配事の心もとなさのたまう。
こたみは正式に妻戸を叩きて空蝉を呼ぶ。運よく童見習いが戸を開けたのを良い事に中へ入る。みな人々、静まり寝にけり。
「おう、誰かと思ったら、見習いの君ではないか。助かった。今宵はこの障子口に麻呂は寝たらむ。麻呂が見張りをするゆえ、この扉は風吹き通させて、涼しくしてやる。奥で休め」
とて言って、御座の薄い畳広げてその上に臥す。空蝉側近の上女房、姉御達は東の廂に、いと運よくあまた集いて寝たるべし気配なり。
戸放ち去りつる童も、そなたの東廂に入りて姉御女房と共に臥しぬれば、入り口には誰もおらぬと思える。・・・とばかりに空寝して周りの様子伺うも静かなり。
昼間となれば日差が入る明かるき方、入り口に屏風広げて中を隠せば、光源氏様の影ほのかなるに、やをら静々と主を入れ奉る。
いかにぞ、屏風の内側に誰か見張りをする女房はおらぬかと、おこがましき事もこそ起らぬと思すに、いと慎ましく慎重になりけれど、周りは静かにて、何の警戒した様子も見当たらぬ。
光源氏様は小君が導くままに母屋に入りて、奥の空蝉の寝所へそっと音をたてぬように近づくなり。几帳の帷子の布を引き上げて、いとやをら静かに忍び入り賜うとすれど、皆静まれる夜の音の気配、柔らかなる・・・・
つづく
四
横に臥し近くで見賜えれば、相手の夜の御着の気配ほのぼのとして、柔らかなる腰巻の下いとの場所も知るかりけり。その糸を静かに引けば、結びはさらりとほどけて、布は開くなり。女は、
「ようこそ、良く忘れもせず来て下されました。私はずっと前から待っておったのです」
とばかり、忍び来賜うを嬉しきに思いなせど、怪しく夢のようなる心地に思えて、これも意識が心を離るる幻想の折りなき頃にて、眠りに心溶けたる入り口の境だに、中々寝られずなむ。
夜は覚め 昼は長めに 暮らされて 春は木の芽も いとなかりける
夜は目ざめ 昼は退屈 閉ざされて 春は芽吹きも 無き暮らしなり
昼は人々の暮らしをのんびり眺め、夜は眠れぬ寝覚めがちなれば、この暮らし春ならむ季節に例えれば、木もいと芽吹くことなく嘆かわしきに、碁打ちつる君、夢心地なり。
今宵は夢に現れたこなたに相手をしてと、今めかしく打ち語らいて、夢心地に男に侵される姿を想像して寝にけり。君は無抵抗の空蝉を抱いて本願を遂げにけり。
「さて女はこの事を知っているのか、夢でも見ているのか。それとも寝たふりをしているのか」
と、不思議に思す。
隣の部屋に行くと、若き人は何心なく空蝉との愛をしるべきもなく、いと良うまどろみ寝たるべし気配がする。光源氏様が御近付きになられますと、若き軒端の萩は掛かる男の気配、いと香ばしく打ち匂うて迫り来るに驚く。
顔もたげるに足元を伺い見れば、一重打ち掛けたる几帳の横の隙間に、暗けれど、打ち身じろき忍び寄る賊の気配、いと著し。
「これぞ浅ましく、よくも女の寝所へ忍び込んだものだ」
と、覚えて、ともかくも思い分かれず逃れようと、やをらそっと起き出でて、涼しなる薄い単衣を一つ着て、その寝床から滑るように裾を引き、静かに引いて出でにけり。
君はその気配に御気付きになられず、軒端の萩の寝所に入り賜いて、だれも居なくなった床にただ一人臥したるを心安く、幸せに思す。
「ここでじっと待てば、若き女は戻ってくるやも」
と思す。ここには若い女の匂いが有り、程好い温もりある。残された上衣をじっと握り締める。
寝所の下手に目をやると、床張りの一段下に、二人ばかりぞ軒端の萩の侍女臥したる。寝所と侍女の部屋を隔てる几帳の絹を押しやりて、女房に寄り賜えるに、女どもは動かず。
軒端の萩の碁打ちたる有りし先ほどの気配よりは、物々しく脅えたように覚ゆれど、大して魅力的と思欲しくも依らずかし。いぎたなき口臭の匂いの様などぞ、怪しく変わり果て、ぶよぶよ太った女中女房など薄汚さも思えば、その気も失せにける。
ようよう我に返り、寝所の周りを見回わらはし賜いて、浅ましく御身の愚かさに御気付き賜う。
「よくもこのような大胆なことをしでかしたものだ」
と、心やましけれど、人違え、下郎女房へたどり着きて見えんも、おこがましく馬鹿げた行為に思えて、怪しく愚かな事と思うべし。
本意の人、紀伊守の妹を訪ね寄らむも、これほどかばかり逃れる心あめれば、
「危険を犯してまで夜這いに来てはみたが、甲斐無う無駄を起こしにこそ、ここにはそれほどの価値なし思わめ」と思す。
かのおかしかり・・・・
つづく
最終回
しかし、
「かのおかしかりつる空蝉と軒端萩の、碁打ちつる魅力的な灯影の情景ならば、いかがせむ。二人を我が者とし、二条院へ連れて帰りたくないのか。無邪気な妹を、それでもあきらめて思いを遂げぬまま逃げ出すのか」
などと未練に思しなさるも、悪ろき御心、浅ましく軽率になめりかし。
空蝉はようよう目覚めて、光源氏様が忍び込んで襲われた気配、いと苦痛に覚えず浅ましきに、あきれたる表情の景色にて、何の代償を求める策略も、心深く相手を屈服させるる野心の、いと欲しき用意の考えもなし。ただ、止めどもなく涙は流れ落ちるばかりである。
世の中をまだ知らぬ軒端の萩ほどよりは、さればみ道理をわきまえたる方にて、あえかにも慌てず泣き叫んだり、警護の者を呼んだりせず、物事に思い惑わず冷静に行動する。
光源氏様は、ただひたすら涙を落とし忍び泣く空蝉を御覧あそばして、
「我は今ここにおる。そんなに悲しまないで賜うれ。責任は私が取る」
とも知らせ慰めじと思欲せど、
寝て気付かねまま襲われたとなれば、相手がわしだとは知るよしもない。いかにして自分の名誉を保てるか。重臣どもに咎められでもしたらどうしよう。このまま証拠を見せぬように、姿を隠した方が良いのか』
などと、掛かる不名誉な事にぞと、後々の事に思いを巡らし、慎重なさむも当然な事なり。
我がために何の得策事にもならねど、あの辛き人、空蝉のあながちに悲しみを考えるならば、
「暖かく慰め、秘密に空蝉の名を包み隠さむも必要なり。伊予の介の妻もなれば上の上のいい玉ではないか」とも思す。
さすがに悲しむ人妻を見て愛おしければ、恥を忍んで空蝉の前に姿を現して、度々の御方違えに事付け賜いし、迷惑を掛けたさまを、
「本当に迷惑を掛けてしまった。わしはそなたが好きてたまらなかったのだ」
とて言って、いと良う言いなし賜う。
寝所に辿らむ襲われた人は、相手が身分の高い高貴な方で逆らえないと心得つべけれど、まだいと若き頼りにならぬ若造の心地に、
「見ればまだ若き子供のくせに、さこそ良ううぬ惚れやがって、差し過ぎたる大人を襲うとはけしからん」
と思うやうなれど、相手の一途な思いに、得しとも悪くとも思い分けかれず、憎しとの思いはなけれど、帝王様の御子に御心留まるべきゆえの価値も無き心地して、なをかの憂れたき腹立たしい人の心を、末恐ろしくいみじく思す、
「いずくから這い紛れてここへ来たらむ。若君を固くなし、愚か者と思いたらむ人は大勢いましょうぞ。かく執念深き人は『世間ではありがたきものを』と思すにしても、私は納得できません」
などと、空蝉はあや憎くに紛れ給う怒りに出でられ給う。しかし、
この人の生半端な心ではなく、若やかなる情熱の気配も哀れなれば、さすがに空蝉は愛に溺れて情け情けしく、
「二度とこのような軽はずみな事はなさいませんように」
と、光源氏様に秘密を契り置かせ給う。
「わしとそなたの関係を、世間の人が知りたる事よりも、そなたがかようなる悲しみに明け暮れるは、哀れも添う被害者の事と笑われなむ。昔人も言いける。被害者として笑われるよりは、合い好きたる人と思い給えよ。
包むことなく好きにしも演技あらねば、身ながら心に燃え任すまじく惚れた振りをしなければ、世間をうらやましがらせる二人として難ありける。努めて楽しく明るく振舞えば、世間は呆れて目をそむける。
また去るべき伊予の介の人々も、許されじ姦淫かしと、兼ねてより胸痛く思いなん。努めて明るく振舞われよ。わしもそなたの事は気に留めておく。忘れで時が来るのを待ち給えよ」
などと言い置きて、かの忍び込んだ時に脱ぎ捨て、滑らしたると見ゆる軒端萩の薄衣を、取りて部屋を出で賜いぬ。
子君近こう入り口に臥したるを叩き起こし賜えれば、君は姉君に苦しい思いをさせてしまったと、後ろめたう思いつつ、うとうとと寝ければ、ふと叩き起こされて驚きぬ。
眠そうな目をして戸をやをら静かに押し開くるに、廂の外に人影が二人ほど現れて驚きぬ。老いたる姉御達の頭の声にて、
「あれは誰そ」
と、驚ろ驚ろしく付き人に問う。
「さあ誰でございましょう。私もまったく存じ上げません」
と随身の女房が答ゆれば、小君は返す言葉もなく後ろめたく思いて、扉の内側から、
「果てどうしたものか、何と説明すれば良いのだろう」
とて言って・・・・・
つづく
さて空蝉の最終場面、これからがますます面白くなるのですが、これから後は
電子書籍としてか、別の方法で発表します。長い間の愛読、ありがとうございました。
その後の空蝉は、伊予の介の上京により伊予の国へ都落ちするのですが、その状況につきましては、十二月に発売されました『夕顔編』の中で描かれております。 そちらも参考にして下さい。
最後に光源氏様が迷いながらも、空蝉に自分の気持ちを伝える歌と、その返歌を掲載します。
空蝉の 身をかへてける 木のもとに なお人柄の 懐かしきかな
空蝉の 身を反りかえる 私のもとに 愛の深さの 懐かしきかな
光源氏様は畳み紙にこの歌を書いて小君に託すのですが、
「届けよ」とは言いません。しかし、小君は姉君の悲しむ顔を見て渡してしまいます。
空蝉の 羽に置く露の 木隠れて 忍び忍びに 濡るる袖かな
空蝉の 羽に照る光 木隠れて 忍び忍びに 落つ涙かな
光源氏様の思いを知った空蝉は、受け取った畳み紙の片つ方、裏側に自分の思いを書いてしまいました。それが光源氏様に届いたかどうかは分かりません。
終わり
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源氏物語では帚木編と空蝉編の区別が付きにくいです。と云うのも、あらすじから二つの物語を区別するならば、帚木の後半、三分の一ほどは空蝉の冒頭となっているように思えるからです。
前にも言いましたように帚木編は理屈っぽくて難解、物語性に乏しくて面白味がありません。そこでここの編を見捨てさせなくするために、空蝉の冒頭を加えた。
そう考えますと、源氏物語の編集者は商売上手です。専門家によっては物語の内容から、帚木と空蝉の間に『方違え』を加える人もします。そうすると物語の内容を区別するには分かりやすいです。
ただしそうすると、『方違え編』と『空蝉編』の区別が分かりにくく、空蝉編は短くなってしまいます。
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方違え編 序幕
上鑪幸雄
暗くなるほどに夜も迫った頃です。侍女長が光源氏の前に現れてこんなことを突然言いました。
「光源氏様、こんな時間に言うのも何ですが、葵様の占い師が申しますには、今宵陰陽道の中神がこちらの方向におわしますれば、内裏宮殿よりは塞がりてはべりけり、縁起の悪い場所なりき。
お泊りなさるには方角が悪く凶とお考え下さい。私どもが方違えの屋敷を探しますゆえ、急いでお出かけの準備をなさって下さいませ。ここの屋敷にはお泊めできません」
と言うごとく聞こゆ。
「逆し、まさにその通りであった。例にはここも忌み嫌う方違えなりけり。二条院にも同じことが言える筋にて、いずこにか違えむか。困ったことよのう。いと悩ましき折に」
とて言って、左大臣家の正殿、大殿に籠れり。
「いと怪しきことになりけり。葵姫を『熱きに』とけなしたことが、左大臣家の人々を怒らせてしまったのだろうか」
と、これかれつぶやき、反省した声が聞こゆ。
光源氏様は、今夜は義理でも、葵の上と夜を共にするつもりで謝罪したかったのですが、ほっとしたような、残念なような、仲間外れにされたような複雑な気持ちです。
あの葵の上のお高く止まった顔や、そっけない冷たい態度を見ないよりは、まだましだと思ったりしました。
「光源氏様、方違えの屋敷が決まりました。紀伊守家にて、ここの主に親しく仕え奉る人の、京極中川渡りなる家なむ」
と、葵姫付きの上級女房が伝えはべりき。
まさしくその通り、方違えの家に選ばれたのは、最近、寝殿造りの家や庭を改築した紀伊守の屋敷でした。そこはとても田舎風で美しいと評判で、鴨川と合流する支流の近くにあって静かな所でした。
家臣の惟光が門番に、
『光源氏様が御泊りになります』と告げますと、門番は困ったような顔をします。屋敷の中はどうも
『先客がいていっぱいだ』と、言うのです。
しかし、紀伊守家は左大臣や光源氏様にとって臣下の家柄ですから、申し入れを断るわけには参りません。若君と惟光は少し待たされましたが、門番は紀伊守をお連れして、小さな脇戸から出て参りました。
「これはこれは光源氏様、このような田舎造りの家にお越し下さいますとは、光栄でございます。あいにく今夜は、父の後妻が同じような事情によりまして、私どもの館に先に泊りに来ております。
こんな時間に後妻を帰すことも出来ませんので、家の中は騒々しくなっておりますが、どうぞ御勘弁下さいませ」
紀伊守はあわてて衣服を着替えた様子で、息を弾ませながら言いました。
「何を申す。この私の方こそ突然お訪ねして、お願いしたのでございますぞ。すまんのう、私はにぎやかな方が好きじゃゆえ、どうぞ気兼ねせずに泊めて給うれ」
光源氏様は門の外での、対応に相手をして御話しされました。
「ありがとう存じます。さあ、こちらからどうぞ」
紀伊守は門番に檜の真新しい正門を開けさせて、そこから案内ました。東の対の建物や、泉殿へ続くの廊下には人の気配がします。どうやら早くから宴会が始まっていた様子でした。
東の対の階段を上って行くと、そこには十人ほどの家来が酒を飲んでふらついていました。紀伊守の家来や、留守を預かる父の伊予の介の家来どもということでした。
「そなたたち何をしている。道を開けぬか。源氏の若君がおいでじゃぞ」
と、叱りました。家来たちはあわてて酒膳を片隅に片付けて、深々と檜の床に頭を伏せました。
廊下の壇上から改めて庭を見ますと、石組の池の周りに紀ノ川から取り寄せたという緑色の石や、白い蛍石が惜しげもなく使われています。幻想的な屋敷です。
もともとそこにあったのか、老木の松が傾いた様子は、石をふんだんに配置したこの屋敷にはとても似会っていました。
「あの二つの田舎風の建物は誰に造らせたのですか」
光源氏様は車宿りと、池の向こう側に立つ泉殿が茅ぶきであることを不思議に思い尋ねました。貴族の館は檜の皮で葺いた桧皮葺が多いのです。掛け軸に描かれた仙人の家のごとく懐かしい気がしました。
「あれは父君が紀伊の国に赴任しておりました時に、『新居にふさわしいだろう』と言って、田辺の豪族に命じて送り届けさせたものなのです。ここの建物に使われた外側の材木は、すべて紀州産の古い材木を使っております」
「それでか。新築にしては落ち着いた雰囲気があると思った」
光源氏様は感心なされて言いました。
「かたじけのうございます。それでは正殿の方へ案内致します。あちらの南廂からご覧いただきますと、我が家の建物全体がほど良く見渡せるかと存じます」
東の対から正殿へ続く廊下に出ますと、多くの蛍が飛び交っています。さっき見た池の周りにも何匹かは居たのですが、それに比べると鑓水の辺りは比べ物にならないぐらい多い数です。
「蛍を飼っているのか」
光源氏様は御尋ねになられました。
「中川から池に水を引いているのですが、そこの水か澄み切ってとてもきれいなのでしょう。鑓水の小川が緩やかで住み心地が良いのか、蛍の幼虫が多く住みついているようでございます。それでご覧の有様です」
「是非とも桐壺帝にお見せしたいものだ」
光源氏様は感心して飛び交う様子を眺めています。
「恐れ入ります」
正殿の前に立つと、格子の中に何人かの女人がいる気配がしました。その中の二人は高貴な方のようで、互いに盃をやり取りしています。
「そなたたち、何をしている。光源氏様がおいでじゃぞ。早く北の対へ戻らぬか」
紀伊守は御格子の外から中に向かって、むっとした様子で二人に言いました。二人はそれでも笑っております。
「今宵は雨上がりで久しぶりに気持ちの良い夜ですもの。もう少しここに居させて下さいましな。伊予介の北の方様も、
『このような美しい蛍は見たこともない』と、言っておられますゆえ」
紀伊守の奥方らしい人が言いました。
「だいたい女人が人前でお酒を飲むなどけしからん。早く奥へ引っ込め」
紀伊守は荒い口調で言いました。
「あらっ、それは女人に対する差別でございますわ。女人が御酒を飲んではいけないという法律がありましたでしょうか。ねえ、伊予の介どの」
格子に映る影が、もう一人の方に向かって言いました。
「そうでございますよ。女人だって浮世を楽しむ権利がございますわ。屋敷の外へ出て楽しむならいざ知らず、このように建物の中でこっそり楽しむのは良いことですとも。
そうでないと、紀伊守様、北の方様も、あなたに優しくして上げられませんわよ」
伊予の介の奥方はおっとりと、ゆったりとした声で眠そうな声で言いました。
「母君は黙っていて下さい。私の内方に、変な悪い遊びを教えないで下さい。ただでさえ生意気なのですから」
紀伊守の母君は父上の奥方とは言っても、継母でしたので年もここの主人とほとんど変わりません。しかもこの継母は子連れの再婚でしたので、ある程度は世の中のことを知り尽くしています。
「まあ、今宵は良いではないかのう、紀伊守。わらわなら一向に構わぬよし。女人がいるなら尚更に、楽しみが増すというものよ」
光源氏様は三人のやり取りを、にやにや笑いながら聞いていましたが、一向に結論が出ないので横から口を挟みました。
そして三人の飾らない内喧嘩を、うらやましいとも思いました。
『言いたいことを言い、思っていることを吐き出す」
それが夫婦のあるべき姿だと思っておりましたので、
『自分も葵の上とこのような会話が出来たら、どのように楽しいだろう』と、思ったりしました。夫婦喧嘩は犬も食わないと言いますが、これほど気兼ねしない夫婦の会話は聞いたことがありません。
「それならば、致し方がございません」
紀伊守は仕方なく四人分の夜食を用意させました。
中略
二 中幕
光源氏様は東の廂に這入る引き戸を開けようとしましたが、中から鍵が掛っているのか、今度は何回も力を入れても一向に開きません。仕方がないので、通常屋敷の者が出這入りする北の廊下の方へ回りました。
北の扉を開けようとしましたが、そこも同じでした。左右に動かそうとしても、わずかなガタがあるだけで一向に開きません。中は相変わらず真っ暗で人の気配はありませんでした。
光源氏は思い切って扉を叩いてみました。始めの内は何も聞こえなかったのですが、しばらくして
「中将か」という、不安な小さい声が聞こえました。紛れもなく伊予介の奥方の擦れたような声です。相手の女は侍女の中将が帰って来たのだと思っている様子でした。
光源氏は
「私です」と叫びたい心を必死で押えました。もし空蝉が本当に自分を嫌いならば大騒ぎとなり、必死で逃げて行くだろうと思ったからです。紀伊守の『葵様を大事にするように』
という忠告も気になりました。自分がどうしようもなく悪いことをしているようで、罪悪感にも悩まされました。
しかし、ここで引き下がる訳には行きません。ここで逃げて自分の寝室に戻ったのでは、未練心がつのり、いつまでも空蝉のことが忘れられないだろうと思えます。
ここで決着を付けなければならないのです。光源氏様はそのために恥を忍んで、紀伊守の屋敷へ通い続けたのでした。
かといって、再び扉をたたく勇気もありませんでした。伊予介の奥方の居る部屋の近くに居られるだけで幸せなような気もしました。
嫌われて逃げられるよりは、このままじつとして夜を明かしてもいい。側にいられるだけで、ほんのりとした喜びが高まりました。
『明け方になったら自分の寝室へ戻ろう。これが最後だ』
と思って廊下に座り込んだ時です。
北の対へ続く廊下の方から、手燭を持った灯りと共に、足音や着物の床に擦れる音が近付いて来ました。光源氏様はあわてて立ち上がると、西の廊下の角へ周り、灯りを持った主が誰であるか確かめました。
暗闇に隠れて角から覗くと、その人物はやはり侍女の中将のようです。さっき部屋の中から問いかけた奥方の声からも察しが付きました。中将は他にもう一人、中将付きの侍女と一緒でした。
中将は用心深く、廊下に誰も居ないか確かめた上で扉をたたきました。
「奥方様、私でございます。衛門府の中将です。扉を御開け下さい」
中将は言いました。
「やはり中将であったか。ああー、良かった」
中から奥方の声が聞こえます。急に建物の周りが明るくなったような気配が感じられました。ごとごとという音と共に扉が開きます。
「お急ぎ下さい」
中にもいる空蝉の侍女が急ぐように言いました。光源氏様は、後ろにいた侍女が、中将の後に続いて部屋の中に這入ろうとした、その瞬間を待っていました。
後ろから口をふさぎ、抱きかかえるようにして侍女を押えると、その女と共に一体となって中に入りました。
御格子の中に入ると、更に寝室へ続く中の障子も開けられています。障子の中には、白い寝巻きを着て、薄明かりに照らされてた空蝉の姿が見えました。
「どうした。早よう扉を閉めぬか。危ないではないか」
中将が後ろを振り向いて言いました。
「ううっ」
光源氏様が締めつけた侍女はうめき声を上げるのがやっとです。中将はもがく侍女を見て、身の丈もある髪が逆立つほど驚きました。ようやくそこに賊が居ることに気付いたのです。
「ああっ、あなた様は。光源氏様。いったいどうしたことでございましょう。大変でございます。奥方様、光源氏様です。早く御逃げ下さいまし。これ以上、罪を犯してはなりません」
中将は大声で叫びました。
「ああー、なんという・・・」
悲嘆にくれた悲しい声と共に、空蝉が遠くへ逃げて行く姿が見えました。中にいた三・四人の侍女もいっせいに逃げて行きます。寝室の中は、侍女が小道具を蹴飛ばす足音で大騒ぎになりました。
光源氏様が侍女の体を緩めて中扉の寝室に這入ろうとすると、中将は必死で障子を閉めようとして中に入れようとしません。光源氏様は男の力でようやく中将を引き倒し中に入りました。
しかし、中は抜け殻の暗闇だけです。外からは中将と連れの侍女の泣き叫ぶ声が聞こえます。光源氏は気が抜けたように、へたへたと空蝉の寝床に座り込んでしまいました。
「光源氏様、どうなされたのです。あれほど奥方様が『近付いてはなりません』と、お願いしておったではございませんか」
中将は怖い顔をして、座った光源氏様を立ったままで見下ろしています。
「すまぬ、すまぬ。どうしても募る思いを押え切れなかったのだ。頭では悪いと知りながらどうしようもなかった。
せめてこうなったら空蝉にわび状を書こう。怒ったそなたにはすまぬが、紙と筆を持って来て賜もうれ。すぐに文をしたためるから、お奥方に届けてくれぬか。せめて最後の願いだ」
光源氏は寝床に脱ぎ棄ててあった十二単を抱き締めて言いました。紛れもなく伊予介の奥方の匂いが漂い、体の温もりが感じられます。その着物を抱き締めただけで、空蝉がそこに居るかのような、幸せを感じるのでした。
空蝉の 身をかへてける 木のもとに なお人柄の 懐かしきかな
空蝉の 身を反りかえる 私のもとに 愛の深さの 懐かしきかな
蝉の抜け殻のようになった着物を抱き締めながら、私はあなたが飛び去った後も、深く愛した姿を思い出します。
あれは一瞬の幻だったのでしょうか。私は今でもあなたの人柄を思い出して嘆き悲しんでおります。
光源氏は和歌とお詫びの手紙を書き、それを空蝉に渡すよう中将に託しました。
空蝉編おわり・・・・のはずですが
三 終幕
「なぬっ。誰が簡単に空蝉編を終わらせるのじゃ。けしからん。この源氏物語は私こと・・紫式部が書いたのじゃぞ。私に黙ってそう簡単に終わらせてたまるか。
それにあの話の内容は何じゃ。まるででたらめではないか。かってにストリーをこさえやがって。源氏物語は芸術の世界じゃぞ。ストリーなどどうでも良い。
まずは私の本物の源氏物語を読んで下され。
光源氏様は、この程二条の大殿のみ過ごしおわします。
なおいと書き絶えて、空蝉との交流がないとの思うらむ事の、再会を望む気持ちがいと惜しく心に掛かりて悲しければ、苦しく思しわびて紀伊守を屋敷に召したり。
「かのそなたの屋敷で世話を受けし子君、有りし衛門府監督の中納言の子は、いかが過ごしはべるぞや。『こちらに得させて置かむや』と思うが、いかが思いなむ。
ろうたげに賢く見えしを、何かと役に立つと思い、身近に置いて使う人にせむ。上の人事院へも要請を奉らむ」
とのたまえば、
「いと賢き仰せ言葉に思いはべるなり。姉なる伊予の介の北の方に、のたまい聞いて見む」
と申すも、『これは人妻に手を出す手始めではないか』と心配し胸潰れて、
「何とか逃げ口実を取らせせねば」と思せど、
「その姉君は、そなた左大臣の朝臣、紀伊守の妹やもと思われたる。父の妻にしてはそなたと兄妹のように年が近く、伊予の介の奥方ににしては若過ぎると思わむか」
と更に好き好きしくお尋ね賜う。
「さも若くしはべらず。化粧でごまかしてはおりますが、中身は老婆と同じでございます。ここ二年ばかりぞ、かくて病ものしはべれど、親の掟に違えりと思い嘆きて、人前では弱さを見せません。
体も心のままに動き行かぬようになむ、痛々しく見えて苦しいと聞き給うる。若く見えるのは見掛けだけでございます」
「あれのことや、伊予の介は女嫌いと聞き給うぞ。その奥方は人当りもよろしく、中々奇麗な美人と聞こえし人ぞかし。寂しい思いをさせてはならぬ。誠に良しやに再会できるように取り計らえ。」
と、光源氏様が扇で下心を悟られぬように隠し、笑みを浮かべてのたまえば、
「氣しう人妻に易々と惚れてはならじ、見逃しはべらざるるべし。伊予の介と持て離れて、うとうとしく虚ろに暮らしはべれば、世の例えにて留守を預かる女には、睦まじく結び言い寄りはべらずべき。
伊予の介は国の役目に従って地方勤務の身の上でございます。どうぞ国の役目に忠実な人妻のことは放って下さいませ。後日弟君をお連れ致して参ります」
と申す。
さて五・六日余り過ぎて、この子君率いて紀伊守が参れり。細やかにどこが御賢しこく魅力的にとは言えなけれど、なま目きたる若者の気迫の様して、高貴な当て人と見えたり。
「光源氏様が所望致しました子君を連れて参りました。どうぞ、よろしく取り計らい下さいませ」
と紀伊守は光源氏様の前で深々と頭を下げました。
「おう、待っておったぞ。屋敷での方違えの折では大変世話になった」
と、源氏の君が仰せになられますと、小君は外の廂の下にて、
「とんでもございません。大して役に立っておりません」
と、はきはき申しました。紀伊守は二人の会話を聞いて、ある程度親しい間柄と思ったのか、
「お二人が顔見知りならば私は安心でございます。どうぞ光源氏様の好きなようにお導き下さいませ」
と言いました。
「かたじけない。子君は私の配下で暮らすことに不満はないか」
と、光源氏様がのたまえば、
「有り難き幸せでございます。どうぞ今後ともよろしくお願い申し上げます」と言って、小君は礼儀正しく頭を下げました。
紀伊守は二人がまんざら他人行儀でもなかったので安心したのか、
「御二方がある程度顔見知りならば、私も安心致しました。小君よ、何か困った事があったら、わしの屋敷を訪ねて来ると良い」
と、光源氏様の御顔色を伺いながら子君に言うと、君は、
「はい」とだけ軽く答えました。
紀伊守は、小君が余り不安な様子を見せないので安心したのか、
「私はこれにて失礼つかまります。光源氏様、後々の事はよろしくお願い申し上げます」
と言って、足早に立ち去って行きました。
紀伊守の姿が見えなくなると、
「こっちへ、近こう参れ」
と、小君を親しく召し入れて、いと懐かしく昔の兄弟のように語らい賜う。童心地にて素直で笑顔も、いとめでたく嬉しと思う。妹のように世話する姉君のの事も、詳しく聞き賜う。
「そなたの姉君は評判の美人じゃゆえ、何事にも多くの男から言い寄られる事も多かろう」
とて聞けば、
「文なども多く届きて、私に貢物を渡し、会わせるよう迫る者も多くおります」と答ゆる。
「運よく夜を共にした者もおるのか」と、のたまえば・・・・・
中略
四 その後
例の宮殿の内に再び方違えの日数を経給い迫うる頃、さるべき方の来訪者を忌嫌う口実を待ち出でて、光源氏様は葵姫の元へ通うことが出来なくなったと、紀伊守家の方向へ出賜う。
にわかに行楽にまかり出賜ふ真似をして、ついでに立ち寄ったのだと、道の程より折り返して、光源氏様は紀伊守家へおわしましたり。
「先日の方違えのお礼に立ち寄ったのだ」
と、惟光が門番に告げますと、
紀伊守は驚きて、
「お越しになられるのでございましたら、前もってお知らせくださいませ。いきなり来られましては、こちらは何の準備も致しておりません。
と申す。
「いやいやそれほど気を遣わずとも好い。先日の方違えの宵は大変世話になった。鎗水の蛍の風情も中々の物であった。もう一度見せて下され」
と光源氏様のたまえば、紀伊守、
「鑓水の蛍を面目にお越しなられたのですか」
と、かしこまり安堵し喜ぶ。小君には昼間より、
「姉君からの文によれば、『今宵は方違えの日に当たり、それを口実に来て下され』との知らせがあった。かくなむ事情に思い寄れるとなれば、『必ず参る』と伝えよ」」
とのたまい、空蝉との約束を契れり。
この日は明日の明け暮れまで過ごす予定との事で、近くにまつわり付かせ、愛の営みを自然に馴らし賜いたく思えれば、今宵もまず空蝉を近くに召出でて、近くへ呼びたり。
おんなもさる消息の下心ありけるに、周りが『さぞ嫌であろう』と、思い心配したばかりの辛きと思む気持ちの程は、浅ましくもないと思いなされねど、さりともあからさまに打ち解けて、光源氏様と親しくするには軽々しい女と思いなして恥ずかし。
人の激しさ無き二人だけの世界にして有様を見え立て奉りても、味気なく夢のようにして、ただ時間だけが過ぎて行く。空蝉は伊予の介の妻として、光源氏様を寄せ付けようとしません。
周りの人々が気を利かし、
『帝の御子の所望とあらば、屈して従うのが世の定め。決して伊予の介に気兼ねするにあらず』と、小君が諭しても、
「私は夫のある身、このようなはしたないことはできません」
と、嘆きをまたや繰り返し加えむと思い乱れて、なおさても、光源氏様との一夜を待ち付け、誰かに見られることが恥ずかしく眩ゆければ、小君が出でて去りいぬるほどに、世間の聞こえむ事の噂も気になります。
「どうぞ、お二人で御ゆるりとお過ごし下さい」
と言えば、
「いと近ければ傍ら覗かれているようで痛し恥かし。光源氏様との愛が悩ましく苦痛なりければ、忍びて御格子に近寄りて扉を打ち叩かせなどせむに、何時でも助けられるように程好い所におれ」
とて言って、小君を渡殿の控え部屋に行かせ、中将と言いし右近も、屏風で隔てた局としたる隣の部屋に移ろいぬ。
さる心にて・・・・
中略
新発見部分
源氏の君は、いかに計略を張り巡らし、たばかり空蝉をその気にさせなさむと思えども、まだ幼きを純情を後ろめたく待ち臥し悩み賜えるに、
『不器用なる御人好しを捨て切れぬ』と聞こゆれば、権力者にすれば浅ましく気弱に振舞われる姿が、珍しかるに成りける心のほどを、
「身も心も、いと恥ずかしくこそ成りぬれ。早く二条院の我が家に帰りたい」
と、いと愛おしき御気色、気弱な御気配なり。
「者ども、引き上げるぞ」とばかりの強がりも、のたまわず、痛くうめき声を出して、後ろめたしと思したり。
帚木の 心を知らで 園原の 道に彩なく 惑いぬるかな
空蝉の 心も知らで 園原に 愛の彩なく 夢の帚木
「人をその気にさせながら、拒むとは何事ぞ。王子を騙すとは、誰にも聞こえむ方こそなけれ。お前だけだ」
と、のたまえり。
女も、さすがに途惑い、後ろめたく混ざり心乱れければ、
数ならぬ 伏屋に居ふる 名の憂さに あるにもあらず 消ゆる帚木
数ならぬ 浮気の身にて 名も辛し あるにもあらず 帚木の宿
と、強がりを見せたと聞こえたり。
子君、姉君に対しての愛おしさに涙ぐみて、
「『眠たくもあらで』と他人の家を、夜中に惑い歩く姿を見られては、家の人々に『怪しい』と見られうるらむ。今宵は申し訳ありませんが、どうぞご自分の部屋で静かにお過ごし下さませ」
と、詫び給う。
例の供の者どもは、いびき汚なしに深く眠り込んで、光源氏様の休む場所も無ければ、ひと所のように、すずろにすざましく空蝉の事を思し続けらるることは無けれど、どうしたものか迷っておわします。
人に似ぬ心様の、光源氏様に対する空蝉のの思いは、なお消えずして立ち昇りけると思いやりて、妬ましく二人で夜を明かす事態に掛かるにつけてこそ、心も安らかに留まれると思したり。
かつ一方では『伊予の介に対しての貞節を守らせてやりたいものだ』と、思しながら目覚ましく辛い気持ちになりければ、『さらば立ち去れ』と思せども、さも空蝉に対する思しは凄まじく、
「空蝉の隠れたらむ所に、なお率いて行け」とのたまえど、小君は、
「いと難しげに内側から鎖を鎖し込められて、人あまたに近寄りはべるめれば、賢げにどうすることもできません」
と聞こゆ。光源氏様は小君の辛さを愛おしいと思えり。
「よし、あ子だに覚悟は良いな。そなたを棄ててそ」とのたまいて、小君を御方払いにして追い出し、伏せ賜えり。
光源氏様の悩みが若く懐かしき思い出となりければ、その御有様をうれしくもめでたしと思いたれば、傲慢でつれなき人よりは、
「なかなか可愛そうに」
と、哀れに思さる人こそ多いとぞ。噂に聞こえたり。
方違え・帚木編おわり
いやいや最後の和歌を読んで、ここまでが帚木編である事をつくづく思い知らされました。許して下され。 かしこ。
帚木は頭の中将の名前ではありませんでした。
中略の部分はは来年三月発売予定の、電子書籍『かってに源氏物語 空蝉編』、完全版へつづきます。心躍る部分が多いのですが・・・気長にお待ち下さい。
上鑪幸雄
まずくても最後まで読んでいただけるとうれしいです。
源氏物語は再開します。